七話
一枚目の紙には青い帽子を被った茶色の犬の絵が描かれていた。あまり上手とは言えないが、それが犬だとわかるし、警官のようにも見える。
少し可愛い。柴犬だろうか。
二枚目には飴を手に泣いている縞模様の子猫が描かれており、こっちらもあまり上手とは言えないが可愛らしかった。
三枚目には泣いている子猫と困った顔の帽子の犬が描かれており、犬の吹き出しには家の絵が描かれている。
そこで昔聴いた童謡を思い出した。『いぬのおまわりさん』だ。
四枚目には目を輝かせた帽子の犬に手を引かれる不安そうな子猫。表現に乏しく犬の目はただの星になっていて、少し憎たらしい顔に変わっていた。
五枚目にはもう一匹同じ模様の猫が登場し、泣いている猫と二匹の再会が描かれていて、遠くには満足そうな帽子の犬がいた。
あれ? 『いぬのおまわりさん』には迷子の子猫のお母さんは登場しなかったはず、これは店主のオリジナルなのだろうか。そもそもあれは童謡であって、紙芝居として成立する話ではない。
六枚目には猫は一匹になっていて、笑っていた。帽子の犬も笑っている。
絵の表現力のせいで後半のストーリーがよくわからなかったが、今これを私に見せる意図はなんとなく伝わった。店主が犬のお巡りさんで、迷子が私だ。助けてくれようとしてるのでは、と伝わってくる。
紙芝居が終わると店主は閉じた箱をこちらに見せながらうずうずしだした。布でほとんど見えない顔からは輝かせた目がこちらの見てる気がする。おそらく感想が聞きたいんだ。
どうしようか。絵や紙芝居の良し悪しに対する評価をすればいいのか、伝えたいことへの理解の有無を求められているのだろうか。
正直、紙芝居も店主の意図も概ね理解できたと思う。だが、店主の得意げがなんだが、いま一つ釈然としない。どことなく、さっきの星の目の犬顔が張り付いてくる。ちょっと憎たらしく感じた。
私は目を少し逸らしつつ拍手を送った。店主は拍手に気をよくしたのか、また冷蔵庫を開け両手にビール瓶を持ち勧めようとしてきたので、前より強めの動作で拒否を示した。
そのあとは少し残念そうにして、また奥の方へ行ってしまった。
戻ってきた店主の手には小筆のようなもの。店主はそのまま私の横まで一気に詰め寄り、向きを変えようとした私をそのままでいいと手で静止させた。真横で屈まれ、ひどく落ち着かない。すぐそこにいる。でも、音が聞こえない。相手が何をするのかわからない。緊張と恐怖で体が硬直する。
首の可動域が相手の姿を捉えるが全身ではない、時折見えなくなったりもする。
さっき会ったばかりの人。短時間では人となり、どういう人かなんてわかるわけがない。どれもこれも私の勝手な想像だ。勝手に想像して、勝手に納得して、曖昧に気を許した。
店主の行動が全く予想できない。……怖い。
次の瞬間、耳に何かが触れた気がした。
音はない、ただ感触だけが……。
――ふさ、ふささささ――
っ!? えっ!?
「なにするんですか!!!」
身をひるがえし、思わず叫んでしまった。
驚きと急に立ち上がったことで目が眩む。
でも、あれ?
今、音が。私の、声が。
店主に目をやると小筆を指先で弄ばせながら、得意そうな顔が透けて見えた気がした。耳の不快感と店主の表情への感情が重なった。
眉を顰め不快感を示しつつも、問題の一つであった、音が聞こえない事はとりあえず解決した。
不快な行為への批判と抗議。今何をしたのか。そもそもここはどこなのか。直接言葉にできると気持ちが逸り、纏まらないまま言葉が溢れてくる。
「ここはやめてください! 何をどこなんですか今!」
自分で言って意味がわからなかった。ここはやめてとは、どこなら許容できるというのか。そもそも後半に至ってはただの呪文。
〝ナニヲドコナンデスカイマ〟
何も起きない呪文だ。
「んっ、んんん、あの――」
喉の調子を直し、自身を呼吸で落ち着かせ、先ほどの言葉は無かったことにした。
「どこならよかったのでしょう? ぜひ参考までに」
落ち着いた声がなかったことにしようとした言葉を返してくる。
「いや、あの、どこもよくないです……はい」
「そうですか……後半は聞き取れませんでした。申し訳ありませんが、もう一度言ってもらえませんか?」
穏やかな響きが自身の混乱を再び赤面させる。どうせなら前半を聞き逃してほしかった。忘れて、――お願いだから。
訂正を入れたあとで再び店主に何をしたのかを尋ねた。すると店主はまた穏やかな語調で話し始める。
「あなたが忘れようとしたものを少し加えただけです」
私の忘れようとしたもの? 加えた?
「あなたは言葉を嫌った。音を閉ざした。そして自身から離れてしまったのです」
言葉を嫌った? 音を閉ざした? 言っている意味がわからない。
でも、少し考えてから心当たりに止まった。誰にも届かない言葉。返ってこない言葉。一方的な言葉。誰にも宛てられていない言葉……。
〝耳のない言葉〟
そうだ、私は言葉なんていらないと思ったのだ。返らない言葉ならいらない。突きつけるだけの言葉ならいらない。
〝いらない〟〝聞きたくない〟と。
耳を塞いだのは私だ。自己防衛なのか、ストレス性の難聴なのかと原因を探しながら、もう一つの言葉に気付く。
「……自身から離れた?」
店主の言葉に耳を疑いながらも、記憶の中で自分から離れていく光景が蘇える。半ば夢だと思おうとしていた光景が、あの離れていく感覚が、どうしても忘れられない。
「自身から離れてしまった人。つまり、あなたのような方をわたしは割れ人と呼んでいます」
「われびと?」店主の言葉を反復した。
「わたしは『口入屋』です。そのような割れ人となってしまった方を元の体に還すのがわたしの仕事なのです」
聞き終えても今ひとつ状況や言葉が飲み込めない。しかし、妙な納得はある。どうしても、あの、自分から離れていく感覚が忘れられないからだ。
それが『割れ人』割れる、という表現とリンクする。
「本来の意味での『口入屋』とは職業の斡旋、口利き、仲介屋のことらしいでですが、わたしはこの名前が気に入っているので使っているのです」
店主が少し微笑んでいるように見えた。
「今は飲み込めないこと。混乱もあるでしょう。もう一度、順を追って説明をしますのでお座りください」
そして店主はこう続けた。
「あなたのは何がしたいですか?――願いを叶えましょう」