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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

アイリの恋

作者: 佐久間慎

 



 娼婦の娘として、下町で生まれ育ったひとりの少女がいた。


 名前はアイリ。


 アイリは善良で、思いやりのある娘だった。顔立ちは冴えなかったが、年齢に似つかわしくないほど豊満な身体を持ち、どこか艶めいた雰囲気を纏っていた。


 無知で馬鹿だったが、アイリは明るく、大声でよく笑う子でもあった。誰もが仲良く出来ると信じ、毎日を正しく生きようとした。困っている人がいれば手を差し伸べ、どれほど酷い仕打ちを受けても、決して恨むことは無かった。








 ある日、アイリは母親からこう告げられた。


「これからは安心して暮らせるわよ」


 そして連れてこられたのは、これまで見たこともないほど立派な豪邸だった。

 大きな馬車でも余裕で通れる門、隅々まで手入れされた広々とした庭園。

 これまでの貧しい暮らしとは、まるで違う………。


 大勢の召使いに囲まれて重厚なドアを開くと、そこには美しい2人の男性がいた。

 母親から 「この方が、あなたの新しいお義父様とお義兄様よ」と紹介された時、アイリは不思議と納得した。


  ーーこんな天国のような場所には、やっぱり天使が住んでいるんだーー


 しかし、夢のような時間は、そう長くは続かなかった。


 義兄、前妻の息子である青年が、まさに典型的な“悪女”だったアイリの母親のことを、心の底から嫌っていたからだ。

 もちろん、その矛先は娘であるアイリにも向けられていた。


 ある日、庭先の花壇で義兄を見つけたアイリは、嬉しそうに駆け寄り声をかけた。

 けれどちょうどその時、彼女が立っていたのは、義兄の実母が生前、大切にしていたバラのすぐそばだった。


 アイリに対する憎しみをずっと心に抱えていた義兄の怒りは、その瞬間ついに爆発した。無防備に手を差し伸べ、握手を求めようとしたアイリに向かって、義兄は怒りのままに彼女を殴りつけたのである。


 口の中から血が噴き出し、アイリの前歯が一本折れた。

 激痛の中………よくわからないが、殴られたということは、多分義兄の怒ることを自分がしたのだろう。

 アイリは義兄にごめんないさいと謝った。こういうときはとにかく謝れ、とは母からの教えだ。


 その日の夜、アイリの母は、深夜アイリの部屋をこっそりと訪れた。「あんた、またドジをやらかしたのね?ほんと、鈍臭い子。まあでも、傷が顔で良かったわ。あんたの価値はその身体なんだから」と苦笑した。


 そんなことがあったが、それでもアイリは、美しく聡明な義兄のことを恐れることなく尊敬していた。


 義父も母も不細工なアイリをほとんど無視していて、母からは夫婦にあまり近づくなと言われていたから義父とは仲良くなることが出来なかったけれど、義兄のことについて母は何もアイリに言わなかった。


