後編
――生きてる?
鼓動が確かに聞こえる。かすかだが、確かに聞こえている。彼は生きている。
死んでしまったわけではなかった。冬の寒さに、死んだようになってしまっていただけだったのだ。
「ツバメさん?」
「……おじょう、さん」
「つばめさん、つばめさん!」
必死に呼びかけて、彼の意識を繋ぎ止めた。かろうじて残っている意識が途絶えたら、彼は本当に死んでしまいそうだったから。
そのまま急いで家に戻って、ツバメを暖かくするための毛布やお湯を入れた水筒を持ってきた。親指姫の体では何往復もする必要があったが、そんなものは関係なかった。
何があっても彼を生かさなければいけないと思った。必死に動いた。
親指姫は、こっそりとツバメの元に通った。毎日、毎日水を運び、食事を与えた。彼の体温を温めるためにわらに火を起こして、残火を持ってカイロを作った。冬の寒さで親指姫も凍え、体調を崩してしまいかけたが、そんなことは関係なかった。ただ彼が必要だった。彼を回復させるために、何でもした。
ツバメの心臓の鼓動が動いているか、何度も確かめて、涙した。親指姫の人生で、こんなに必死になったことはないというほど、動いて動いて、彼の命を繋ぎ止めた。彼が死んでしまったら、親指姫は幸せを描くことさえもできなくなると分かっていた。
「南に行ってしまったのではなかったの ?」
「……いや。羽が傷ついてしまって、南に行けなかったんだ。でもお嬢さんのおかげで、ある程度回復してきたよ」
やっと回復したツバメにどうしてあんな場所に居たのか尋ねたら、彼は困ったような顔で答えた。
でも、彼が旅立っていったのはかなり前のことだと思うのだけど、それほど長い期間ここに一人で居たの。どうして、この場所に来たの。私を迎えに来ようとしたのではないの?
心の中に芽生えた疑問。口に出すには、自惚れが過ぎる気がした。
「君が助けてくれなかったら、僕は死んでしまっていたと思う」
「びっくりした。息が止まるかと思った」
「……ありがとう」
「暗闇の中で、横たわったツバメさんの体が冷たくて冷たくて、胸が痛かった」
「……」
「いまにも鼓動が耐えてしまいそうだった。このままもうだめなのかと思った。元気になってくれて良かった」
彼があの暗闇の中で、息絶えてしまうかもしれないとずっと恐怖していた。
こんな暗闇の中じゃなくて、彼はさらに羽ばたいていてほしいのに。幸せを呼ぶ鳥は空に居なくちゃ、夢を運べない。
大空の袂で大きな翼を広げて、悲しみを抱く人の元を訪れる鳥の幻想は、親指姫のつらい道のりを乗り越えるための希望だったのだから。
「2度とあんな風になっちゃダメだよ」
「うん……」
ーー長い沈黙が続いた。
私はいつも彼とどんな話をしていたかしら?
