高坂阿多津 3
3
阿多津の通う大谷中学校は、町の真ん中に建っている。
阿多津の家からなら徒歩で五分も掛からない通い易い位置にあるのだが、町外れにある高坂神社から行くとなると自転車に乗った方が遥かに効率が良い距離にあった。
しかし阿多津は父が亡くなった辺りから自転車は利用せず、毎日神社から走って学校へと向かうのが日課になっている。私物を出来る限り神社の近くに置きたくないからという理由も勿論あるのだが、それとは別にただ単に身体を動かすのが好きだからというのもあった。
朝夕の巫女勤めを毎日する事にした為に、小学生の時から続けていた剣道を諦めるしか無かった阿多津にとって貴重な運動の時間になっているからである。
それに走っていれば余計な事を考えずに済むのも都合が良かったのもある。向かう先が憂鬱な場所では無く、友人達も居る数少ない安心出来る場所というのもあって、荒い息遣いの中で近づいていく景色が明るく見えてくるのが阿多津は何とも好きだった。
だから今日も、一時的とは言え神社から開放され、安らげる場所の一つである学校へ向かえる喜びを抑え切れずにこにこしながら阿多津は走り、にこにこしながら友人達と挨拶を交わし、今もにこにこしながら苦手な数学の授業を受けている。嫌いな科目だろうがなんだろが関係無い。学校に居る。それだけで阿多津は嬉しく仕方が無かったのである。
まあだからといって、成績が上がったか? というのはどうやら別問題らしいのが残念な事ではあるが。
(あたやん、あたやん)
――と、先生が黒板に数式を書いている隙を狙ったのだろう、阿多津を呼ぶ囁き声と共に背中をつんつんと押された。
(ん? 何? あさのん?)
少し首を動かして後ろを覗けば、勝気そうな釣り目の少女が机から身を乗り出し、阿多津を見つめ悪戯っぽく微笑んでいた。親友の朝野由美恵だ。阿多津が振り向いたのを確認すると「これ、これ」と、四角に折りたたまれたメモ用紙を差し出してくる。
(なになになに?)
阿多津は意味深に微笑む由美恵からメモ用紙を受け取ると、正面に向きなおしコソコソと開けてみる。
「――ッ!」
その内容を見た瞬間、顔がボンッと一気に紅潮した。
『あたやん、スポブラやめたんだね。そのピンクのブラ結構可愛いじゃん』
メモ用紙にはそんな内容が書かれてあった。隅にはまるっこい髭面のおじさんのイラストが描かれ「透けて見えるのがおじさんたまらんねん」と吹き出しにご丁寧に台詞まで付いている。
うそんッ!
慌てて下を向いて確認する阿多津だが、影になっていて白のセーラー服の下まで透けているようには見えなかった。が、由美恵の言っている事は間違いでは無かった。
確かに阿多津は今日新しいブラをしていたのだ。
それは休日に母親の多恵と一緒に買い物に出かけた時に、そろそろちゃんとサイズ測ってしっかりとしたブラにしないと形が崩れるしダメと連れて行かれ、恥ずかしい思いをしながら店員さんにサイズを測ってもらったあと、自分で選んで買ったものだった。
結構気に入っていたので、ちょっとドキドキしながらつけたのだが、まさかこんなに早く親友に気付かれるとは。というか――
え? あれ? これ一応透けにくいって言われたのに?
(まじで?)
後ろを振り返りながら、阿多津はパクパクと口を動かすと、由美恵はうんうんと頷きながら阿多津の背中を指差した。
(うしろが、すけやすい)
な、な、なんだってー!
思わず背中が仰け反る。が、そんな事をしても意味が無いのは判っている。
くー……みっともない。
透けないって言われたのと、まだ暑いからシャツは必要無いかなって思ったのと、何だかんだで気に入ってるし、もしちょっとくらい見られたとしてもいいかなって思ったのが重なっての事だったのだが……いざ本当に見られたと判ると、凄く恥ずかしくなってしまって頭を抱えたい気分になってしまった。
次からはやっぱりシャツを着てこよう。そう心に誓った。
(まぁまぁ)
声を潜めて由美恵はもにょる阿多津を慰める。「うー」と阿多津が振り向くと、ごめんねと目配せをしながら、新しいメモ用紙を手渡した。
『ごめんごめん。可愛いから気にしなくて良いって! 実際そんなに目立ってるわけでも無いし。愛方の私だから気付いたのサ。で、こっから本題。いいかな?』
開いて読んで、阿多津の背筋が少しだけ伸びる。
そうだ。由美恵がこうやってメモ用紙で連絡を取ってくる時は、他の子が居る時には言えない話があるときだった。阿多津は(いいよ)と頷き指先で輪を作り後ろに見せる。(ありがと)と由美恵の声が聞こえた。
黒板を見れば、先生が気合を入れて数式をガリガリと書いている。
もはや数式というか暗号にしか見えないそれをぼーっとノートに丸写ししながら本題って何だろう? と由美恵の次の話を考えていた。
とはいえ、なんとなくだが思い当たる事はある。
……今日、志乃の体調ちょっと悪そうだったもんね。
いつも一緒に遊ぶ友人達の一人、川上志乃が普段のおっとりした感じとは明らかに違う様子で朝から顔を紅潮させ、ふらふらとしていたのを思い出す。本人は大丈夫、寝不足なだけで熱は無いとは言っていたが、とてもそうは思えなかった。
だから暫くしてから『志乃、どうみても調子悪そうだったよね?』と由美恵からの渡されたメモ用紙に書いてあるのを見て、やっぱりと思った。
そして――
『だから、アレをお願いしちゃって良い?』
と続く言葉にも、やっぱりと思った。
