高坂阿多津
1章
1
あれはタロの声だ。
いつも目覚まし時計が鳴る前に起こしてくれる柴犬のモーニングコールが耳に入ってくると少女はゆっくりと瞼をあけた。むくりと首を上げると、ショートカットの髪型のところどころが寝癖でピョンと跳ねている。
「うーん……」
高坂阿多津は、窓から優しい日差しが差し込んでくるのをまどろみながら楽しんでいた。心地よいひんやりとした風がカーテンを揺らしながらサラサラと入り込んでくる。
窓が開いているって事はお母さんが開けてくれたのかな? 気持ち良い……
季節も秋半ばに入った事でようやく朝の気配はあのじりじりとした夏の暑さから解放されたようである。
阿多津はそのまま暫く夢見心地の気分でまどろんでいたが、ゆっくりと枕元に手を伸ばすと、目覚まし時計をポンと軽く叩いて手に取った。瞼が「もう少しまどろもうよ」と重くのしかかってきたのだが、阿多津はその甘い誘惑をぐっと我慢すると時計の時間を確認する。
「五時二十分……か。良かった、まだ余裕がある」
阿多津は起き上がると、ベッドの上で気持ち良さそうに一つ大きく伸びした――のだが、すぐにベッドの上に膝を立てて座り込んでしまった。
「はぁ……」
溜息を吐き出す前からテンションが激しく落ちていく。気がつけばぎゅっと自分の足を抱きしめ、所謂体育座りで引きこもるように俯いてしまっていた。
「やだな……行くの」
気分が重い。
まどろみの心地良さが失われ、今日も訪れる不可避の憂鬱さが、ずしりとした重しとなって身体を沈めていく感覚。
いや、別に阿多津は朝が嫌いな訳ではない。朝日が差し込む景色を見るのも好きだし、学校で友人達と何を話そう、どう過ごそう、とあれこれ考えてはワクワクするのも大好きだ。
でも今は、それが出来なくなっていた。
ほとんど考えられなくなっていた。
高坂神社の神職をしていた父親が昨年亡くなって以来、阿多津の環境は理不尽にも一変してしまった。そして、その変化に阿多津の気持ちはまだ追いついていない。
「お父さん、自分は絶対呪われてなんかいないって言ってたのに……大丈夫だって言ってたのに……」
阿多津は憂鬱な表情で、更に膝の内側に深く顔を埋める。
一年近くの時が経ったのに、あの日の事を昨日の事のように思い出す。
「死んじゃうんだもん。酷いよ……」
呟く声が嗚咽で震えていた。
高坂神社は町の外れ、木々が生い茂る小高い山の上にある。
阿多津は今日も朝食を済ますと、自分が通う大谷中学校のセーラー服にカーディガンを羽織った姿で足取り重く鳥居の隅を潜っていた。顔にはありありと嫌な時間の始まりだと物語る憂鬱な表情が滲み出ている。
阿多津は中学生ながら高坂神社で巫女を勤めている。
この神社は江戸時代中期に襲った大飢饉の折に発生した恐ろしい疫病に対し、己の命を削ってまで貢献した稀代の名医「高坂鷹人」を称え敬い「人神」として祀った神社だ。
人神として祭られた偉人の功績の通り、高坂神社は「厄除け」「病払い」の神社として小さい割りに知る人ぞ知る場所となっている。医療が発達した現代でも手術の成功や万病予防への祈願の為に来訪する人は少なくない。
しかし、実際行った事がある一般参拝客には非常に評判の悪い神社でもあった。
神社の人間が高圧的で、見下されている感じがして居心地が悪かった。
厄除け、病払いをお願いしたら「あなたには無理です」と鼻で笑われた。
祈祷を受けるお金持ちだとわかる人間にはへこへこしていた。一般参拝客と露骨に対応が違う。
――など等。悪評を聞けばキリが無いくらいである。
神社で有りながら、まるでドレスコードでもあるかのような高慢経営。
いかにも金満な出で立ちをした氏子達が我が物顔で参拝客を物色でもするような日常。
もちろん高坂神社がそのような不快な神社となっていたのには理由があった。
高坂神社の神様は病を治すが神主殺す。
疫病を封じた高坂鷹人に習ってなのだろうか、高坂家代々の神職達は病を払う能力を代々受け継いでいたと言われている。彼らの祈祷の効果は抜群で、病であるならばたちどころに回復したらしい。
しかし同時に若くして亡くなった鷹人とこちらも同じように、例外なく彼らはまるで呪いにでも掛かったかのように短い一生を終えているのである。それも皆、まるで魂を抜き取られたようにパタリと突然に。それは高坂神社の神職の代替わりの早さは三百年弱という歴史の中で十三代までになっている事からもわかる。
故に普通の神社であれば本来神職がするべき仕事の大半を高坂神社では氏子や親族達が担う事と代々決まっていたのである。
当然氏子や親族達は神職の不可思議な力が莫大な富を産み出す事を理解していた。彼らは金の卵である高坂家の血を絶やさないように神職の身の回りの世話をする事で後見人としての権力も得ると、自分達に都合の良い管理体制を整える事に余念が無かった。