たわいないことをいつも話していた。ツバメはよくいろんな話を知っていた。物知りだった。
女の子が魔女に唆されて、最後には泡になってしまう不思議な物語に、お母さんのように大きな身体を持っている人たちが集まった街の話。世界は地続きになっていて、果てがないこと。
ーー親指姫には想像もできない多くのこと。
ツバメは、これからもたくさんのことを知るだろう。
不思議に思いながら、彼の瞳を覗き込む。つぶらな、真っ黒い瞳。親指姫が持ってきた灯火の揺れで、瞳もゆらゆら揺れる。優しく暖かい瞳だった。お母さんもこんな瞳で私を見てくれていた。
それを見ていると胸が痛くなって、ぎゅっと押さえた。不思議な感じがする。
お母さんはこんな時なんて言っていた? 遠い昔になってしまった日々を、思い返す。
……愛してる。愛している。
「ねえ」
「どうかある? 寒い? 大丈夫?」
沈黙を破ったのは、意を決したようなツバメの声だった。あまりにも必死だから、体調が悪くなったのかと思った。咄嗟に身体が動く。
でも、そうではなかった。
「違うんだ。体調は君のおかげで回復してる」
「だったら、どうしたの?」
「今の僕なら、君を近くの緑の森まで運んであげられる。こんな寂しくて暗いところにいるよりそっちの方が余程いいはずだ。どう? ここから抜け出して、一緒に行かない?」
「……だめ。行けないわ」
「どうして?」
「野ネズミのおばあさんが一人になってしまうから……それはできない。ずっと親切にしてもらったの。おばあさんが居なかったら、わたし、冬を越せなかったから」
「そうか」
「だから、ダメなの……」
野ネズミに会わなければ寒い冬にたった1人で、餓死にしてしまっていたはずだった。
私に親切にしてくれたおばあさんを残して自分だけどこかに行くなんてできなかった。たとえ、苦手なモグラと会わなくてはいけなかったとしても、救ってくれたおばあさんのことは好きだったから。
「ほんとうにそれでいいの?」
ーーツバメの質問に答えられなかった。
時間はあっという間に過ぎていって、季節は春になった。ツバメは身体を完全に回復させ、緑の森へと旅立っていった。うれしそうに鳴きながら空を舞って、本来の居場所へと。
春の恩恵を野ネズミの家の麦たちも多分に受けて、空を覆うように成長しきっていたので、美しく空を飛ぶその姿を見ることは叶わなかったが、想像することは出来た。それだけで十分だった。
『親指姫、あのモグラさんと結婚しなさい』
先日告げられた言葉を思い出して、気が滅入る。本当に唐突なことだった。
親指姫は糸車をぐるぐると回して、糸を巻き取った。クモの糸は頑丈で美しいが、自分のウエディングドレスを作っていると思うと、動きが鈍くなる。
『夏が終えたら、秋になる。秋になったら結婚式を挙げましょう。これからその準備で大忙し。なんの財産も持たないおまえが、モグラさんのような立派な人に嫁げるんだから、ありがたいと思わないとね。大金持ちになれば、食うにも困らないし、何不自由ない生活が送れる。ほんとうに運が良いこと』
飢えの苦しさを知るゆえに、おばあさんの心配もよく分かった。でも、あのモグラが好きではないのも事実なのだ。
相談する相手も見つからないまま、どうしたらいいのか途方に暮れながら、糸を紡ぐ。
自分の意思が介在しない場所で、勝手に物事が進んでいくことに違和感がある。おばあさんはこれで私が幸せになれると言うけど、それは本当に私の幸せなのだろうか。
モグラは親指姫の婚姻が決定したというもの、毎晩親指姫の元にやってくる。話すこともないし、話していても楽しくない。針のむしろに座っているような感覚に襲われながら、その苦行に耐えた。
親指姫が何も話さなくても、モグラは1人で話し続けている。
「私はこのあたりで一番大金持ちなんだ。私を知らない者はここには居ないし、ほしいものは全部手に入れられる。私の名を出せば問題は一つもない。心配すること無く、私の元に来ればいいよ」
「……」
「それよりも親指姫。私が送った服はどうしたんだ。そんなみっともない格好じゃ一緒に外に出ることも出来ないよ。私の妻になるんだから、そのあたりのことはしっかりしてくれないと困る。せっかく美しいのだから、着飾らなくては。そのために送ったんだ」
