プラネタリウムの空
親友が自殺した。
い書と書かれた紙には、自分の持ち物を家族でどう配分するかなどが事細かに書かれ、中には私にくれるものもあったが、その行為をした理由はついぞ書かれてなかった。
久野椎名はクラスでも明るく、友達も多い女子生徒だった。根暗な私が親友というのもおこがましいほど人当りがよく、さわやかな笑顔の、おまけに賢い女子だった。
昔から家が近いだけで私に親しくしてくれていたのだ。孤立する私をよくしてくれたこともあった。
それが今、こんな結果になってしまって、私は申し訳が立たない。
ただ気を失ったかのように、彼女が死んだと聞いて二日間過ごした。涙も出ず、声も出さず、食事も摂れなかった。
彼女の葬式に出て、笑顔の遺影を見て、やっと私は息を吹き返したかのように泣いて、眠ることができた。
そして起きて、今も考えるのは彼女のことだった。
久野椎名はなぜ自殺したのか。
式場でおばさんから聞いた話では自室で首を吊っていたそうだ。
中学の卒業が近いこの時期だが、すでに椎名は合格が決まっていたし、誰かとお別れするのが辛くても死ぬなんてことはないだろう。
彼氏がいるなんて話もないし、虐待だとかそういう話も聞いたことはない。
一番彼女と話していたのはきっと私だろうから、私は椎名とかつて話していたことをさまざまに思い出した。
二人で水族館に行ったことがある。
休みの日だったから家族連れも多く、子供がぎゃーぎゃーと騒ぐたびに私は眉を顰めていたが、椎名はそれを笑ってみていた。
「にぎやかだねぇ」
「静かな方がいい」
ジンベエザメの大きくのったりゆったりした雰囲気、タカアシガニのフォルム、できれば静かな時にゆっくりと時間をかけて観たいと私は思う。
「にしても、誘ってくれたっていうことは、魚、好きなの?」
「え? うん、まあね」
わざわざ休日を返上して私を誘っておきながら、椎名はその時明らかに上の空で魚など見ていなかった。
「魚に興味がないの?」
「あは、バレた?」
いたずらっぽく舌を出して笑う彼女は、そのあどけない仕草が似合う可愛らしい子だった。私にはとても真似できない。
「魚じゃないなら、私か。参ったな……」
「いやー、それもバレちゃったかー。このブルーライトの中なら、メグちゃんもロマンチックなムードになると思ってねー」
「残念だけど、私石油王以外と付き合う気ないから」
「それホント!?」
「嘘に決まってるでしょ」
冗談続きなのにそれを疑う椎名は、いったい私のことをなんだと思っているのだろうか。ふつうの恋がいいに決まっている。
「それで、結局なんで水族館に誘ったの?」
聞くと椎名は私を見ず、水槽のガラスに手をついて言った。
「恵美は海に行ったことある?」
「子供のころに何度か行ったじゃん。一緒に」
一緒、というか家族ぐるみの付き合いで、だが。
「そうだよね、でもこんな風に見たことはなかったよね」
「そりゃそうじゃん。サメと一緒に泳いだら食べられるし」
椎名の発言で不可解だったのは、最初はこの時だったろう。
水族館に行ったときになぜ海の話を持ち出したのか。
「そうだねー、技術って凄いよ」
「うん……」
意味が分からなくて、私はその時はそんな風にあいまいに返して話は終わった。
そういえば、植物園に行ったときも似たような話をしていた。
「見て恵美! ヤシの木! ヤシの木だよ!」
驚きはしゃぐ椎名は、植物つまんねーと言っている子供より騒がしくて、正直うるさいと思っていた。
「ヤシの木、好きなの?」
「え……嫌いでも好きでもないかな。木だし」
「私もそう思う。木が好きって、盆栽している爺さんじゃないんだから」
「でもさ、ヤシの木って南国にしか生えないんじゃないの? それがこんなところにあるんだよ!? 絶対凄いって!」
「そんなこと言い出したら野菜だって毎年同じもの食べられるじゃん。季節の野菜とかあるのにさ」
温室で季節外れの野菜を育てることも、ここで生えないはずのヤシの木を作ることも原理は同じ、そう私は伝えた。
すると椎名は珍しく神妙な面持ちをしたのだった。
「んなるほどね、科学の力って凄い!」
「何を当然のことを……」
私はあきれて溜息をついたものだった。
別に奇妙な話ではないが、こうして思い出すと似たようなことが何度もあったと思い出す。
図書館に行った時、静かな空間で書架から私が本を探している間、彼女は耳元で小声で囁いた。
「何読むの?」
「宗教の本。なんか親がハマっちゃってねー」
「それって……大丈夫なの?」
「ぶっちゃけ微妙。まあ、最悪家に泊めてもらうから」
「う……うん」
その時は有名な宗教の本の他に、昨今のカルト宗教や新興宗教について述べた本を合わせて読むことにした。敵を知り己を知らばなんとかかんとか、というやつだ。
「……ねえ、どうして宗教にハマったの?」
「私はハマってないよ?」
「わかってる。親の話」
「さあ? 私には昔の人が残した言葉にそんな効果はないと思うけどね」
詳しくは知らなかったけど、私の親がハマったのは有名な宗教の分派の分派みたいなもので、ほとんど名を借りて悪行を働く最悪なものだった。都合の良いように神の言葉を利用するような悪党だ。
