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前編


「かわいいかわいい親指姫」


 口癖になってしまっているのか、女性はその言葉を何度も口ずさんだ。

 部屋にこもる響きは、暖かな炉のように心に火を灯す。やさしく柔らかで、聞くものにおだやかな気持ちさえ抱かせる声だった。

 長い栗毛の髪。張りのある肌。そばかすが頬に散って活動的な印象の、まだ年若い女性は、何をするでもなくぼーっと窓辺に座っていた。

 締め切っているのに、風の音がする。ごおごお揺れている。


 ーー布地がこすれる音に混じって、かすかに音。


 女性は、夕暮れの風にのった鈴の音を聞き取った。愛する娘の声だ。ほんの小さな響きは集中して聴いてみれば、とても愛らしいものだった。ずっと聴いていられる。

「どうしたの?」

 彼女は娘を見つけて、手の中にすくい上げた。 

「おかあさん、おかあさん、お話をして」

 かすかだけれど、はっきりと聞き取れる。

 目線を女性の手の中に向けると、そこには可憐な花がそのまま人になってしまったような、とびっきりかわいらしく愛らしい少女がいた。


 麦の穂が色を変え、実りをもたらす秋のような髪。太陽の光を受けた滴。どれだけ優秀な細工人形師でも作れない細かな手足は、女性の人差し指につかまって頬ずりをしている。

「もちろんよ。何より、誰より愛らしい親指姫。おまえは私の宝。おまえの願いことはなんでも叶えてあげたいわ。この世で一番愛しているから」

 それはとっても幸せな言葉なのに、小さくてか細かった。

 愛情を詰め込めた贈り物の言葉なのに、切なく聞こえるのは、どうしてなのだろう。


 手の中の少女は、「お話をして」とまた繰り返した。バラ色に染まった頬が、ものがたりを求めていた。

「どんなお話が良いかしら。何が聞きたい?」

「綺麗でやさしいおうじさまのお話も好き。幸せをくれる小鳥のお話も好き。おかあさんのしてくれるお話なら何でも好き」

「あら、ありがとう」

 いろいろなお話を常日頃、親指姫にせがまれている女性は、こころの中にずっと秘めていた大事な話をひとつ、親指姫に話すことにした。

「じゃあ、おまえがうまれたときの話をしましょう」


 ーー今より昔のこと。

 ある麓の集落で結婚をした私は、愛する夫と幸せな生活を夢見ていた。

 たくさんの子どもたちに囲まれて、幸せな家族を作ること。それが私の長年の夢だった。

 花に囲まれた庭で、子どもたちと駆け回って、苦しみも幸福もともにしたいと思っていた。

 でも、どれだけ夫を想おうと、私たちの間に愛の結晶は生まれなかった。

 神に祈っても、子どもを授かるためのいろんな努力をしても、それがかなうことはなかった。日々、悲しくて泣いていたわ。ベッドのなかにうずくまって、外に出ることもできなくなっていた。

 そんなある日、夢を見たの。

 鬱蒼とした森の、暗がりの中に一つぽつんと作られた茅葺きの小屋。キノコや苔が周囲に生い茂って、紫色に染めていた。赤や黄色の薬草が植え込まれた庭には、大きな釜があって、そこから立ちこめる黒い煙を見たわ。

 カエルや烏が鳴いていて、とても不気味だった。見たことも聞いたこともない場所だった。

 私はその中に足を踏み入れた。

 夢の中だもの。そこには私の求める人がいるとわかっていた。


 家の中には、小さなおばあさんがいたわ。

 しわがたくさんあって、歩くことも大変そうに見えるほど折れ曲がった体。杖をついて、大きな丸太をちょうど人が一人座れるように切り抜いた、不思議な椅子に腰掛けていた。

「おばあさん、おばあさん。こんにちは」

「あぁ、こんにちは。歓迎されないお客さん」

 しわしわな顔にもっと深いしわが寄せられて、そんなに私がやってきたのが嫌だったのかしらと思った。

「歓迎されないとは失礼だわ」

「フフフ、ここに来るのは叶わない望みばかりをもつものばかり。ワシは歓迎せぬ。それで、今日はどうかしたかい?」

 私はおばあさんに子どもがほしいと相談した。やはり、歓迎されない客だとそのおばあさんは笑ったわ。

「それなら、ちょうどいい。この大麦の種がある」

 これは普通の種ではない。特別な種だ。その種を植木鉢に植えて、毎日植物からとった朝露を与えれば、やがてそれは実になって、あんたの望みを叶えてくれるだろうとおばあさんは言ったわ。