結果、藁にもすがる思いの人々から法外な玉串料を得るシステムを構築した彼らが特権意識から高慢になり、他者を選別してしまうようになったのは当然の事だっただろう。ましてや先祖代々でこのような甘い汁を吸い、お金を持て余してきた現代の氏子達なら尚更だ。端がどう見ようが、彼らにとってそれが当たり前の事なのだから。
これがほんの一年前まで阿多津が知らなかった高坂神社。
そして、今身をもって知ってしまっている高坂神社の昔ながらの汚い姿。
「悔しい……。お父さんが居れば、こんな事にはならなかったのに」
阿多津は唇を噛み締めた。
阿多津が知る高坂神社――父、高坂兼修がこの腐敗した神社に神職として就いた時は、氏子達や親族は神社での権力を始めて失っていたのだ。
兼修は双子の兄で高坂神社の後継者であった兼行の逝去に伴ない急遽代十三代目の神職に就いた――今まで男子一人しか生まれなかった高坂家においてイレギュラーで無価値と決め付けていた存在だったからである。
「父さん、先生やめて神主になろうと思う」
今まで絶縁状態だった高坂家の親族や氏子達が、兄の逝去によって大勢で押し寄せ、気味が悪いくらい下手に出ながら擦り寄ってきたとき、その身勝手なご都合主義の要望なんか絶対に断ると思っていた兼修のこの言葉に、阿多津も母親の多恵も唖然とし、気をもんだものだった。
しかしいざ就いてみれば、兼修は立派な神職だった。
彼は神職に就くや否や、今までのさばっていた氏子達を即座に神社から追い出したのだ。金はいらない、変わりに口出しもさせない、自分の思うようにさせてもらうと氏子達に強く約束させていたのである。
そのまま高坂神社の改革に乗り出すと、元々阿多津の目から見ても順序立ててしっかりと行動する優しい父親そのままに、誰が参拝しても良いように、安価で誰でも祈祷出来る様に、そして何よりも親しみ易い神社にしようと意欲的動いたのだった。
その成果もあって、たったの数年でそれまでの一般参拝客にとって居心地の悪かった神社はなりを潜めていき、参拝客の数が日増しに増えてきていた。何よりも大きな事だったのは、今まで氏子達を恐れるあまり参拝に来れなかった――いや、来ようとも思っていなかった近隣の人々と話をし、打ち解け、気がつけば境内の隅で芋を焼いて食べたり、余り物を貰ったり、わいわいと世間話が出来るようになっていた事あった。
阿多津が巫女として勤めるようになったのはその頃からだった。
初めこそ面倒がったものの、阿多津は穏やかで緩やかで温かい日々が確実に神社の中で流れているのを感じた。それは何とも言えない気持ちの良さだった。
近所のお婆さんや小さな子供への挨拶。友人達の冷やかし、一緒のお手伝い。
朝夕、境内を竹箒で掃きながら町の景色を一望する贅沢感。
阿多津は気がつけば父と一緒に勤めるこの神社が、時間が大好きになっていた。
これからずっとこんな生活が続いていくのも悪くないなと思っていた。
――だが、父の死によってその全てが幻のように掻き消えてしまった。
木々に覆われた薄暗い境内を阿多津はキョロキョロとどこか警戒した様子で進んでいる。
美しく手入れされた木々。手間を惜しまず綺麗に修繕された建物たち。全て新品に変えられピカピカとした大理石の美しい砂利道や本道。
阿多津の歩く境内は既に阿多津が父と一緒に居た頃の面影は、もう無い。
兼修が亡くなり、途端に息を吹き返した氏子達がこれみよがしに大金を出してくれたからこその贅をつくした構えだった。これは確かに父親と一緒にお勤めしていた時には絶対に出来なかった神社の豪華さ荘厳さだ。
しかし阿多津は気に入らなかった。気持ち悪くて仕方が無かった。何故なら父のやってきた改革を否定し、全て塗りつぶそうとしている氏子達の意趣返しの意図が明け透けに見えたから。歯を立てて笑っている姿が後ろに見えたから。
こんな見てくれだけ立派な神社、一目見ただけで来たくない。私が参拝客だったら絶対に帰る。足も踏み入れたくない。頼まれたって行きたくない。何がお父さんが出来なかった素晴らしい環境よ。返してよ! あの時間を返してよ!
あっという間に大好きだった場所が大嫌いになった。
本当ならこの神社に居る人間になんて誰とも会いたく無い。顔も合わせたくない。挨拶も会話もしたくない。こんなところもう二度と来たくない。関わり合いになりたくない。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
日に日に内側に溜まりに溜まった嫌悪感が抑えられなくなってきている。毎日毎日朝が始まると泣きそうになる。
それでも――と、挫けそうになる心を振り切り阿多津は前を向いた。
私には、ここでやるべき事がある。
お父さんがやろうとした事を消させはしない。大事な時間を過ごしてきた大切な場所をこんな奴等にこれ以上汚させはしない。
だから私は、まだ巫女を続けている。務めている。関わりを消さずにいる。どんなに苦しくても、辛くても、耐えて耐えて頑張らなければいけない。
今はどんなに望みが薄くても、可能性はきっとあるから。
「だから絶対、私が元に戻してみせるんだから!」