八話
『口入屋』と名乗るその店の主と思しき人物は入れ直したお茶を私に差し出すと、ここがどこなのか。私が今どのような状況にあるのかを改めてはじめから説明してくれた。
「今、わたし達がいるこの場所を所在としての〝どこ〟というものでは説明ができません。あなたが知っている場所を〝現実〟とするなら、この場所はきっと〝夢〟という言葉が近いのでしょう。もしくは隙間のようなもの。現実の隣にある場所という表現で適切なものが他にあるなら、その中の何か。ここはそんな場所です」
店主の言っていることはまるで理解ができなかった。どれもが私の求めた回答ではなかったのだ。それでも、伝えようとする姿勢からは偽りや何かを隠そう、煙に巻こう、というような不誠実さは感じられない。
「あなたは何らかの理由でその現実から、この隙間に来てしまったのです。体が、という訳ではなく。意識、心、魂、などと言った方がイメージし易いでしょうか。今のあなたは〝肉体のあなた〟から離れた〝割れ人〟つまりは迷子なのですよ」
自分から離れていくような感覚。あれは文字通り肉体から意識が離れてしまった感覚だったのか。
「そこでわたしの出番です」と、店主は語気を荒げてから帳簿のような紙の束を取り出し、芝居がかった動作でテーブルにぴしゃりと投げつけた。
自分を強く思い出しながら答えてくださいね、と前置きのあと「わたしにあなたを説明してください」と質問が始まった。
「では、お名前を教えてください」
私の名前は――
「……わかりません」
答えられなかった。ごく自然に口にしようとした瞬間、わからなかったのだ。これでは『いぬのおまわりさん』の子猫と同じではないか。恥ずかしさに両手にぎゅっと力が入った。顔を上げられない。
自分の名前がわからない。この年でそんな間の抜けたことはない。いくら自分のことがわからないからと言って決まっている名前が言えないなんて。
そんな羞恥に固まっていると、「大丈夫」と一言を置いて店主はそのまま質問を続ける。
「住所と年齢、それからご職業を教えてください」
「住所……えっと、ごめんなさい。わからないです。歳はたしか、24です。職業は……無職です」
嫌になるほど書いたはずの名前や住所が全く思い出せない。暗闇に落とされた訳ではない、自分が誰かもわかっている、記憶もある。なのに、その二つが抜け落ちたようにどうしても言えない。わからない。
職業については、就職活動中と言いかけて、やめた。ただの体のいい言葉と思ったからだ。意欲の有無もあるだろうが、結局はどう見られるかを気にした体裁であり無駄な主張だと。今は関係ないと結論付けた。
「それから、最後の記憶で覚えている風景。考えていた内容。思い出せるもの全て、どんなに抽象的なキーワードでもいいので言葉にしてみてください」
初めは質問内容に面接を連想して身構えた、そのあとドラマで見たことのある警察の事情聴取と思ったら、さっきの紙芝居を思い出して……私の気持ちは少し楽になっていた。
落ち着いて思い出す。見た風景、考えていたこと、思い出せる範囲のもの全部、手当たり次第すべてを言葉にした。
ただ質問に答えていただけなのに一言、一言、言葉のあとに押し寄せる疲労感。脱力してしまいそうになる。
答えたあと、記帳する店主を見て疑問が浮かんだ。ああ、店主は文字が……。
「私が書きましょうか?」
失礼を承知で申し出てみた。
すると店主が帳簿をこちらに向け「大丈夫ですよ」と綺麗な文字を見せてくれた。
「あれ?」
思わず口をついてしまった。
「不思議ですか? これはあなたの言葉を写したもの」
「えっ、私の?」
確かに、その文字はなんの脚色や加筆もない私が話した通りの言葉。
「言葉とは力を持っています。受け手や送り手のみならず、周りの環境にも影響を与える。ここはそんな影響が形をもってしまう場所。筆はただの道具に過ぎませが、それを文字を書くものと認識しているわたし達はもう影響を受けています。だからこうして文字を書ける」
そう店主は説明をし「わたし自身は文字を書くのが下手ですけどね」と付け足した。
言葉の力、筆と認識したから書ける筆……何を言っているのかわからない。
さらに疑問が湧き上がる。
「私の耳はどうして聞こえるようになったのですか?」
おそらくあの小筆に何か秘密があるのだろう。
店主のイタズラとも思える行動を思い出しながら尋ねた。
「口では説明しづらいので、少し例え話を。――天岩戸の話はご存知ですか?」
「はい、あまり詳しくはないですけど大体は……」
天岩戸、それは日本神話だ。
弟の須佐之男命が姉の天照大御神にいやがらせの数々をして、怒った天照大御神が天岩戸へ閉じ籠ってしまうという話。それで困った神々が天岩戸の前で宴会を開き、天照大御神の気を引くことで岩戸を開けさせるという有名な神話。
「閉じ籠った相手に、ただノックや呼びかけをしてもあまり効果はありません。それは都合を通した一方的なものですからね。むしろ悪化してしまうこともあります。わたしがしたのは、まずあなたに〝話したい〟と思ってもらうこと。あの段階では筆談という手段がその気持ちを邪魔していたので、わざと読めない字を書いて諦めてもらいました」
あの難読文字はわざとだったのか……。
「次に興味や疑問ですね。丁度、紙芝居を作っていたので、それが役に立ちました」
そうだ。私はあの絵で単純な疑問が湧き、店主にも興味を持った。紙芝居のゆるい絵柄に緊張が解れたというのもある。
「じゃあ、あの小筆にはどんな意味が?」
言葉の影響、文字を写す筆。一体どんなすごい力が。
「イタズラです」
は?
思わぬ即答が真顔で返ってきた。
「やってみたかった。では、ダメでしょうか?」
えっ……。
「あなたの驚く顔が見て見たかった、というのは半分冗談で。無理だって認識してしまったもの、決めしけてしまったものを崩してもらうためにわざと怒ってもらいました。筆もただの小筆ですよ」
私はまた言葉を失くした。