 だから、義兄に声をかけるときは、親しみを込めて自分の持ちうる最高の笑顔を向けた。


 殴られたことなど、すぐに忘れてしまった。アイリは馬鹿だった。








 義兄は、そんな馬鹿なアイリに戸惑っていた。


 いくらもとから不細工だとはいえ、男の力で女を殴ってしまうなど、やってはいけないことだ。

 完全な八つ当たり。

 アイリを殴ったのは、ただそれだけの理由だった。


 感情が表に出にくい義兄は、アイリに対してどう接すれば良いかわからず、結局いつも無視してしまっていた。


 しかし、その後もアイリが友好的に接し続けたことで、少しずつだが苦言という名のアドバイスをするようになっていった。


 アイリはそれがありがたかった。








 義兄の体調が思わしくないのでは、とアイリが気づいたのは、それからしばらく経った頃のことだった。

 美しい横顔が、日に日に青ざめていくように感じる。


 アイリたち母子がこの豪邸にやってきてからというもの、義兄はなぜか急激に忙しくなっていった。それに、ひどくストレスを抱えているようにも見える。

 アイリはその事を両親に相談しようと思ったが、最近は義父や母の姿を見かけることが少なくなっていた。


「おにいさま、大丈夫ですか?」


 気の利いた事も言えない、アイリはそんな言葉しか知らなかったが、毎日時間を見つけては義兄に会いに行き、馬鹿のひとつ覚えのようにそう尋ね続けた。


 義兄は、困ったように眉を下げた。


 実は、アイリの母親が義父を誘惑して遊びまわっているせいで、そのしわ寄せが義兄にきていたのだ。


 しかしそれはアイリのせいではない。


 手伝いたいと言い自分の周りをうろつくアイリは何の役にもたたなかったが、それでも自分を理解をしようとして側にいてくれる………。


「大丈夫だ」


 アイリの方を見ないまま、義兄はそう返事をした。


 そんな義兄が何を考えているのかはわからなかったが、でもだからこそ、アイリはますます義兄の側に寄り添った。















 こうして1年が過ぎた。


 アイリは14才になり、そして初めての恋をした。

 それは優しい庭師見習いの少年だった。

 二人はすぐに両思いになった。


 とても賢かった庭師見習いの少年は、アイリの状況や身の上のことをすぐに理解した。

 少年は、自分だけに貞操を捧げてほしいと言い、アイリはそれを約束した。


 しかし、そんな儚く静かな関係は、長く続くはずもなかった。

 ふたりの仲は、ほどなくして家族に知られてしまったのだ。


 アイリの義父は、何のためらいもなく少年の首をはねた。

 義父は母を溺愛する反面、不細工な顔をしたアイリのことは邪魔だとさえ思っていた。しかし、身体だけは早熟なアイリを、いつかは政略結婚に使うつもりだったのだ。


「馬鹿な子ね………」


 アイリの母は無表情に、誰にも聞こえないようにそう呟いた。








 ある日を境に、庭師の少年が待ち合わせに来なくなった。


 アイリにはそれがなぜかはわからかったが、きっと彼にも何か来れない理由があるのだろうと思った。

 だから、約束の時間にはいつも必ず約束の場所へと足を運んだ。


 だが1週間が経ち、1ヶ月が経ち、そして1年が経っても、庭師見習いの少年は現れなかった。

 それでも、アイリは当たり前のようにまた少年と会えると信じていた。


 だって彼は、ちゃんとアイリにこう言ったのだ。


「また、ここで会おうね」








 そうして時は流れ、アイリは15才になった。


 優秀な家庭教師がついているにも関わらず、アイリは相変わらず礼儀作法も教養もなかなか身に付けることが出来ずにいた。


 しかしこの頃になると、どんなに出来が悪かろうが、自分が与えた課題を真面目に頑張り、いつも笑顔で「今日もよろしくお願いします!」と元気に懐いてくる教え子に情がわく教師も現れ始めていた。


「アイリお嬢様が」


 ある日、アイリの様子を定期的に報告する家庭教師の一人が、義兄に向かって、少し控えめにこう言った。


「今日も、待っておいでです」


 その言葉に、義兄がふと窓の外に目を向けると、そこには今日も課題を終わらせたアイリが、庭の片隅にある木に背中を預けているのが見えた。


 そういえば前に、いつも課題を時間通りに終わらせられないアイリを、それでも必ず来ると信じて長い時間あの木の下で待っていた少年がいたような気がする。確か、庭師見習いながら、見目の良い聡明な少年だった。


「あれに唆されたばかりに、不幸な死に方をしたものだ」


 少年の最後は、あっけないものだった。

 騎士に問答無用で森の奥に連れて行かれ、そこで首を切られ殺された後、そのまま森の獣の餌になった。


 少年を不憫に思った騎士が「死ぬ前に言い残すことはないか?」と少年に聞くと、彼は「それでもアイリの恋人になりたかったんだ」と答えたという。


 平民が令嬢に手を出すなど、絶対に隠し通せるわけがないし許されることでもない。

 それでも、少年はアイリとの恋を選んだ。


 そして、なにも知らない馬鹿なアイリは、初恋の少年を失ったことを未だ知らずに、彼の帰りを待ち続けている。


「本当に、あいつらは二人とも馬鹿だ」


 去年見た、幸せそうに笑い合う初で純粋な二人の姿が、義兄の脳裏にうっすらと浮かんた。


 綺麗事ばかりでは、この貴族社会では生きていけない。


 あのアイリという義妹は、父にとっても自分にとっても駒でしかない。


 それでも、前歯の無い不細工な顔を幸せそうにほころばせながら木陰に佇むアイリを見て、


 義兄の目から、一粒の涙が溢れ落ちた。















 その年の春、アイリが16才の誕生日を迎えた日。


 アイリは義父から、遠く離れた学校に通うことを命じられた。

 そして、屋敷から通うのは不可能な距離だったため、アイリは学校の敷地内にある貴族専用の寄宿舎へ引っ越すことになった。


 その知らせを聞いた時、アイリはこの屋敷に来て以来、初めて激しく抵抗した。

 どうしても離れたくない場所があったのだ。


 アイリには、待ち合わせの約束があった。

 大好きな彼は「また、ここで会おうね」と言っていた。約束したのだ。


 けれど、どれだけ泣いても訴えても、無駄だった。結局アイリは、無理やり学校の寄宿舎へ向かう馬車に乗せられてしまった。


 馬車の揺れに身を任せながら、アイリは待ち合わせのことばかりを考えていた。


 しかし、だいぶ遠くに来たはずなのに、いつになっても馬車は学校には到着しない。

 進路を変え、森の奥深くへと入っていく。どんどん木々が濃くなり、やがてあたりが静寂に包まれた頃………やっと馬車が止まった。


 アイリは学校に着いたのだと思った。待ち合わせはどうすればいいのか………そんな事ばかり考えながら、馬車の戸を開けて外に降りた。




 するとそこには、


 美しく成長した、元庭師見習いの青年が立っていた。




「アイリ」


 相変わらず質素な服を着て、昔のように両手を広げてアイリの名前を呼ぶ。


 身長も髪の長さも変わったけれど、その優しいほほ笑みは、庭の手入れをしながらアイリを優しく見つめた過去の少年そのままだった。




「木の下で待ち合わせじゃなかったの?」


「ちょっとだけ予定が変わったんだ」




 彼はそう言って、強くアイリを抱きしめた。















「あの少年を殺すことは、自分には出来ませんでした」


 当時、嘘をついた罪悪感に耐えかねた騎士からその報告を受けたアイリの義兄は、すぐに動いた。

 真実を告白したその騎士に金を渡し、少年のもとへ向かわせると、二人を隣国へと逃がしたのだ。


 義兄は、アイリを政略結婚の駒にするために学校に入れようとした義父の目を盗み、騎士と少年が隣国で生活の基盤を成り立たせたちょうどその頃に、アイリを隣国におくった。


 そして義父には、騎士とアンリが寄宿舎への移動中の森で獣に襲われて死んだと報告したのだった。








「やっと厄介者がいなくなった」


 義兄は窓の外を見ながら、そっと微笑んだ。


 今頃は、隣国ではサクラという花が満開だという。


 いつかそれを見に行くのも悪くない。

 そんな考えが、ふと浮かび。


 義兄は本当に久しぶりに、ゆったりとくつろげる午後のティータイムを過ごすことが出来たのだった。








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