3
「あああぁぁ~」男が言った。
「あちち」小林が言う。
「あちぃよな、ここの湯」橋本が言う。
「ああぁ」長谷川が弛緩しきった声を出す。
「あちち」小林が水面に指を突き刺してすぐに引き離す。
「いやもう体浸かってっから」橋本が笑いつつ突っ込む。
「マジで!?」小林が仰け反ってみせる。
「いやお前の体の話だろ分かんだろ」橋本がすぐさま突っ込む。
「ははは」と長谷川が笑う。
「よいしょお、おおぉぉ」崇が息を吐く。
「つかさあ、でも、堀江、辞めちゃったね」小林が切り出す。
「ああ」と橋本が言う。
「だね」と長谷川も返す。
「なんていうか、後味悪いっていうか」小林が眉間に皺を寄せる。
「な」と橋本が俯き加減に応じる。
「ああぁぁ」崇が呻きながら肩に湯を掻きかける。
「でも、やっぱ堀江って新人戦のミスで辞めたの?」小林が問う。
「そうなんじゃねえの? だって」と橋本がため息をつく。
「けっこう気に病んでたしね、あの試合のミス」長谷川が沈鬱な表情で言う。
「ねえお父さん」良太が言う。
「じゃん」と言って小林が万歳のポーズを取る。
「うん?」崇が耳を傾ける。
「お前、やめろよな」橋本が即座に言う。
「お母さん、死んじゃうの?」良太が尋ねる。
「でも、なんつーか、ただのこれでしょ?」小林がもう一度万歳のポーズを作り、それから両手を下ろす。
「うぅぅ」亀田が唸る。
「ううん、死なないよ」崇が何でもないように答える。
「ただのっつっても、そのミスがすごい効いたってわけでしょ?」橋本が息を吐く。
「おうぅ」と東村が大きく息を吐く。
「うーん」良太が沈んだ声で言う。
「実質それで新人戦負けたわけだし。オレら」長谷川が言う。
「馬鹿なこと言うなし」新太が怒った声で良太に言う。
「でも、オレらが点取ればよかったって話だからさあ」橋本が言う。
「まあね」長谷川が頷く。
「長谷川ぁ~、お前点取れよぉ~」小林がにやにやしながら長谷川に言う。
「お母さんはな、君たちの妹を産むわけなんだけど、それにちょっと手こずってるだけだから。そんなに心配しなくても大丈夫。それとも、お父さんの作るお弁当じゃ不安か?」崇が落ち着いた声で言う。
「知らねっつの」長谷川が上半身を横に少し倒し手で支える。
「別に、全然そういうんじゃないし」新太が語尾を切るように言う。
「結局、堀江もミスしたし、オレらも点が取れなかった。そういうことじゃない?」皆川が言う。
「まいったね、しかし」東村が呟く。
「焼肉は?」良太がおっとりと問う。
「どっちも悪いわけか」橋本が呟く。
「ん?」崇がまばたきして首を少し傾ける。
「そういうことだな」長谷川が頷き、倒れ気味だった上体を起こす。
「焼肉。お遊戯会の、ご褒美の」良太が続ける。
「堀江ぇ!」小林が太い声で叫ぶ。
「お前、焼肉の話なんてしてんじゃねえよ」新太が声を荒らげる。
「うるせえよ小林」橋本が即座に言う。
「まあまあ、大事なことだから。きっと、お遊戯会のご褒美にもなるし、お母さんの、出産おめでとうにもなるから。な?」崇がにこやかに説く。
「ってか橋本ぉ~、お前があそこで決めとけばよぉ~」小林が粘着した声を出す。
「まあ、そういうことにもなるのか」新太が前傾姿勢を少し戻す。
「たしかにな」橋本は眉間に皺寄せつつ首を傾ける。
「寂しくなるねえ」東村が遠くを見て言う。
「お母さん、死んじゃうの?」良太が訊く。
「え? チャンスあったっけ? 今オレ適当に言ったんだけど」小林が少し目を見開く。
「まさかねえ、こんなことになるとはねえ」亀田も遠くを見遣る。
「だから! 死なないって言ってるだろ! 何回言えば分かんだよ!」新太が怒鳴る。
