とっくり田中
自分は、ちゃんと人の声を聞けているだろうか。
誰かに対して、見下した態度をとっていないだろうか。
それに気づかせてくれるのは、意外と年上の立派な誰か、ではない。
むしろ、地味で、控えめで、何も言わずに頭を下げているような人の姿だったりする。
この物語は、あるコンビニで出会った、年齢も立場も違うふたりの話です。
ひとりは、腰の低い中年のアルバイト。もうひとりは、少し傲慢だった若者。
声を荒げることも、感情をぶつけることもない日々のなかで、すこしずつ変わっていった心のかたちを短編で書きました。
田中志郎、五十二歳。
小太りで首が太く、ずんぐりとした体つきは、どこか「とっくり」を思わせた。冬にタートルネックを着ると、その印象はいっそう際立った。大学四年の翔は、そんな田中を密かに見下していた。
「いらっしゃいませ」の声はやたら丁寧で、腰の低さは度を超えている。
「そこまでしなくてよくないっすか?」と翔が言っても、田中は穏やかに笑って「もう癖なんだ」と答えるだけだった。
ある夜、酔った客が店内で騒ぎ出した。翔が戸惑う中、田中は落ち着いた声で対応した。相手の話を最後まで聞き、無駄に刺激せず、しっかりと警察への対応までこなした。
「田中さんって、昔からそうだったんですか?」
休憩中に聞くと、田中は少し遠くを見るような目で話し始めた。
「いや、昔は全然違った。大きな会社で部長をしてたよ。君の大学の先輩も働いてたようなところだ」
翔は驚いた。
「けど、部下が横領してね。責任を取って辞めた。原因は自分にあったんだ。声を聞かず、威圧ばかりしてたから、誰も何も言えなかった。結果的に、追い詰めてしまったんだよ」
言葉は淡々としていたが、重みがあった。
「だから今は、人の声に耳を傾けて、謙虚でいようと決めたんだ」
翔はそれから田中を見る目を改めた。ただの腰の低いバイトではない。ブレず、誠実に働くその姿は、翔にとってひとつの指標になっていった。
そして三年後、翔は社会人二年目になった。
尊敬できない上司の下で、苛立つ日々もある。それでも、腐らずに踏みとどまっていられるのは、
あのコンビニで見た、田中の背中を覚えているからだった。
「田中さんみたいに、俺も頑張らなきゃな」
つぶやきながら、翔は今日も背筋を少しだけ伸ばした。