幸せの黒い猫
ここはどこだ? いったいどこに、なにがあるんだ?
今俺の目の前には、視界を黒く塗り潰す真っ暗闇があるだけだ。
あとは何もない。
だが、俺はここからあるものを探さなきゃいけない。
それは……。
「にゃあー」
猫。もっといえば、黒猫だ。
「おおーい! どこにいるんだー!?」
「にゃー」
声だけはしっかり聞こえる。
ただ、俺は耳が良くねぇから正確な位置までは掴めない。
あてずっぽうに動き回るけれど、それでも全く捕まらない。
それどころか、動いた先で聞く声は、あらぬ方向から飛んでくる。
どうして俺が猫を捕まえるのに必死なのかって? そりゃ、幸せになりたいからさ。
聞いたことがあるだろ? 黒猫は幸せの象徴だって。
まあ、地域によっては不幸の象徴らしいが……。
少なくとも、俺には、幸福の女神様ってヤツさ。
そんなわけで、探している。
ある女から言われた、この暗闇の中で猫を捕まえられたら何でも願いを叶えてやると。
しかしなぁ……。心が折れそうだ。一体何回すっ転んだと思ってるんだ? 本当にこの暗闇の中に、猫がいるかどうかもわからねぇぜ。
「にゃー」
何がにゃーだよ。呑気によ。
「あーあ! ったくよー! ばかばかしいぜ!」
弾んだ息を整えがてら、俺は座ることにした。真っ暗闇の中でも床はある。固いが、まあ些細な事だ。
荒い呼吸とお別れするように一つ大きく吐き出して、天を仰いだ。ご丁寧に何も見えない。室内だから仕方ないが、せめて星の一つくらいは見せて欲しいもんだな。
「にゃー」
「お前もそう思うか? ネコスケ」
「にゃー」
それは同意か? ま、そうしとくか。
ふぅ……。煙草は……っと。切らしてたか。まあいいさ。火を着けたら失格だったしな。
あーあ。しかし猫ってのはどうしてこうすばしっこいんだ? せめて亀みたくゆっくりと歩いてくれてたら俺にだって容易く捕まえられるのによぉ。
「にゃー」
「うるせぇ! 静かにしてろ!」
「にゃー」
ダメだ。聞きやしねぇ。
黒猫、か……。まあ、上手くできてるよな。
人生お先真っ暗って言葉もあるように、今の俺には全く周りが見えてこねぇ。
そんな中で黒猫を捕まえろと来たもんだ。
俺にはきれいさっぱりわからねぇ。一体誰なら捕まえられるってんだ?
秀才か? スポーツマンか? それとも人望厚き市長さんか?
俺には人望も学もねえし、やってきたことといやぁがむしゃらに突っ走ってきたってことだけだからな。
ま。今更悔やむことなんてねぇし、どうだっていいんだけどよ。
…………。
そういや匂い、してるのか? ん……。ん? うーん。なんだったかなぁ、この匂い。
嗅いだ事ある気がするんだけどな。なんだっけな。思い出せねぇ……。
……。あ、そうか。これ土の匂いか。あー。こんなんだったな。よくガキの頃公園で嗅いだなぁ。
駆け回って芝生じゃりじゃり踏んで、ボール追っかけて……。
…お? なんだ? ちょっと明るくなってねぇか? 微かだけど。
いったいなんだってんだろーな、この部屋は。本当にわけわかんねぇぜ。
さて。休んだしそろそろやるかぁ。下ばっか向いててもどうにもならねぇし……?
……。また明るくなったか?
どういうことだ? スイッチでもあるのか?
いや、ねえよな。そんなもん入れた覚えはねぇし……。
うーん。なぜだ? どうして明るくなったんだ?
休めばいいのか? 時間か? 思い出? 匂い?
……あー! わけわかんねぇぞ! 俺はあんまり賢くないんだ! 難しいのは無しだぜ!