「お前なあ。あったじゃん、ほら、後半の、堀江が取ってからのカウンターでさ、ほら」橋本が手振りで説明する。
「肺炎って、そんなにまずい病気なんかね? ざらにいるように感じてたんだけども」東村が湯で顔を洗う。
「お母さんな、言うなれば、トイレでうんこ踏ん張ってる状態なんだ。で、なかなかうんこが出てこなくて苦労してる。良太もそういうこと、あるよな?」崇が笑顔で訊く。
「ああ、ワグナーに止められたやつでしょ」小林が橋本を指さす。
「こじらせるとまずいとは聞いてましたけど。まさか亡くなるとはねえ。思いませんでしたねえ」亀田が頭を叩く。
「ううん。ない」良太がはっきり答える。
「ワグナー速かったな」長谷川がぽつりと呟く。
「オレらも風邪に注意しなきゃ。もう若くないんだからねえ」東村は手の甲の皺を見遣る。
「父さん、最近便が硬くてな、けっこう踏ん張らないと出ないんだよ。実はうんこにも種類があってだな、お父さん、最近緑のうんこ出たぞ」崇がやや目を広げて言う。
「まあな。でも、あの時の堀江、動き速かったよな。キック正確だったし」橋本は少し前のめりになる。
「枝元さん、息子さん、存外若かったですね」亀田が言う。
「緑のうんこ?」良太が不思議そうに訊く。
「堀江はフィールディング、いいからな」皆川が落ち着いた調子で言う。
「そうかい? もう年に見えたけどな。けど、しっかりしてる印象はあった。枝元家はしばらくは安泰だな」東村は耳穴をほじろうとし、中途で止め悪戯っぽく笑った。
「そう。ピーマンの臭いがするんだ。実際、ほっとくとピーマンが生えてきて、そのピーマンを使えばまた緑色のうんこが出るんだ。すごいだろ?」崇が目を輝かし語る。
「だよな」と橋本が合いの手を入れる。
「でも、分かりませんよ。急死したり」亀田が言う。
「うーん。うん」良太がよく分からないまま頷く。
「昔、中学時代に大会で対戦したことあるけど、たぶん目がいいんだと思う。キャッチしてからが速い」皆川が言う。
「まさか。オレらじゃないんだから。まだ二回りぐらい若いんだよ。そう簡単にゃ死なんだろう」東村が笑う。
「こ」と、すかさず崇が語尾に付け加える。
「な」と長谷川が言う。
「ですねえ。まあ、しかし、死ぬ死ぬって、私たちの話も辛気臭いですねえ。抹香臭いというか」亀田も笑う。
「ふふ。お父さんくだらねえ」新太がくすくすと笑った。
「昔っからクロス取り損ねるとかしてた?」小林が聞く。
「そう言えば、枝元さんの葬式、ありゃ何宗なんだい?」東村が訊く。
「お前なあ」と橋本は呆れる。
「さあ。仏教はあまり。というより、宗教全般、よく知らないですからねえ」亀田が顎を掻く。
「一回ファンブルした」皆川が少し鼻で笑う。
「オレらも近々上げるかもしれないんだから、憶えとかなきゃいかんね。ははっ」東村が短く笑う。
「うん。こ」崇が仰け反りながら言う。
「ほら」と小林が手柄顔になる。
「はんにゃーはーらーみーたー、って、あれは般若心経ってやつだと思いますけどね。浄土宗? 真言宗?」亀田が首を傾げる。
「ぷふふふ」新太が噴き出す。
「昔っからキャッチの安定性は悪かった、と」長谷川が言う。
「どうだろうねえ。昔、枝元さんがお地蔵さまを拝んでるとこを見たことがあるけど、その時になんとか宗って言ってたように思うんだがねえ」東村が遠い記憶を見るように目を細める。
「うん」皆川は頷く。
「私なんか、昔、枝元さんと、寺に行ったんですよ、あの、えー、駅から北に少し歩いた、突き当りを右に曲がる、あそこの……」亀田が眉間に皺を寄せて首を捻る。
「うんこ」崇が早口で言う。
「でもフィールディングは巧かった?」長谷川が確認する。