親指姫はモグラから送られた服は着たくなかった。お金をかけられて作られたドレスはとってもきれいで、美しいものだったけど、それを着てしまえば、モグラとの間に引いた線を飛び越えてしまうと思った。親指姫はモグラを受け入れられない。だから、その好意の象徴も受け入れることはできない。煌びやかなドレスも宝石も、贈り物も親指姫には必要なかった。
このままではいけないと意を決して、おばあさんにモグラと結婚したくないことを伝えた。しかし、その答えは良いものでは無かった。おばあさんはモグラの味方だった。
「今更、そんなこと言えるわけないでしょう? 御祝い金ももらってしまっているし、どれだけお世話になったと思っているの。いま、あなたが食べているものもモグラさんの好意のおかげで食べられているの。気が合わないなら、自分から合わせに行きなさい。結婚してから互いを知れるものよ」
「……モグラさんが苦手なの。結婚しても幸せになれると思えない」
「年寄りの言うことは聞くものだわ」
「でも……」
「わがままを言わないで。おまえは他に何もできないでしょう」
そのときのおばあさんの顔は怖かった。親指姫の言葉を無視する態度も、嫌なことを聞いたと言わんばかりにしかめた表情も。
……モヤモヤする。それ以上に話を聞いてくれないことがつらかった。親指姫はどうしたら良いのか途方に暮れた。
そうしていつのまにか、夏が通り過ぎ、秋になった。
日々は当たり前に変化していって、でも親指姫はどこか取り残されている。
今日は結婚式だ。ドレスも完成して、いろんな人が結婚式にやってくるという。大きなお祝い事だから、皆で祝福するのだと言われた。親指姫の気持ちは関係ないまま、全てが進んでいった。
「とってもきれいだわ。おまえはとても幸せな花嫁になるでしょう」
心の中には大きな空白がある。にこやかに微笑むおばあさんの言うとおりにはなりそうに無かった。
「……緊張してしまって。少し外に出ますね」
「モグラさんもお待ちしてるから、早くね」
モグラと一緒に暮らせば、しばらく外を見ることも難しいだろう。最近は親指姫が何をするにも口を出すようになった。深い洞穴の中で一緒に暮らすことになれば、おばあさんと暮らしている今よりも自由に過ごせなくなるはずだ。
麦は刈り取られ、視界は開けていた。自然は雄大で、親指姫の悩みなんて小さいことのように感じた。
久しぶりに眺める青空を堪能する。青い青い空。誰かが作った世界の、雄大な自由を象徴してる。
光に刺激を受けて、瞬きした。
天高い場所に、鳥が飛んでいる。迂回するようにくるくると回っていた。羨ましい。
私の世界は、このまま閉じてしまうのかしら。親指姫は自分が過ごしてきた日々を思った。
カエルにさらわれて、めだかに助けられ、川を流れて遠い場所にたどり着いた。そこからも波瀾万丈で、命の危険にたくさんあった。食料は自分で確保しなくてはならず、今日食べるものを見つけることにも苦労した。動物に襲われることを警戒して、常に眠りは浅く、隠れて過ごし続けなくてはいけなかった。
ーーたった一人で過ごすことのさみしさ。苦しさ。痛み。誰も誰もいないことは、大きな痛みになって親指姫を襲った。
お母さんと過ごしていたときは楽しかったのに。
何にも困ることはなくて、歌を歌って暮らせていた。ご飯も美味しくて、お母さんも優しくて、辛いことなんてひとつもなかった。……でも、カエルにさらわれていなかったら、外を知ることは無かったかもしれないと思った。
親指姫の世界はあまりにも小さくて、経験したことが無いことがたくさんあった。料理や掃除の仕方、糸の編み方や洋服の作り方。生活に必要な知識を得ることができた。
……それに、ツバメに会えることもなかっただろう。彼に会えたことだけは後悔してない。
だが、これからやってくる未来はどうだろうか。親指姫は後悔しないだろうか。親指姫はこんな未来を望んでいたのか。
いや、そうではなかった。それは誰かによって望まれた未来だった。
自分を見つめる瞳。伸ばされる手。いくつもいくつも。欲望は尽きない。親指姫が望もうと望むまいと他者は親指姫を手に入れようとする。
「……おばあさんの望むとおりにしなくちゃ。助けてもらったんだもの。優しくしてもらったんだもの」
必死で自分を説得しようとする。心の中にはたくさんのモヤモヤがあって、それはどんどん増えるばかりで。
自分の望みはわかりきっていて、でもそれを突き通すには覚悟が足りなくて。誰かのために生きるってこんなことだった? お母さんといた時はどうだった?