「子どもはできるだろう。その後がどうなるかは知らないよ? それでもいいのかい?」

「ええ、それでもいい」

「くっくっく、愚かだね。でも、いいだろう」

 おばあさんは、「これを与えるには対価が必要だよ」と言って、麦の種を瓶の中から一粒、コロンと取り出した。

「そうだね、対価はおまえが持っている銀貨、ひふみ……。12枚か。……足りるかね。まぁ、いいだろうよ」

 私はそのとき持っていた銀貨12枚をすべて渡し、おばあさんから麦を受け取ったわ。

 それから目が覚めた。そこはいつもの家だったから、夢だと思った。でも、大麦の種を握っていたから、あれは夢ではなかったのかもしれないけれど。

 それから早速、植木鉢に種を植えたの。

 何が起こるか楽しみに見ていると、やがて土が盛り上がって、種が芽生えた。左右に葉を揺らしながら、大きく成長して赤いつぼみをつけたの。緑色のなかに、甘くて美味しそうな赤色が小さく見えた。それはチューリップの花のようだった。

 でも、そこから蕾は動かなくなってしまった。どうして、成長しないの? ここから、私の赤ちゃんが生まれるはずなのに。求めてやまないーー愛しい愛しい、愛する子が。

 私はそのチューリップがあまりにも愛らしく感じて、「ねぇ、恥ずかしがらずに出てきてちょうだい」とキスをしたの。花びらが縮こまってしまって、元気がないなんてかわいそう。私のかわいい赤ちゃんがここにいるなら、早く出ておいでという気持ちをこめて。

 すると、花びらがふわりと動いて、徐々に大きく大きくなって、開いたと思ったら、そこには小さな小さな愛しいあなたがいたの。

 

「可愛かった?」

「もちろん、わたしがこの世で見てきた者の中で一番かわいらしかったわ。私はおまえと出会うために生きてきたのだと思った」

「今も一番可愛い?」

「当たり前だわ」

 この世は無常だけれど、おまえの愛らしさは決して変わることがないと思うの。

 人差し指で、女性は艶々の親指姫の髪を撫でた。


 ーーお話はこれでおしまい。親指姫、お歌を歌ってくれる?


 いつの間にか、外は暗くなっていた。

 ろうそくの揺れる灯りを頼りに、女性のお願いを聞いて、親指姫が小さな口を精いっぱい開けて歌う姿を女性は見つめていた。

「もうそろそろ、お休みの時間ね」

 女性は戸締まりをしっかり確認して、眠る準備を終えた。


 手の中の親指姫を乗せてキスをして、テーブルの上のベッドに運んだ。それは、クルミの殻の中に、スミレの花びらを敷いて、シルクのような大きな花弁のバラを毛布にしてある特製のベッドだった。親指姫のために作られた繊細なもの。彼女の愛情のしるし。

「おやすみなさい、親指姫。明日もあなたにとってしあわせなまいにちでありますように」

 歌とものがたりと愛の言葉を、今日の慰めと明日の希望に力を変えて、彼女たちは眠りについた。そんな日々を送っていた。

 

 ある日のこと。

 親指姫はテーブルの上で、自分専用に作られた大きなお皿の湖に葉っぱのボートを浮かせてその上に乗り、いつものように遊んでいた。体を傾けるとボートが揺れて、波紋ができる。甘い風の香りがする。

