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初恋はチョコの味

付き合い出す直前のお話。

 年下のわんこみたいな男の子に告白されてから、早くも四年が経った。


 彼──祐斗くんは、私がチョコを買いに行く度に、ぱたぱたと見えない尻尾を振って近寄ってくる。ことあるごとに「あやさんが好きです!」って、少し照れながらも告白してくれる。

 顔を真っ赤にして、私のことを好きだと言ってくれる祐斗くんは可愛い。好きだと言われたら嬉しいし、胸の奥がほんのりと温かくなる。

 祐斗くんと話すのは楽しい。祐斗くんと話していると、四つも年下だとは思えないくらいに話が弾む。彼は何気に聞き上手で、一緒にカフェに行ったりすると、私の他愛も無い話をにこにこと聞いてくれる。

 祐斗くんのことは好きだ。

 だけど、恋愛対象として好きかと訊かれると、答えはノーだ。

 好きじゃないのに、こんな風に関わり続けるのは思わせぶりだろうか、もう連絡を経った方がいいのだろうか、って何度も悩んだ。

 それでも、「友達においしいチョコレートケーキの店を教えて貰ったんですけど、今度行きませんか」なんて誘われると、断れなかった。「祐斗くんのことは弟みたいにしか思えない」って何度断っても、祐斗くんは平気そうに笑うから。

 私は甘えていたのかもしれない。


 ──最近、祐斗くんの様子が少しおかしい。

 私がチョコを買いに行っても、嬉しそうに近寄ってくることが無くなった。目が合ったらふんわり笑ってくれるけど、私が話しかけない限り、決して話しかけて来ない。

 休みの日に遊びに行こうって誘われることも、無くなった。

 気付いたら私は休みの前日にはいつも、鳴らないスマホを握り締めて、ため息をついている。先週は忙しかったのかな、今週は来るかな、来週こそはLINE来るかな、って。

 だけど遊びのお誘いはないまま。他愛も無いメッセージすら来ないまま。

 気付いたらもう、半年近くが経っていた。



【初恋はチョコの味】



「それって、とうとう諦めたんじゃない?」

 駅前のカフェで、アイスコーヒーにささったストローをぐりぐりと動かしながら、友人の麻友は素っ気無く言った。

「え!?」

 チョコレートケーキをすくったフォークを宙に浮かせたまま、唖然として固まった私を意に介す様子も無く、麻友は退屈そうに続ける。

「だって、うちらが短大卒業した年からだから、もう四年でしょ? 高二だった祐斗くんとやらも、もう大学三年だよ? いい加減可愛げのない年上女なんか諦めて、可愛い同年代おないの彼女でも作って、リア充謳歌することにしたんじゃない?」

 可愛げのない年上女なんか諦めて、可愛い同年代の彼女を作る──……?

「ちょっと、彩。ケーキ落ちたけど」

 訝しげな麻友の言葉を気にしている余裕なんてなくて、私はテーブルに身を乗り出した。

「そうなの!? 祐斗くん、もう私のこと好きじゃなくなっちゃったわけ!?」

「それ以外無いでしょ? ……っていうか、なんでそんなショック受けてんの?」

 麻友は薄くなったアイスコーヒーをすすりながら、ますます不審げに眉根を寄せる。

「別に、その子のこと好きじゃ無いんでしょ? 年下でまるでわんこみたいに可愛くて、まったくそういう対象には見れないってずっと言ってたじゃん」

「それは、そうだけど」

 確かに、麻友の言う通りなんだけど、でもなんだかすっきりしない。

 麻友はコーヒーのストローから唇を離すと、私を見上げて、小さくため息を吐いた。

「あのね、好きだって言ってくれてた男が、自分のこと好きじゃなくなっちゃったら、面白くないのはわかるよ? でもそれって彩夏のわがままだよ。好きじゃないなら、いい加減開放してあげなよ。あんたがそうやって思わせぶりな態度取るから、その子も諦めきれなくて、ずるずると何年も片思いしてたんじゃないの?」

 ──会ったこともないけど、その祐斗くんが可哀想だわ。

 麻友はそう言って、今度はわざとらしく嘆息した。

「思わせぶりな態度、って」

 そんな態度を取ったつもりはない。私は何度も、「恋愛対象には見れない」って言った。

「頻繁にLINEしたり、休みに一緒に出掛けたりしてたじゃん。いくら好きじゃないって言われても、そんな態度取られたらやっぱり期待しちゃうよ。好きな相手だったらなおさら」

 そう、だったのかな。

 私は祐斗くんに対して、ひどいことをしていたんだろうか。

 そんなことを考えながら、ふっと窓の外に目を遣った、その瞬間。歩道を歩いている若い男女の姿に、私の目は釘付けになった。

 ──カラン!