『あの子はどこから来たのかって? 知らないわ。ボロボロの姿で、ドアを叩いてきたのよ。冬によ、冬に。冬支度の仕方も知らなくて、大変だったのよ』
『見窄らしい子がやってきたと思ったけれど、よく見れば見目がよかったでしょう? あんな子はここら辺では見ないし、この子はと思ったのよ。私の目は正しかったわ。もしもぐらさんが気に入らなくても、珍しいものをほしいと思うひとはたくさんいるしね。あら、あなたも? 惜しかったわね』
『私もこれで長者の仲間入りね』
ーー誰かの噂話が聞こえる。分かっていたけど、知らないふりをしていた。利用されていること、大事にされているわけでは無いこと。親指姫の話を聞いてくれないのも最初からだった。
耳を塞いで聞いていないふりをしなくちゃ。全部忘れなきゃ。でも無理だ。
「……あぁ!」
親指姫は天を仰いだ。何もかも忘れてしまえればいいのに。
見つめる空があおい。青くて青くて。
憎らしくなった。
そんなこと考えたことも無かったのに。誰かにとっては優しい空が、今の親指姫にとっては身を苛む苦しみになった。顔を小さな手で覆う。
ああ、許されることかしら。誰かが私を手に入れようとするなんて、そんなことは……。
……わたしをてにいれられるのは。
風に乗って降りてくる鳥がいた。旋回しながら、だんだんと近づいてくる。点のように小さく見えた像がその姿をくっきりとあらわにした。
それは親指姫のツバメだ。夏の森で出会った、優しい小鳥だ。
「ツバメさん、私を連れて行って」
親指姫は空をかけた。ツバメを伴い、真っ白なドレスを風に靡かせて。
地上に残されたものたちのことは、もう彼女のこころにはない。
『『空を舞う鳥の、青色の、夢を追いかけた。さあ、さあ、さあ。手を伸ばせば届く場所に、架橋がある。
羽を広げ、風に乗って。欲望を与えて。願いを叶えて。さあ、さあ、さあ』』
夢を追う鳥が、青色の、空を舞う。
二重の歌声が響く。音色は重みを持ち、鳴音と化す。音が反響して、さらに重なっていく。導かれるように、音は響きを変えていった。
ーー麦穂の、魅惑の姫がやってくる。
いつの間にか、地上は緑一面の景色に様変わりしていた。もうすぐに冬になりそうだったのに、その場所はまるで冬なんてやってこないみたいに見えた。
つるバラが壁一面を覆っている宮殿が一つあった。湖のほとりに、木々が横並びになっていて、そこにブドウのつるが巻き付き、房がたくさん実っている。それだけじゃなく、レモンやオレンジも見えた。宮殿の中の方には、それ以上に立派な花畑があった。
「あそこに僕の家があるんだ。君のために作った家じゃないから居心地は悪いかもしれないけど、行ってみたい?」
「えぇ、もちろん」
不思議な感覚に身を任せていた親指姫は、ツバメの声でふと現実に戻り、またぼうっと外の景色を見た。
「ここはとても居心地の良い場所なんだ。凶暴な動物たちも居ないし、潤沢な食べものに優しい人たちがいるよ」
「いつもここで暮らしているの?」
「いや、色んな場所に旅してみたいから、ここにずっと居るわけじゃないけど、やっぱりここに来ると落ち着く気持ちになるよ。親指姫と出会った夏の森もいいんだけど、ここの風はいつも方向が変わらないから、過ごすにはとても良い場所なんだ」
「きれいな場所ね。見たことないお花がいっぱい」
花弁がたくさん重なったもの、小さな花が密集して一つの花に見えるもの。葉っぱのような花。赤い実が実っていて、色が黄色から赤色に変化した花。興味津々で見つめる。
「降りてみる?」
「いいの?」
「君の頼みとあれば、叶えないわけにはいかないさ。君は僕の命の恩人で、大切な人だから」
花の国に降り立った。そこは親指姫とよく似たものたちの国だった。