 喜びがあふれて、その気持ちのまま歌を歌っていたとき、どこからか、カエルの鳴き声がした。

「あらまあ、なんてかわいらしい女の子なんだろう」

 どこかから侵入してきたそのカエルはとても大きく、親指姫の3倍以上あった。みどりいろの大きなガマガエルだった。

「あなたはどちら様ですか?」

 親指姫はおびえながらも、カエルに尋ねた。おかあさん以外の誰かに会うのは初めてだった。

 奇妙で醜い体が、ギョロギョロとして眼が、親指姫を()め付ける。……怖かった。

「私の息子の嫁にぴったりだ」

 カエルは親指姫の言葉を聞かずに、強引に彼女を捕まえる。水分を含んでいる4本足が彼女の体にくっついて、ベタベタする。

「いや、やめて。助けて」

 暴れる親指姫を両手で押さえつけて、カエルは笑った。

「ゲラゲラゲラ。暴れるのはやめよ。光栄なことにも、私の息子の嫁におまえを迎えてやろうと思っているのに」

 親指姫は押さえつけられ、かすれる意識の中で、その言葉を聞いた。

 おかあさん、おかあさん、助けて。

 感じたこともない、愛情と言うには醜すぎる欲望を向けられて、親指姫は苦しみながら気を失った。


「げこ、げこ。げこげこ、げこげこ」

 なにやら、鳴き声が真横で聞こえて、親指姫は目が覚めた。

 隣にいたのは、ボコボコとした肌、茶色のまだら模様だった。

 言葉を失い、上をちらりと見ると、それは見たこともないような巨大なカエルだったのがわかった。その隣に親指姫をさらったカエルがいた。

「うれしいかい? とてもかわいらしい子だろう。おまえの嫁を連れてきてやったんだよ」

「げこげこ、げこげこ。げこげこ、げこげこ」

「そうかい、気に入ったかい。良い娘を連れて来れた。私もうれしい」


 会話をしているようだが、息子の言葉が一切理解できなかった。親指姫は混乱して、そのまま寝たふりを続けた。

「私は、おまえたちの結婚のための用意をしようかね。おまえたちの家や結婚式の準備が必要だ。それに良い泥沼を見つけたんだ。その場所から、ごちそうをたくさん取ってくるよ。仲間や友人を呼んで、豪華な結婚式を挙げるのさ」

 げこげこ、げこげこと返事をする横にいるカエル。やがて、母親ガエルはどこかへと去って行った。

 しばらく息子のカエルの方も、親指姫を見つめていたようだったが、どこかに移動した。それを確認して、起き上がった。

「……ここは、どこ」

 目覚めた場所は、蓮の葉の上だった。

 夜の闇の中。大きな大きな葉は、池にたくさん浮いていて、地上はどこにも見えず、親指姫にとっては陸の孤島に一人取り残されてしまったようだった。親指姫は外に出たことがなかったので、外はこんなに広くて誰もいないのかと驚いた。

 蓮から降りようとして、水面が揺れる。底のない暗闇が親指姫の足に触れて、ポチャンと音を立てた。引きずり込まれてしまいそうだ。


「助けて、助けて」

 かすれた小さな声で、親指姫は池の中で叫んだ。かわいらしい高い声が泣きそうにゆがんで、聞くだけで親指姫の悲しみが池に広がって波になった。

「……どうしたの?」

 親指姫のかわいそうな泣き声に、誰かが気づいてくれたのか、声がする。周囲を見回すけれど、どこにもいない。

「そっちじゃないよ、下だよー」

 親指姫がそう言われて下をのぞき込むと、そこには小さな魚がゆらゆらと泳いでいた。

「だぁれ?」

「メダカだよー」

「めだかさん?」

「はいー、こんにちは。見たことがないくらいとってもかわいい女の子だぁね、こんなところでひとりぼっちでどうしたの?」


 親指姫は、自分の事情を話した。自分がさらわれてやってきたこと、ここがどこなのか分からないこと。どうにか助けてもらえないかと言うことを必死に伝えた。

 めだかはその話を聞いて、「そんなことをされたのか。許せないね。あのカエルの親子は、ここいらではみんなに嫌われてるんだ。邪悪な奴らだからね。僕たちもあのカエルたちに勝手をされて、迷惑してるんだよ」と答えた。さらに、ここから逃がしてあげようとも言った。

