三話
断片がまた古い記憶を連れてくる。
嫌なものは嫌なものによく絡まる。
――『あ、能面が笑った』――それは、中学に入学して間もなく、同級生の男子から言われた言葉だった。それに同調して『ふふふふっ』と、周りから湧き上がった笑い声。
休み時間、教室で小学校から仲良しの友達と会話していたとき。突然、別のグループで談笑していた男子が、その言葉を私たちに向けたのだ。
私はその男子と会話をしていたわけではなかった。しかし、何の脈絡もなく、前後の会話もなく、何もないところから突然、その言葉だけが向けられた。
ノリ、とかそういうもの。当時、会話の中で突然、誰かのどこか、外見的、性格的な特徴を粗暴な言葉で指摘することが男女を問わずに流行っていた。
あだ名付けが転じて広まったような気がする。
突然、他人の外見を形容する言葉。粗雑な言葉。それが感覚の共有や共感に繋がり、粗雑な言葉であることが可笑しさを生む。それが〝面白い〟らしい。
入学当初から『怒っている?』と、気遣われることがたまにあった。緊張しやすい性格で、動揺や不安にすぐ表情が強張ってしまうからだと思う。誰かから言われるまで自覚がなかったのだ。
別に怒ってもいないし、ましてや態度が悪い訳でもない。
気難しい性格でもなければ、怒りっぽい性格でもない。冗談も人並みに言うし、多少の下品であれば不快に思うよりも笑ってしまうことの方が多いと思う。
そういう性格。そう、周りの人もある程度は理解してくれているものと思っていた。勝手に思っていたのだ。
小学校は中学校よりも子供の少ない地域にあって、クラスは一つだった。たった十数人の少ない人数、みんながお互いを知っているような仲。私たちは慣れてしまっていたのだ。周りが自分たちを知っていることに。その当たり前に。
それまであまり気にしていなかった、姿を形容する言葉。あだ名や悪口。
外から見られる私、人から見られる私。
自分で思っていた私、違う私。
自分がどう思っていようが、人から言葉を向けられれば〝そうなのかもしれない〟と思ってしまう。そう、思ってしまう。
能面とからかわれていることがショックだったのか、それを誰かに笑われたのがショックだったのか、よくわからない。わからないまま怖かった。人から見られることが怖くなっていった。
思うまま、勝手に誰かを形容する言葉、一方的に突きつける言葉、突然向けられる粗暴な言葉、それが許容されている空気。
それを、ノリと言い、許容できないものはつまらない、ノリが悪い、という空気、あのときの全てが怖かった。
ちゃんと居られているのだろうか。どう見られているのだろうか。そんなことが気になりだしたあと、いつからか鏡ばかりを気にするようになっていた。
そこに映る姿が不安でしかないものになっていた。
これを言われたから、こう言われたから、そんな直接的な言葉や出来事だけが全てじゃない。痛そうなものだけが痛い訳じゃない。
積み重なるのだ。
なんでもないようなものがユラユラと沈んでいく。
重なると曇るのだ。
沈んだ先がドロドロと濁っていく。
言葉の澱。
私の認識する『私』と、家族、友人、知人、外から認識されている『私』。
当然違いはある。それでも自分が誰なのか、置き場の無さが、不安が、どんどん大きなっていき、そのうち、聞こえる声や言葉が自分に向けられた批判や悪口に聞こえてしまうほど、気持ちだけが小さく。そんな頃にはもう、私であったものはどこにもいなく。
誰とも会えなくなってしまった知らない私がいた。
〝自分を見られたくない〟〝私を見ないで〟
今になって思えば、人から見られる自分に折り合いがつけられなかった。アイデンティティを確立できなかった。自己の獲得に失敗した。不安感から自意識過剰になっていた。それだけ。そういう言葉で片が付く。
でも、あの頃はそんなこと自覚なんてできるわけもなく、苦しくて、どうしようもなくて、とても暗かった。本当に、暗かったんだ。
なぜ、そんな自意識に捉われてしまったのか、正直、自分でもよくわからない。単純にそれが思春期というもので、多かれ少なかれ誰もが経験する〝当たり前〟なことなのかもしれない。
ただ、当時の私にとってそれは、とても抜け出せないもので、とても耐えられないもので、ただ、ただ、――時間だけが過ぎたのだ。
人に聞かせれば多くが「〝そんなこと〟」と言うのだろう。決まった言葉のように『気にし過ぎだよ。誰も人のことなんてそこまで見てないよ』と言うのだろう。実際、言われた言葉でもある。
自意識過剰。そんなことわかっている。でも、自分は『誰か』、ではなく『私』なのだ。
そんな過去。過ぎた話。いや、その延長の今。
時間とともに乾いた瘡蓋。そう、今は少し違う。もう、違う。――はず、なのに。
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