美しく華奢で、華美であり、優麗だった。色とりどりの花々がそれぞれの美しさを見せ合うように、踊っている。
その様はほんとうに花が咲き誇っているようだった。白いハエの羽を纏った妖精たち。今まで目にしたものの中で、最も美しいだろう。
それでも一番美しいのは、親指姫だった。白き高き、清純な百合の花。
「ここは……」
「お姫様、ようこそ花の王国へ」
やってきたのは、親指姫にも負けないくらいの美しさをもつ王子様だった。物語の中から出てきたみたいに、親指姫の理想の姿をしていた。親指姫よりすこしだけ大きくて、でも親指姫と同じな感じ。この宮殿の主なのだという。
かっこよくて、つい口から「すごくきれい」と言ってしまった。
王子様ははにかんで、「私も君みたいに美しい人は見たことがない」とバラを親指姫にくれた。
「可愛い子。お名前はなんていうの?」
「親指姫」
「親指姫……?」
周りに親指姫と同じくらいの身長をした人々が集まってくる。外からやってきた親指姫が珍しかったのだろうか。
「親指姫だなんて、誰が名付けたの」
「可愛くないお名前ね。親指だなんて」
「へんな名前よ。あなたはとってもかわいいんだから、【マイア】と呼びましょう」
「マイア」「マイア」「マイア」
何度も呼ばれているうちに自分がマイアだと思うようになっていた。親指姫ではなく、愛らしいマイア。自分に相応しい。
「ほんとうに可愛い子ね。あなたは誰よりも美しいわ」
「あなたは王子と結婚する資格があるわ」
「ここにずっと居る気は無いの?」
妖精たちは親指姫にささやき続ける。ここに居ればしあわせになれるわよと。
理想の王子様と結婚をするのはきっと幸せ。それは親指姫の夢の一つでもあった。まるで夢のような空間で、親指姫はプロポーズされた。
「マイア。私と結婚しましょう」
美しい王子に手を引かれて、くるくると花畑を踊る。花弁が風に勢いよく飛ばされ、ドレスも髪も空を舞った。
ーーあ、わたしは。
私はどんな幸せを思い描いていたんだっけ。くるくると回り続ける。
時間が経つのも忘れて、美しい花の宮殿の中で暮らした。そこに居れば、手に入らないものはなかった。
食べたことがない食べもの。とろけそうなお肉やケーキ、チョコレート、真っ白いパン。着たこともない高価なドレス。花びらから作られた褪せることがない帽子、靴。湖の貝が産みだした淡い水色の真珠。宝石。
みんなと一緒に相談してその日のドレスを選び、ご飯を食べて、散歩をして、眠りたい時に眠る。色んな賭け事や遊びもした。
野ネズミと一緒に居た頃の暮らしはもう思い出せなくなっていた。大事に大事にされてきたお母さんと暮らしていたときでさえ、こんな生活を送ったことは無かった。
命じなくても親指姫の目線で、察してくれる。指一つ動かすことなく、すべては親指姫の思い通りになる。
これがわたしのしあわせなんだ。そう思った。愛情をたくさん受けて可愛がってもらって、したいことをして生きること。
ずっと欲しいと思っていたもの。愛とか、優しさとかそういうもの。
『私のかわいい親指姫。愛してる』
――おかあさん。ふと声がして。
鳴き声がした。青空を長い間眺めていないことに気づいた。目が覚めた気がした。
おかしな感じがして、ここから抜け出さなきゃ行けないと思った。ここの窓はどこだっけ。出口は?
出口を探していると、妖精たちが現れた。ここから出ていくにはどうすればいいか尋ねる。
「ここから出るにはどうすればいいの」
「え、どうして出て行くの? ここならマイアが欲しいものは全部手に入るのに」
「美味しいお菓子も、綺麗な服も、優しい友達もできただろう? 君に危害を加えようとする奴らもいない。何がダメなんだ」
「辛いことなんて一つもないから、戻ってきてよ」
何もかも手に入るなら、外に出る必要なんてないでしょう?