 それを聞いて、親指姫は心から喜んだ。さっきまで不安に青ざめていたほおが、緩やかに桃色に染まって、にこりと花の微笑みをめだかたちに向けた。

「本当に、ありがとう」

 めだかたちはでれでれになって、蓮の葉を押して親指姫を池の端方まで運んだ。

 そうして、親指姫はなんとかカエルの元から抜け出すことができたのだった。


 しかし、ここからが親指姫の試練の始まりだった。

 端の方まで運んでもらったはいいものの、そこから水の流れに乗ってしまったのである。

 そうしてたどり着いたのは、親指姫が元いた場所からは遠く離れた場所だった。

 親指姫にとっては全てのものが大きく、険しい道。それは進んでいくのもやっとだった。

 親指姫は、その名の通り親指の大きさしかないので、人が一歩進む道のりにかなりの時間をかける必要があった。

 ここがどこかもわからず、どう進んでいけばいいかもわからないような森の中で、親指姫はひとりぼっち。さみしくてたまらなかった。


 そんな中でも親指姫はくじけなかった。食べられる野草や実を探して、毎日過ごした。

 野いちごやビルベリー、グミ、コケモモ。たくさんの果物がなる季節だった。

 花の甘い蜜を少し食べれば、親指姫はおなかいっぱいになったので、植物が実っている間は無事に生きていくことができた。孤独さえごまかせば、彼女は生きていけた。

「この葉っぱは食べられるのかしら」

 大きな葉っぱをちぎった。

 ちょっと苦い。ほんの一口ーー人間の眼では噛んだか噛んでないか分からないほどーーを口に含み、飲み込まないようにして確認した。

 食べられないなと思ったので、別の食べものを探さなくてはいけなかった。

「りすさん。その実を一つくださらない?」

 小さな手を伸ばして、りすから果物をもらう。

 リスはほっぺにたくさんの実を詰め込んでおり、それだけでなく、いろんな場所に埋めたりして隠している。この森では食べ物に困らない生き物だった。彼らから貰った胡桃やアーモンドはとても長持ちした。ただ、親指姫までどこかに隠してしまおうとするので、近づく時は注意が必要だった。


 時には、鳥が落としてくれる実を食べた。

 鳥は毒のある実だろうと噛まずに飲み込んでしまうので、食べてはいけないものも多いが、高い位置にあるものを確実に落としてくれるのは鳥だった。下にある実は他の動物に食べられてしまっていることも多かったから。

 親指姫は鳥に恐怖心は抱かなかった。それは幸せを運ぶ小鳥の話を、女性からよく聞いていたからでもあった。

 ーー青空を天高く飛ぶ鳥たちは、神様からの贈り物を子どもたちに届けてくれる。

 優しさと愛情、喜びと笑顔。

 時にはリボンや花を贈ってくれるのだという。小鳥のさえずりとともに眼を覚まし、夜に鳴く鳥の歌を聴きながら眠れば、怖いことなど一つも起きないのだ。彼らは自由であり、私たちもまた、広大な自然とその恵みを感じながら鳥に導かれて幸せを得ることができる。

 親指姫は空に憧れていた。外に出てもこの森は親指姫には大きすぎて、きれいな青空を見れたことはないけれど、きっとその空は何より美しいのだと思っていた。

「鳥さん、鳥さん。お空はきれいなの?」

 空を飛んでいる鳥たちに自分の小さな声は届かないだろうが、親指姫は呼びかけ続けた。

 実際、親指姫の声に反応したのは、地に近い虫や動物だけ。鳥は用心深いので、親指姫が近づいたらすぐに飛び立つのだ。


 しかしある日、鳥は下に降りてきた。不思議な気持ちだった。

「鳥さん、こんにちは。どうしてここにいるの?」

「こんにちは、かわいらしいおじょうさん。君が僕たちを呼ぶから、気になってやってきたんだよ」

「そうなの?」

 鳥は温かい声で、親指姫に話しかけた。久しぶりに彼女はしっかりと誰かと会話をした。自分に親しみと愛情を与えてくれる相手との会話はこんなにも温かいものだったと、改めて感じた。

