六話
動揺が駆けめぐる。私はどうしてしまったのか、そもそも目の前にあるお店の人とどのように話せばいいのかわからなくなる。聞こえないということは自分の声もわからなくなるということ、相手にちゃんと話せているのかわからなくなる。
不安が込み上げると、途端に焦りだし、緊張に体が強張って、視線が定まらない。
しかし、視線はすぐ一つに落ち着く。そしてくぎ付けになった。先ほどの『口入屋』と掲げられたお店の前に人影を捉えたからだ。
暖簾を分けて、私を店の中へ促しているように見える。着物姿の、性別が少しわからない……。
その人は顔の上半を白い布らしき面で隠し、外套に身を包み、反物をそのまま使ったような襟巻きをしていた。襟巻は首から肩先辺りを無造作に巻きつけても尚、生地を余らせている。
〝布のお化〟というのが一番の感想。柳の下にでもいたら間違いなく幽霊か妖怪の類だ。そんな私の視線を察してか、その人物は一度振り返り幽霊のような手しぐさをしてみせた。
異質な姿はどこか堂に入って見える。不思議なほど、不信感や嫌悪感などは覚えなかったのだ。この真っ白な環境のせいだろうか。パリコレみたいな感覚なのかもしれない。あれも街中や日常では浮いてしまう格好でも、会場で見ればきっと芸術なのだ。
それでも好奇心は湧いてくる。なぜそんな格好を、と。しかし、顔や体を隠しているのは何か後ろめたさがあるから、などと下手な詮索を入れたり、外見が異なるという理由だけで好奇の目を向けるのはよくないこと、という思いが私の中から思考をすぐさま塗り替える。
驚きはあったが私はすぐさま順応しようとしていた。
招くように店の中へ促すしぐさを捉える。私がいつまでも茫然としていると、寒いのか身を縮こまらせるよう。
私は自身の音が聞こえないという問題よりも、まず、目の前の人に申し訳ないという気持ちになり、暖簾の方へ足を運ぶことにした。
私が困ったまま会釈をすると店の店主であろうも何も言わず、少しの微笑みを返してくれた。顔を隠していても少しの表情は読み取れる。多くの布で体を隠しているせいで男性か女性かわからなかったが、近付いてみると女性のような気がしてくる。目鼻は隠しているが唇は薄く紅い。髪は長く、着物と同じく白く色が抜けていた。
布間から見える肌も雪のように白い。
〝雪女〟そんな未確認の存在をまた目の前に実在する人物に想像してしまう。
身長は平均より低い私より、やや高そう。体を布で覆っているがどこか華奢で、物腰には落ち着きがある。年上の女性、綺麗な人と思った。白髪だが、とても老人には見えない。
アルビノ、というのだろうか、遺伝情報の欠損、メラニン色素の欠乏により髪や肌の色が白い、そういう人や動物がいるというのは聞いたことがあった。故に紫外線にも弱いのだとか。この人もそうなのだろうか。未熟な知識を勝手に当てはめて変わった風貌を納得した。
店の中は土間続きと板の間になっており、だいぶ暖かかった。が、何より真っ先に目に飛び込んできたのはお菓子の山。土間に並んだ木製の棚と口を開けたガラス瓶にはたくさんの飴やガム、チョコレートにスナック、酸っぱい昆布にイカ、懐かしいお菓子たちと懐かしいおもちゃ。ここは駄菓子屋さんだったようだ。
お菓子はお菓子でも、和菓子ではなく駄菓子。しかし、ここは天国に違いない。いろんな種類のお菓子たちに好奇心を抑えようがなくなってくる。――が、今はそれどころではないこともわかっていた。
店主は私を板の間の方へ促すと座布団を用意してくれた。恐縮しつつも座布団に座り店主の動向を見守ることにする。
店内には大きいストーブがあった。古い駅舎や古い学校などに置かれているのをテレビで見たことがある。煙突付きのストーブ。頭には当然とヤカンが乗っている。店主はヤカンを取り上げると急須に湯を入れ、お茶を出してくれた。
店主の用意してくれたお茶を少し飲み、気持ちを落ち着かせてから、ジェスチャーで自身の耳を指し、両手でバツを作ったり、喉を指し首を振ったりした。
すると店主はポンと手を打つしぐさのあと、店内にあったガラス窓の冷蔵庫からビール瓶を取り出した。駄菓子屋の風景には少し合わない飲み物。その中にはラムネやオレンジジュースが似合うはずなのに、冷蔵庫の中は独身の冷蔵庫が如く酒類で満たされている。少し馴染みのある光景だ。
私は慌てて両手で制止のジェスチャーを取り、次にテーブルで筆記の動作をして筆談でのコミュニケーションを求めた。
店主は少し考えたあと、またポンと叩き。紙と筆を二組用意すると片方を私の方へ差し出してくれた。
今度はちゃんと伝わった。これでようやく話せる。と、筆を持ってから気付く。店主が用意してくれたのは〝筆〟のみなのだ。ボールペンでも、マジックでもなく、習字や書道で使ったことのある筆。当然、墨がなくては書くことはできない。
困惑と少し催促するように店主に視線を送る。すると、店主は然も有り気なように何もつけていない真っ新な筆を紙へ向かわせた。筆は穂先から墨が滲み、腹へとつたう。店主は流麗な動作で筆を滑らせ、書けると促してくれた。
私はその動作に目を奪われつつも、自身もそれに倣った。仕組みはわからないけど、今はこんな文具があるんだ。と、感心した。
習字の懐かしさを思い出しつつ、思いの外、上手く書けたことに少し嬉しくなった。伝えたい言葉が書けた。
筆のおかげだろうか。墨の加減、筆圧、紙に文字を書くことが気持ち良く感じるほどだった。
書道はあまり得意ではなかっただけに自分の書いたものを持ち帰りたいと思ってしまう。
――私は自分がどこにいるかわかりません――
――現在の場所を教えて頂けませんか――
こう、紙に書き店主に差し出した。私が今一番知りたいことだ。
店主はすぐさま返事に取り掛かり、少し長い文章を書いているようだった。先ほど同様、流麗な動作。有名な歌人か俳人のようなしぐさ。暫くすると手は止まり、書き上げた紙が私に差し出された。
……。
…………。
――読めない。
と、いうより、文字なのだろうか。草書体という訳でもなさそうだ。
地図を書いてくれたのようにも見える。でも、そもそも此処の所在地すらわからないのだ。
文字は先ほどの流麗を写したように迷いなく流れ、弧を描き、それだけを幾度か繰り返しただけの姿だった。
まったく読めない。いや、私に学がないだけであって、達筆すぎる字を解せないだけなのだろう。きっと、こんな、和服で如何にも書が似合いそうな人が字が下手だとか、そもそも文字が書けていないなんてもとはありえない。ないだろう……。たぶん……ないだろう……これは……。
暗号としばらく向き合ってみたが、解読しようとすればするほど変な催眠術にかかるようなった。
素直に首を振って、頭を下げて紙を店主に返した。
何やら店主も納得している様子で紙を受け取り、少し首を傾けたあと、何度か頷いてから席を立った。暫くして戻ってきた店主は薄い木製の箱のようなものを抱えており、対面の私に見せるようにテーブルに着いた。木製の箱は私に対して開かれる。
これは……紙芝居?
店主が少し得意げな素振りで何やら始まった。