「にゃー」
あれから暗くなったり、明るくなりかけたり、を繰り返した。
が、一向にタネはわからねぇ。それに、摩訶不思議なこの部屋は、肝心の尻尾さえも見せちゃくれない。
やれやれ。変なことに首突っ込んじまったなぁ。
……諦めちまおうか。
『どうしてもやめたくなったら、ドロップアウトと叫びなさい』
いつまでもこんなことしてらんねぇよな。飯も支度しなきゃいけねぇし、出来は悪いがガキ共だって待ってるし。
「にゃー」
わかったよ。もうお前の勝ちだ。好きにしろ。
あーあ! 幸せってのはホントに掴めねぇものなんだな! 身に染みてわかったよ。
俺はもう夢なんて見ねーぞ! 一銭にもならないようなヤツ探しまくったって無駄だってようやくわかったからな!
「にゃー」
はいはい。終わり終わり。さてと。じゃあ一言叫びますか。
「にゃー」
すぅ……。
…………。
…………。
はぁ。
…………ちょっと待て。ちょっと待てよ?
なんか、さっきよりも部屋が暗くなってねーか?
おう、そうだ。また……ていうか、勘だけど、絶対今までで一番暗くなってる気がする。
どういうことだ? 俺が諦めたらそうなったのか?
ていうことは、なんだ? 俺が諦めなかったら明るくなるのか?
いや……。けどそれはひでぇ話だろ。明るくなっても猫を捕まえられるとは限らねぇはずじゃねーか。人参ぶら下げて走る馬ってことだろ? 要は。 そりゃ、むごい話じゃねーか。
……。
…………。
だけどまぁ、せっかくずっと追いかけてきたんだから、姿くらい見ても罰は当たんねーよな?
ていうか、見てぇ。いるはずの黒猫っていうのは、一体どんな面してんだろーな?
「にゃー」
おう。お前もそう思うだろ?
捕まえられなくてもいいから、お前の姿を見てみたいもんだぜ。
……そうだなぁ。きっと毛並みがつやつやに輝いていて、立派な長い尻尾も付いてるんだろ?
それに瞳なんてきりっとして黄色く光っててよぉ。耳も気品があるっていうか……。
「なあ。お前は、いったい、どんな面してんだ?」
「にゃー」
「へへ。ちょっと楽しくなってきたぜ。お前がどんな姿してようが構わねえけど、幸せを司るってんならやっぱそれなりの容姿してんだろ?」
「にゃー」
お。明るくなってきた。
……そうか! わかったぞ! この部屋のからくりが!
「おう! 土の匂いがするぜ! さっきよりもはっきりとな!」
「にゃー」
「手、あったけえぞ! 自慢じゃねえが俺は、冷え症になったことがねえんだ!」
「にゃー」
「俺にはガキが二人いる! べっぴんじゃねぇが、守ってやりてぇ女房もいらぁ!」
「にゃー」
「そうだ! 俺には友達もいた! 今はもう会ってねぇが、きっと幸せに暮らしているにちがいねぇぜ!」
「にゃー」
「そうだ! 俺は……俺は幸せもんだぁ!!」
「にゃー」
視界が、晴れた。
真っ白い部屋。そして一匹ぽつんといる、黒い猫。
「何だお前、そんなところにいやがったのか」
「にゃー」
今ならわかるぜ。くっきりわかる。そんなに黒くちゃ、暗い世界じゃわかんねぇよな。
「じゃ、早速……」
「にゃー」
逃げる気配がねぇ。余裕じゃねぇか。これなら全然楽に……。
……。
…………。
………………。
「…………やめた!」
「にゃー」
「俺にはもう、お前を捕まえる必要もねぇや!」
それから俺は部屋を出て行った。宣言もしてねぇのに、扉がぽっかり現れていたから。
突き出たドアノブに手をかけたところで振り返ると、黒猫はそのまま身体をきれいに舐めていた。
なんとも幸せそうな奴だなぁ。お前のマイペースっぷりが羨ましいぜ。
……。
と。また暗闇が戻ってきちまった。はいはい。そーだな。羨んでても仕方ねーよな。
「じゃーな!」
黒猫に別れを告げて、俺は外へ出た。
意外にも暗所に慣れた目には眩しかった。が、それもすぐ慣れて、久しぶりに感じる喧騒と匂い、風の心地よさ。全てが戻ってきて、俺はすぐに家路を急いだ。
もう幸せの黒猫を探すことなんか、ねーのさ!
あばよネコスケ! 俺は俺で気ままに生きるぜ!
「にゃー!」