第四話 私と父
「明日子?」
私に手を差し伸べている赤い眼鏡の女性から、逃げ出そうという体勢のままで彼女を見ていた。
「他の今日子たちと何も変わらないのに、何をそんなに怯えているの?」
彼女は私の前で屈むと、目線の高さを同じにしてチューリップのように重ねた手の上に顎を置く。革のスカートが膝上まで上がり、すっきりとした脛が露になる。
「私はもう一人のあなた。だから何も怖がる必要はないの。それともあなたは自分自身が怖いの? 嫌いなの? 目を背けたい存在なの?」
喉がカラカラになり、全身の毛穴が開く。嫌な汗が噴き出して、心臓がどんどん早くなる。
「……なんで」
暫く見つめ合った後で何とか絞り出せたのが、たったそれだけの言葉だった。
「IFがどうやって生まれるのか、という質問? それなら三浦先生にでも訊いた方が早いんじゃない? だって私はあなただもの。あなたの知らないことは私にも分からない」
「ちょっとだけ待って」
「いくらでも待つわよ。時間なんてあってないようなものだし」
私は体を起こして一旦キッチンに引き上げる。
冷蔵庫からペットボトルに入っている今朝作った麦茶を取り出し、コップに注ぎ入れてそれを一気に飲み干す。胸元の気持ち悪い温度が僅かに下がった気になるが、それでもまだ鼓動は落ち着かないのでもう一杯、麦茶を飲んだ。
部屋を見やると明日子が眠りこけている他の二人を見て微笑している。きょう子の柔らかい髪を撫で、キョウコのお腹にはタオルケットを掛けてやる。
危険はない。自分にそう言い聞かせてみるけれど、頭の中の警戒ランプは消える素振りを見せない。
ただ距離を置いたことで少しずつ落ち着いて考えられるようになり始めた。
岩根明日子と名乗った彼女は、二人の前から動こうとはしない。待ってくれているのか、それとも何か事情があるのか。
三浦先生にはIFというのは自分の無意識が作り出したものだから、決して自分自身を傷つけるようなことはしないと教わった。事実、怒鳴ったり喚いたりはするけれど、私が彼女たちに傷つけられたということはない。それでも彼女たちを生み出す時は何か強いストレス下にあって、それを緩和する為に彼女たちが必要になるのだと言われた。
ちらり、と肩越しに明日子が私を見る。
彼女は暫くそのまま私を見ていたが、何を思ったのか笑みを見せると、テーブルに置いた携帯電話を手にする。躊躇なくボタンを押すと、電話のコール音が鳴り響いた。
「何、してるの?」
私は嫌な予感がしてコップとペットボトルを置いて、慌てて部屋に戻る。
「はい。もしもし。今日子さんかな?」
スピーカーから漏れ聞こえたのは、父の声だった。