「あー、あそこ、駅近くの、小さなお寺だ」東村も眉間に皺を寄せ、そして亀田を見る。
「きゃはは!」新太が笑う。
「うん」と皆川はまたも頷く。
「そこです、そこ。たぶん合ってます。そこに枝元さんと一緒に行ったことがあって。以前。枝元さん、そこの住職と懇意だったみたいで」亀田が小さく頷きながら喋る。
「いひひ」良太も少し笑う。
「ふーん」と橋本は興味があるようなないような調子で言った。
「そりゃ、檀家だったら親しくもなるだろう」東村が当然といった顔つきで言う。
「どうも枝元さん、そこで墓掃除のボランティアをやっていたみたいで。墓参りが、遠方すぎて難しい人に代わって、花を活けたり、あるいは枯れた花をゴミとして捨てたり、してたらしいですよ、ボランティアで」亀田は思い出し思い出し喋る。
「よそ様の墓まで管理するとは、枝元さんも物好きだねえ」東村が少しくさす調子で言う。
「堀江ってさ、南中でしょ?」と小林が言った。
「その時、一緒に行った時、枝元さん言ってたんですよ。誰にも参ってもらえないと故人も寂しいだろうから、これはご近所の持ちつ持たれつの関係を、あの世でやってるんだって」亀田が興の乗ったようにやや前のめりに言う。
「そうだけど、なんで?」橋本が聞く。
「あの人はそういう親切っちゅうかなんちゅうかが、好きだったからねえ。オレらみたいなのと違って、心からなんだろうなあ」東村が懐かしそうに眉根を寄せる。
「お父さん、そろそろ出る?」良太が訊く。
「なんかさ、部に入りたての時、オレ南中組とけっこう絡んでたわ」と小林が言う。
「住職も、感謝してたらしいですよ、やぶ蚊やなんかの数が減るって」亀田が笑う。
「うんこか?」崇が真顔で訊く。
「ああね」と橋本が合の手を入れる。
「罰当たりな坊主だな。自分が仕事やらないで、そんなこと」東村が鼻で笑って上半身を揺する。
「違う! お風呂出るって」良太がふくれ面ながら楽しげに言う。
「あいつマジがたいやべーって思わなかった?」小林が立ち上がりそうな雰囲気で言う。
「そりゃ、当然冗談でしょうけど。とにかく、枝元さん、親切心のみでやってたらしいから、すごいもんですね。偉いもんです。私なんて、庭の草抜きさえろくにやりませんよ」亀田がからから笑う。
「あはは!」新太が声を出して笑う。
「誰が?」橋本が聞く。
「オレもいい加減なもんだよ。踏みつけるだけ。ははっ。でも、人が死んだのにオレら声出して笑っちゃってるんだから、人間ってのは罰当たりな生き物だねえ」東村が微苦笑する。
「じゃあ出るか」崇が腰を上げる。
「堀江。堀江さあ、こんなだったじゃん」小林は膝立ちになり、高くに手を伸ばし手首を地面と平行に折る。
「いい加減なんだか酷薄なんだか、忘れっぽいんだか。人間総じてろくでなし、みんな揃って地獄行きですよ」亀田が胡坐をかき直す。
「うん」と良太も立ち上がる。
「そんなでかくないだろ」長谷川が笑う。
「そんなもんかね。ははは」東村が虚無的に笑った。
「こ」と新太が付け加え、大笑いしながら立ち上がった。
「ヤバかったじゃん。憶えてない?」小林が膝立ちで橋本に話を振る。
「まあね、たしかに身長もがたいもヤバかった。でけえ! みたいな」と橋本も嬉しそうに頷く。
「オレ、初めて堀江と基礎練した時、二年生ですか、とか聞いちゃったもん。んなわけないのに」小林が腰を下ろしつつ手振り交えて言う。
「上級生並みにごついな、とは思った」と皆川が言う。
「まいったねえ」東村がぼやく。
「だよね! 皆川くんもそう思ったでしょ? オレずっと敬語だったもん、親しくなるまで」小林が皆川と橋本を指さす。
「それは盛ってるっしょ」橋本が右手を振る。