阿多津には大きな秘密があった。
それは阿多津と由美恵しか知らない秘密。
阿多津が大好きな両親ですら知らない秘密。
いや、寧ろ両親だからこそ言えなかった。阿多津自身は父親とは違い高坂家の伝承を全く知らなかったのだが、何となく自分のその秘密については言ってはいけないものだと気付いていた。もしそれを言ってしまったら最後、とんでもない事になる――そんな気がして打ち明けるのを躊躇ってしまったのだ。
――私は人の病気を払う事が出来る。
前々から感じていたその能力に気が付いたのはそれほど前の事では無かった。いや、無自覚であるならばそれこそこの町に引越しして来る前から何となくは感じていたのだが、阿多津が自分の持つその能力を完全に自覚したのは小五の頃、親友の由美恵が病気で倒れたのをお見舞いに行った時だった。
髄膜炎という子供にとって重い病気に掛かり、ベッドで苦しんでいた由美恵を助けたいと念じたとき、軽い眩暈と共に視界が突然モノクロのような世界に変わったのを阿多津は思い出す。
その世界に驚く間もなく、同時にゆらゆらとした灰黒い煙のようなものが由美恵に纏わり付いているのを見つけ――これが原因だ! と無我夢中に払いのけた感触。それまで苦しそうに呻いていた由美恵の血色がみるみる良くなり、表情も穏やかになっっていった確かな手応え。そのあまりにも強烈な感覚に阿多津は自分でも驚いていた。
――あさのん、この事は絶対に秘密にしてね。私、お父さんにもお母さんにも秘密にしたいの。だから誰にも言わないで! お願いッ!
が、すぐに阿多津はこの時、必死にお願いした。もし由美恵から両親に自分のこの能力が知れると大変な事になってしまうとハッとなって慌てたからだ。
元気になった由美恵は自分に起きた奇跡と、阿多津の激しい狼狽ぶりに、何が何だかわからずぽかんと口をあけていたが、状況を察し「うん、大丈夫。あたやん、安心して。私は絶対言わない」と大きく頷いた。
そして阿多津の手を握って心から言ったのだ。「ありがとう」と。
その言葉に今度は阿多津がぽかんと口をあけ――真っ赤になってはにかんだのだった。
あの時の決意のこもった真っ直ぐな、でも温かい目をした由美恵を、阿多津はずっと忘れないだろうと思った。
それから今まで、由美恵は一度も阿多津の能力をひけらかそうとも、言いふらそうともする素振りを見せていない。元々が義理堅く、良くも悪くも頑固な性格だからだろう、本当に頑なに口固く守ってくれている。
いや、それだけではない。由美恵はだからといって阿多津の能力を腫れ物扱いする訳では無く、二人になった時には、どう付き合っていくかを真剣に話し合ったりもした。その時は阿多津からも能力について積極的に話をし、二人は益々秘密を共有しあった。
――初めて病気を払ったのが由美恵で良かった。何より私の能力を知ってくれたのが由美恵で良かった。
阿多津は心から思っている。
もし、ずっとこの秘密を一人で抱えていたらどうなっていただろうか? 出来る事を隠し、能力を抱え込んでただの負担にしてしまっていたら、何よりバレてしまったらどうなるんだろうかと怯えていたら、きっとどこかで自分は疲れ果てて潰れて居たんじゃないか、と思う。
由美恵がいたから、話を聞いてくれたから、一緒に考えてくれたから、阿多津はこの能力と向き合い、乗りこなそうと頑張る事が出来ている。目標を決め、何が出来るかを理解する事が出来てきている。
――本当、感謝しかない。
だから、由美恵は親友なのだ。ずっとずっと大事な愛方なのだ。
そして今、愛方からのお願いが来た。
阿多津にとっても大事な友人の事だ。そして彼女はまだ完全には体調を崩している訳でもなく、自然と回復したと見れるレベルの症状だと阿多津は判断する。それは由美恵と二人で何度も話し合って決めた能力を行使するガイドライン範囲内だ。断る理由なんて何も無い。
――そりゃ、やらない訳が無いでしょ!
無意識に袖を捲くる。
「お、やる気だな高坂」
と、突然、教壇を方から先生の嬉しそうな声が聞こえた。
「――えっ?」
顔を上げると、黒板にまだ解の出て無い数式が幾つか書かれていた。
明らかに誰かに出てきてもらって解いてもらおうという体をなしている。
まさか……?
ちらりと先生を見ると、期待してるぞ、とでも言わんばかりの頷きを見た。
状況を一瞬にして把握。瞬時に顔が青褪める。
慌てて教科書を見る。そして教科書には無い数式だと理解する。これは先生オリジナルの問題だ。答えなんかどこにも載っていない。
「うそぉ」
目がパチパチと瞬き、心からの言葉が漏れる。
助けを求めようにも、由美恵も数学が絶望的に苦手。始めから充てになんか出来ない、というかしていない。当の由美恵も、自分は当たらないようにと息を潜めている感じが後ろから伝わってくる。
うわー、やっちゃった。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
頭を抱えこみたい衝動に駆られる。どんなに黒板を眺めても意味の解らない記号にしか見えず、ぐわんぐわんする頭のてっぺんから冷や汗が流れて来そうだ。
「じゃあ、最初の問題を高坂。次の問題を中山。そして最後を……ん? 何だか小難しそうな顔をしている朝野。お前らでやってみてくれ」
(うわっ、巻き添えッ?)
パニくる阿多津の後ろでガタンと椅子を鳴らし、同じように慌てる声が聞こえた。