 親指姫は自分に話しかけて来てくれた鳥ーーいや、ツバメと話すことを日々の喜びにした。


「……今日は天気が良いね」

「ツバメさんは、とてもシャイなのね」

「僕が君と話すことが見つからないのさ」

「話す内容なんてなんでも良いの。あなたが優しく話してくれるだけで、私は嬉しくなるから」

「……君は不思議な子だ」


 鳥ーーツバメは、時々親指姫の近くに現れては、彼女に食料を与えてくれたり、話し相手になってくれた。


「いつも何を食べているの?」

「君が食べない虫がほとんどだ」

「虫を食べるの?」

「そうだよ」

「おいしい?」

「食べてみる?」

「……嫌」

 虫の形は苦手だ。モジャモジャしていたり、たくさん足が生えていたりする。ツバメが食べるのはその幼虫だというが、絶対に無理だ。

「じゃあ、いつもは何をしているの」

「旅をしてるよ。寒くなったら、僕は南に行くんだ」

「……そうなの」


 ツバメの囀りに合わせて、歌を歌うこともあった。


 懐かしい日々の歌。

「緑あふれる夏の日は、泉に船を浮かべよう。みなと避暑地に出かけよう。風を浴びて、光を感じて、みなとピクニックをしよう。季節の巡りに感謝して、夏の実りに感謝して、楽しい日々を送るの」

 その歌は、親指姫の望む夢のかけらのようなものだった。歌に乗せて、彼女の優しさを運ぶのだ。

 暖かい風も親指姫の体をふんわりと包んで、その歌声を空へと届けた。

 花や実や、植物はそれを聴いて生命の輝きを強める。不思議なことに、しおれていた葉でさえ歌を聴けば元気になった。活力に満ちた幸せがツバメと親指姫によって、夏の森に届けられた。


 しかし、季節は移ろうものであった。夏が過ぎ、やがて秋になった。ツバメもいなくなってしまった。

 秋になると、緑の葉は色を変えて、地面にこぼれて枯れてしまう。親指姫はとたんに食べるもの、住む場所を失ってしまった。

 時間が過ぎるにつれて、寒さは徐々に強くなり、親指姫はひもじさに苦しめられた。

 落ちている葉っぱの茎から、水分を補給して、それでもグーグーと鳴るおなかは無視した。ツバメはもういない。親指姫はひとりぼっちだ。

 そうして深い森の中を必死で抜けてやっと、開けた場所を見つけた。


 そこは、麦の収穫が終わった場所だった。

 藁が積み上がり、切り上げられた麦の株は小さくて柔らかい親指姫の肌を傷つけてしまう。その中を抜けて、ある家を見つけた。藁を編み込んだ、しっかりと作られた家だった。


 急死に一生を得たとばかりに、親指姫はその家を訪ねた。

「お恵みをもらえませんか? 小麦一粒だけでも良いのです」

 必死に自分の気持ちを伝えた。涙で瞳が潤んでいた。

 荒れてしまった髪や肌。けれど、それでも親指姫の愛らしさは隠せない。

「傷だらけ。麦の中を抜けてきたのね?」

 出てきたのは、野ネズミだった。

 野ネズミはとてもかわいらしい女の子がやつれた様子で、家を訪ねてきたのを見てとてもかわいそうだと思い、家の中に招いた。

「たくさん、お食べ。あの大きな森を抜けてくるのは、とてもつらかったでしょう」

 親指姫は暖かいスープをごちそうになりーースープをたべたのはとても久しぶりだったーー涙を流した。具沢山で、じゃがいもやにんじん、チーズのかけらが入っていた。懐かしかった。