「いや、ほんとほんと、おっさんかって思ってたぐらいだもん」小林が皆の顔を見る。
「いや顧問じゃねんだから。ってかどんだけおっさん好きなんだよ小林」橋本が苦笑する。
「でも正ゴールキーパーはこいつだなって思ったわ」長谷川が少し上向きながら言う。
「オレもオレも」小林がうんうん頷く。
「オレさ、前堀江と一緒に下校してさ」橋本が語り出す。
「タイマン?」小林が聞く。
「そう。二人で下校したことがあって、なんか堀江さあ、家で子犬飼ってるっつって。なんでって聞いたら、野良で死にそうだったから家に匿ったんだって」橋本が言う。
「あのがたいで?」小林が聞く。
「あのがたいで。って体ごついとか関係ねえけどな。それで、堀江、部活の後は犬を散歩に連れて行くらしくて。歩くわけ。めっちゃタフじゃない?」橋本が問う。
「じゃ、お先に」東村が腰を上げる。
「部活後でしょ? 時間あんの?」小林が驚きに少し目を開く。
「あ、私も出ます」亀田も立ち上がった。
「だから、部活後に、夜とかに散歩行くんだってさ、犬のために。すごくね?」橋本が鎖骨の辺りを掻く。
「すげー、オレだったらめんどいの一言で終わりだわ」小林が感嘆する。
「基本的に優しいんだよな」長谷川が言う。
「その優しさが、キーパーとしては不適格っていうか、不適当っていうか……」皆川が言い淀む。
「向いてない、ってことだよね?」小林が言葉を補う。
「まあ、うん」と皆川が気まずそうに頷く。
「ま、キーパーなんてものはオラオラかかってこい、みたいな、好戦的な奴のほうが、やっぱオレに任せろって言い切るぐらいの性格のほうがさ」橋本が手振り手振り言う。
「結局、万歳ゴールも、もとはと言えば、パンチングに行くべきところを前に入って来たディフェンダーにクリア任せちゃったところにある、と思う」皆川が顎に手を添えて言う。
「うーん。そういうとこ、あるよね」と橋本が弔問客のような難し気な声を出す。
「おっさんのくせにな」と小林が言う。
「でも、オレらのキーパーはやっぱ堀江なんじゃねえの?」長谷川が少し強めの声で言う。
「……確かに、ね。巧いか下手かで言えば巧いし、他の奴が代わりできるかって言ったら、無理だろうし」皆川がしかめ面で話す。
「そうだよなあ」橋本が言いながら後ろに仰け反った。
「おっさんだけどなあ」と小林も体を反らす。
「やっぱさ、堀江、部に復帰させようよ。ってかそうしなきゃだめじゃね?」橋本が言う。
「でも、どうやって復帰させんの?」と長谷川が問う。
「分っかんないけど。でも、連れ戻さないと。あんまし一人で責任背負いこまれるのも後味悪いし」橋本が腕を組む。
「……皆川くんじゃね?」と小林が言う。
「は?」と橋本が少し顔を前に突き出す。
「だから、皆川くんがだよ、部に帰って来てくれって説得すればいいんじゃね? 堀江に」と小林が自明の理であるかのように言う。
「なんで?」と橋本が瞬きせずに問う。
「だって、やっぱ一番巧い人が戻ってきてくれって言ったら、じゃあ戻ろっかなってなるでしょ? なんない? オレが堀江だったら、皆川くんが言うなら戻ろうかなってなるわ」小林が皆を見て言う。
「……分からなくはない」と長谷川が言う。
「オレでいいのかよ」少し不服そうに皆川が言う。
「うん。てか、皆川くんじゃないと効果ないっしょ。やっぱ巧い人が言ってくんないと」小林が皆川に頷きかける。
「たしかにな。なんだかんだで堀江には戻って来てくんないとオレらが困るし」長谷川が同意する。
「というわけで、サッカー部を救うべく、一つよろしく!」橋本が皆川を拝む。
「ええー」と呻きながらも皆川はまんざらでもない様子だった。
「そろそろ上がるかぁー」男が言った。