「いやよ。だって、それは私の意思じゃないもの」
親指姫はそう答えた。夢から覚めた気持ちだった。
与えられるだけなのは、いやだ。縛り付けられ続けるなら、モグラやカエルと一緒だ。
愛されるのはいい。与えられるのもまあいい。でも、そこに親指姫の意思がないのはダメだ。一方通行ではダメなのだ。
空を見ながら笑い合える人が欲しかった。本音を言いあえる人が欲しかった。
私を見てくれる人が欲しかったのだ。対等になりたかった。所有物なんかじゃなくて。
これじゃ何も変わってない。
「マイア、あなたはそちらにいてはいけない子だ。君に全て狂わされるんだ」
「みんな不幸になる」
「知っている? 君がいなくなってしまった後のお話を。
孤独な女は、君を探して森に出かけて死んでしまった。
優しいメダカたちは、強欲なカエルたちに食べられてしまったよ。
君を救った野ネズミは、怒ったモグラに殺されてしまった。
ああ、なんて可哀想なんだろう」
「でも、ここなら誰も不幸にはならないよ」
妖精たちは囁く。悪魔のように、クスクスと笑いながら、親指姫に手を伸ばしてくる。
「 」
ーー宮殿は静寂に包まれた。
♢
「ツバメさん!」
「……! 遅かったから、何かあったのかと思ったよ」
親指姫が走って戻ってきた。なぜか身に纏っている服や髪型が変わっている。
何日も帰って来ないので、ツバメのことを忘れてしまったのかと思っていた。そんなことはないと知っていたけど、不安だった。
「……なんにもないよ」
何にもないと言うには、表情が暗い。柔らかそうな頬の赤らみが消えて、青ざめて見える。可愛い顔には似合わない表情だ。
「ねえ、ツバメさん。ツバメさんの幸せってなに?」
「え、幸せ?」
突然そんなことを聞かれて困った。
「うーん、空を飛ぶこととか、旅をすること? 自分のやりたいことを見つけて、放浪するのが好きだよ。好きなことをやるって決めてるからね。迷ってる暇なんてないし。
好きをたくさん積み重ねていけば、幸せになるんじゃないかな。楽しいことを積み重ねていってるわけだし」
幸せなんて考えたこともなかったのが本音だが、こう考えてみるとツバメは幸せだ。幸せに生きてる。
「でも、好きなことばかりしていたら、他の大事なことを蔑ろにしてしまわないかしら」
「ははは、それは確かにそうかもしれない。でもね、その大事なことを忘れさえしなければ大丈夫だよ。
不安なら、自分の中に『天秤』を持っているといい。この好きなことは他の大事なことを犠牲にしてもしたいことなのかって、自分に問うんだ」
「天秤?」
「そう。自分のやっていることと大事なことの重さを量るんだ。そうすれば、偏ったことをする前に冷静になれるから」
ーーじゃあ、私は自分の天秤をひっくり返しちゃったのか。
不思議な発言をする親指姫。
天秤はたとえ話だったのだが、彼女の中の良識をひっくり返すような出来事があったのだろうか。
「ひっくり返したってどういうこと」
「ううん、なんでもない」
親指姫は話を続けた。
「ツバメさん。私と一緒にいるのは好き?」
「好きだよ。君と旅をするのは楽しいだろうね」
「私が嫌にならない?」
「どうして? 君を好きになることはあっても嫌いにはならないよ」
「……私、いい子じゃないから」
思い詰めている。悪いことがあったのだと分かった。
「いい子じゃなくてもいいよ。僕を助けてくれたのは君だ。僕は僕に優しくしてくれた君が幸せなら、他のことはどうだっていいんだ。君が一番大切だから」
君が幸せでいるためなら、何と天秤にかけようとも、やってみせる。
羽を広げて、親指姫に乗るように示した。
「……私のツバメさん。幸せが見つかる場所に連れて行って。私に幸せを教えて欲しい」
「いいよ。僕と幸せを見つけに行こうか」
そうして、2人は空へとまた旅立った。
親指姫とツバメは、今も幸せを求めて世界を渡る旅を続けている。