「大丈夫なの? よければ、冬が終わるまでここに暮らしなさい。家の掃除や家事を手伝ってくれれば、この家に住んでいいから」

 親指姫はまたとない申し出に、ぶんぶんと頭を縦に振ってうなずいた。こんな機会はもう訪れることはないだろうと思った。


 それから、親指姫は毎日がんばった。洗濯に掃除に、料理。知らないことも多かったけれど、野ネズミに教えてもらいながら、少しずつ上達していった。

 麦を使ってパイシチューを作ったり、野ネズミは夏に収穫していた果物でジャムを作ったり、ドライフルーツを作ったりと冬支度をした。機織りをして、自分の布団も作った。藁を麦畑からほんの少し貰って、特製のベッドも作った。楽しかった。

 野ネズミが与えてくれた優しさに報いようと、頼まれたことなら何でもやった。それは幸せなころの日々を思い出させてくれた。


 ーーしばらく経って、親指姫が野ネズミと一緒にいることになれた頃。野ネズミが親指姫にこう言った。


「今から、お金持ちのモグラさんが家にやってくるわ。彼の出迎えをして。

 そして、彼と仲良くなってみて。もし、あの人を婿にできれば、一生生活に困ることはないでしょう。冬が来てもご飯に困ることもない生活は素晴らしいものよ。ひもじい生活のわびしさはおまえもよく知っているでしょう」

 親指姫は、突然のことに驚きが隠せなかった。

 野ネズミは、親指姫に何も伝えていなかったのだ。それに会ったこともないようなモグラを婿にすることに、乗り気ではなかった。

 しかし、お世話になっている野ネズミの好意を無碍にすることもできず、親指姫はモグラを迎えた。

 やってきたモグラは、真っ黒で、しっかりとしたコートを羽織っていた。でも、杖をして、モノクルをはめた姿は違和感があった。不自然だったのだ。

 モグラは愛らしい親指姫を見て、眉を上げた。

「こんなかわいらしい子がこの家にいたかな?」

「最近、お世話になって……」

「ほう。そうなのか。私はここの野ネズミとは長い知り合いでね」

 親指姫が気に入ったのか、モグラはたくさんの話を聞かせた。

 自分がこの土地でどれだけ権力があるかということ。ここの大地主で、どれだけお金持ちであるかということ。しかし、親指姫にとってその話はよくわからないものだった。彼女にとって価値のあるものはそんなことではなかったから。


 やがて、モグラの自慢話が終わり、親指姫は歓迎の印にと、自分の一番得意な歌をモグラに聞かせた。

 昔の楽しかった日々や、つらかった思い出を乗せて、高いソプラノの歌声を宙に響かせた。

 ある夏の日に歌ったあの素晴らしい歌とは違って、秋の寒々とした木枯らしのようにもの悲しかったけれど、人を魅了せずにはいられない歌だった。


 モグラは歌う彼女の美しさに見とれてしまった。彼女がほしくなった。小さな彼女はとても愛らしいのに、その反面で人を狂わせてしまうような魅力を備えていた。

「ごほんごほん。うたがうまいな」

「ありがとうございます」

 飢えていた頃と違って、寝床を手に入れ、ご飯もしっかりと食べられた親指姫は、信じられないほど美しくなっていた。女性と一緒に暮らしていた頃よりも一層、輝きに満ち溢れた姿だった。