「人の残した言葉?」
「うん。そもそもさ、どんなに初めの人が偉かろうと、神が偉かろうと、預言者が偉かろうと、私たちが実際に触れ合えるのって言葉を預かった人の言葉を預かった人の……っていうすっごくありがたみ薄い言葉じゃん? 今は状況も全然違うし、本人じゃなきゃ全然うれしくなくない?」
「な、なるほど、今いる全ての宗教の人に教えたい言葉だね」
「そこまで驕ってないよ……。むしろ普通は宗教家って真面目な人なんじゃないかな? 本に書いてあるルールを守るとかって、校則とか法律を遵守する人っぽいし、私たちより良い人だと思うよ?」
「じゃ、なんて恵美は困ってるの?」
「そりゃそいつらが宗教家ではない畜生だからでしょ」
神の名を騙って悪事を働くからこそ、なお性質が悪い奴らだ。
「偽物なんだね……宗教家も」
「うんうん、宗教家も言葉も本物だったら世界はもっと素敵だろうにね」
この時はますます重くなる気を、確かにしようと必死だった。
けれど思い出した。
この時彼女が言った、偽物なんだね、宗教家も、という言葉は。
宗教家と何が偽物だと考えていたのだろうか。
本当に言葉なんだろうか。
一番最近、彼女と二人きりになったのは、ほんの一週間前だ。
私が彼女を呼び出して、夜に二人きりで散歩に出かけたのだ。
「ごめんね、こんな時間に」
「全然いーいー! 恵美こそ大丈夫なの? 最近」
そう笑顔の椎名に聞かれて、私は目頭から熱いものが零れるのを耐えられなかった。
「……ちょい、きつい」
涙声で情けないと我ながら思ったものだ。
その時にやさしく抱きしめてくれた彼女は、普段と違って妙に大人びていた。
「きれいな星空だねー」
家の近くの河原は、昼間は人で賑わうスポットだけれど、夜は雑草が繁茂している様が不気味で誰も近寄らない。
そんなところで、私と彼女は腰かけて、空と川を見ていた。
川には街並みの明かりと月明かりが反射し、空には無数の星々が輝く。
涙にぬれた私の瞳はそれらが更にまばらに感じられて、とても眩しくて見ていられなかった。
「輝いているね」
かろうじてそれだけ答える。けれど万華鏡のような光が妙に怖くて、不安で、隣の椎名の肩に顔を押し付けた。
「大丈夫じゃなさそう」
「……ん」
優しく背中をなでる彼女は、ぽつりとつぶやいた。
「プラネタリウムみたいな空だね。いや、あるいはもう……」
その時は全く意味が分からない言葉だった。
けれどその真剣で、有無を言わさない雰囲気の彼女に、そっと抱かれていたままだった。
今思い出すと、やはり奇妙な言葉だ。
プラネタリウムが空を模しているのであって、プラネタリウムみたいな空なんて言葉はあんまりほめ言葉じゃない。
まあ作られたみたいに綺麗っていうならわからなくもないけど、それは私に向けられた言葉じゃなくて、明らかに自問自答するような言葉だったから。
悶々と、ただ一人部屋の中で私は考え続け、やがて椎名のことを思い出して、泣いて、そのまま混濁していった。
後日、椎名のおばさんから渡された本がある。
椎名の遺書にあったという本で、私に何にもまして読んで欲しいというものだ。
タイトルは『世界をクリエイト~夢を叶える方法~』とかいう、彼女から一切聞かされたこともないものだった。
内容は非常にチープで陳腐な自己啓発本で、普段ならこんなものに頼るほど私は蒙昧ではないと怒りたくもなるが、これが彼女と私にある唯一の標だと思うと、読まずにいられなかった。
そして呆れた文章の中に、非常に活字と似た文字で全く別の事が書かれているページがあった。
白く何もない部分に、彼女が書き残したと思われる、彼女の言葉だ。
『嘘が嫌いで真実を好む性質にある。私とあなたはきっとそれで似ていた。それで私は偽物ばかりの、作られてばかりのこの世界が嫌になりました。当然、この世に形をなして、できているのだから偽物も本物もないと思います。それでも見るもの触れるもの聞くもの全てが自然の摂理から離れたものだったり創作者の意図と離れたものであるというのは、恐るべきことだと思います。死が平等とは言いません、しかし偽物ではないと信じることができるのも確かです。恵美、辛い中一人にしてしまってごめんなさい。これは嘘偽りない私の言葉です、私の一番の親友へ』
二度、三度と読み返した。
私が椎名と巡ったレジャー施設は、自然を模倣する場所だった。
本だって作者の言葉をどう解釈するかは人次第だ。宗教の分派などは、分派がある以上本家か分派のどちらかが本物の意思を間違って受け取っていることになる。
プラネタリウムのような空だといったとき、すでに手遅れだったのかもしれない。彼女は本物の空を作り物に例えてしまうほどに、世界への信用を失っていたのだろう。
欠け落ちたピースが嵌まっていくような感覚を、私はすんなりと受け入れられた。
きっとこれがあるべき形なのだろうと、認めることができた。
彼女は、絶望して死んだのだ。
私はどうすればよかったのだろうか。
彼女が遺した本を大切に抱きかかえて、一人でまた、泣いた。