 儚なさと一緒に謎めいた薄い微笑み。愛らしさだけではない、苦しみを乗り越えてきたからこそ生まれた印象。

 それに、モグラは落ちてしまった。


 野ネズミは野ネズミで、モグラに親指姫のかわいらしさと働き者であることをアピールして、暗に親指姫をもらわないかと伝えた。

「あの子は、とても愛らしいでしょう。ぜひ、ねえ……」

「そうだな」

 しかし、モグラは偏屈だったので、素直に言葉にせず、土産だけを野ネズミに手渡して帰った。

 それから、モグラは毎週野ネズミの家に通って、親指姫に会いに来た。モグラの家と野ネズミの家を広げてしまうまで、頻繁に来るようになってしまった。

 そして、モグラと野ネズミの間で、親指姫とモグラが結婚する予定が裏で進められていた。


 そのことを親指姫は知らずに、モグラの家に行くために暗い地下の道を通った。モグラに連れられ、怯えながら、ひんやりした暗い道をゆっくりと歩く。

 ふと、モグラの足が止まった。どうしたのだろうと前を見ると、暗い灯りに照らされて少しだけ見えた。


 ――そこには、藍色の深い羽を持つ鳥が一匹けがを負って横たわっていた。


「鳥さん? 鳥さんがいますよ」

「そこらで、けがを負って死んだ馬鹿な鳥だよ。通路に死ぬなんて邪魔で仕方がない。次回から別の道を通ろう」

「え、でも……」

 モグラはそう言って、親指姫を家に連れて行った。


 ーーが、親指姫はその鳥の死骸がどうしても気になってしまい、モグラの家から早めに退出して、その場所に戻ってきた。


 親指姫は、暗闇の、誰もいない通路に死んでしまった鳥がかわいそうでならなかったのだ。

 森の中で一人彷徨っていたころの彼女の境遇に、その姿を重ねてしまった。たくさん聞いた小鳥の話を思い出したからでもあった。ツバメとの日々も思い出した。


 (くだん)の、その鳥の姿を光に翳して見てみるとーー日差しも通らないような暗い空間を通るために、ランプを持っていたーー小さな親指姫によく果物を落としてくれていたツバメだったことに気づいた。

 話をよく聞いてくれた、親指姫の歌う声に合わせて囀っていた、優しい小鳥が、通路の中で凍えて亡くなっていたのだ。


「どうして?」

 

 どうして、このツバメがここで横たわっているのだろう。

 寒い冬が来る前に、暖かな春を目指して旅立ったのではなかったのか。あの囀りが消えたときに、彼は南の暖かい場所に幸せを運びに行ったのではなかったのか。

 親指姫の頭の中には、疑問がたくさん芽生えた。


「ツバメさん……」

 親指姫は、植物の繊維を細かく割いて糸状にして、それを織って作った大事なハンカチを懐から取り出した。

 手間をかけて作ったお気に入りで、二度と同じものは作り出せないが、それが、優しくしてくれたツバメの、黄泉の旅路のお供になってくれれば良いと思った。

 とんと指がかすかに触れた。確かに、シャープな体型をした、赤いチャームポイントがかっこいいツバメは冷たくなっていた。

 そのまま、顔にハンカチをかけてやろうとして。

 ーーふと、抱きしめてみたくなった。

 だって、触れたことがなかった。もうきっと会えない。彼に触れたい。

 そっと冷たい羽の先端から撫でていく。とてもひんやりしていて、どれくらいの時間ここにいたのだろうと考えて、こころに穴が空いてしまったみたいだった。よくわからない感情だった。愛情を与えられたときの喜びでもなく、欲望を向けられたときの恐怖でもなく、一人きりの孤独に感じた悲しみでもなかった。でも、大きな喪失感がそこにあった。

「もう、あなたには会えないのね」

 思い切って、力を込めて抱きしめた。親指姫の体では、ツバメの体全体を抱きしめきることはできなかったけれど、彼女の温かみが彼に移ってどうか生き返ってくれはしないだろうかと。

 冷たい体に頬ずりした。これが親指姫の一番の愛情の示し方。

 ーーきっと、私はあなたを愛していたのね。

 瞳からなみだがこぼれた。その涙は滴になって、ツバメの胸にこぼれた。

 しばらく頬ずりして、胸の中に耳を当てた途端、とくん、とゆっくりの鼓動が聞こえた。

「え?」

 自分の心臓の音ではなかった。さっきまで動いていなかったはずのツバメの心臓が、ゆっくりと鼓動を立てたのだ。

 耳をツバメの胸に当てた。たしかに、とくんとくんと鼓動が動いている。

「生きてる」









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