「ちょっと、フォーク落ちたけど」

 麻友が何か言っている。

 でも、それどころじゃない。

 だって、あそこを歩いているのは。

 仲良さそうに笑いながら並んで歩いている、あの若い二人組は。

「……祐斗、くん」

 祐斗くんと、チョコレート屋のバイトの女の子だ。

「え、どれ、どれ!?」

 私の呟きに興味を示したように、だらけていた麻友が身を起こす。窓の外をきょろきょろと見回して、どこ、としきりに口にする。私はデニムシャツを着てる子、と告げた。

「デニムシャツって、え、まさか、あれ? あのカップルの男の方?」

 カップル、という言葉に、心臓を掴まれたように苦しくなる。やっぱりあの二人、カップルに見えるんだ。

「え、ちょっと待って。あれのどこがわんこ? 背ぇ高いしなんかかっこよさげだし、わんこ要素なくない?」

 麻友が驚いたように言った。

「え?」

 わんこじゃない? ……かっこいい? 祐斗くんが?

 不思議に思って見上げると、麻友は呆れたような目で私を見下ろしていた。

「しかももう彼女いるし。……彩夏、あれを袖にしてたわけだ。勿体無いなあ」

 私はもう一度、窓の外に目を遣る。並んで歩いている二人は、私たちから段々と遠ざかっていく。

 あの二人、まさか付き合ってるの? 祐斗くんはもう、私のことは好きじゃなくなってしまったのだろうか。

 ……当たり前か。

 年上だし、可愛くないし。告白されても、ずっと断り続けてたし。がさつで愛らしさのかけらもないし。

「……彩夏。なんで泣きそうになってんの?」

 戸惑いがちな麻友の声に、私ははっとして麻友を見上げた。麻友は心の奥底を覗き込もうとするような真剣な目で、じっと私を見下ろしていた。

「もしかして、祐斗くんのこと好きになってた?」

 ──私が祐斗くんのことを、好きに? 私は思わず頭を振った。

 祐斗くんは四つも年下で、わんこみたいで。どこか頼りなくて、可愛くて。明るい笑顔の似合う、お日様みたいな男の子だ。

「好きだけど、そういうのじゃない。……恋愛感情じゃない」

「本当に? じゃあなんでそんなショック受けてるの? 祐斗くんが彼女と歩いてたからじゃないの?」

「彼女じゃないし!」

 私は思わず声を張り上げていた。

「ちょ、声でかいから!」

 焦ったような麻友の声にはっと我に返って、辺りを見回す。隣のテーブルに座っていた女性がびっくりしたような顔で私を見ていた。私は慌てて頭を下げる。

「……ごめん。でも、彼女じゃないから。あの子、祐斗くんのバイト先の子だし」

 麻友は呆れたような目で私を見ている。

「バイト先の子だから彼女じゃないとは限らないけど?」

「……それは」

 確かに、そうなんだけど。

「あのね、彩夏は何か勘違いしてるみたいだから、はっきり言うけど。……祐斗くんはあんたのものじゃない。彩夏はどれだけ素気無くしても、祐斗くんは離れていかないって安心してたかもしれないけど、そんなことないんだよ。年頃の男の子なんだから、脈の無い女と時々カフェ行って喋るだけで、満足してるわけないでしょ?」

 麻友の言葉が、ぐさぐさと胸に突き刺さる。

「一緒に歩いてたさっきの子が彼女かどうかは、私は知らない。祐斗くんに彼女ができたかどうかも知らない。でも、あの子の気持ちは彩夏から離れて行ってるんじゃない?」

 祐斗くんの気持ちが、私から離れていく。──当たり前だ。私はずっと祐斗くんのことを振り続けていたんだから、いい加減他の子を好きになってしまっても、なにもおかしいことなんてない。

 だけど、なんで。

 なんでこんなに、胸が苦しいの?

「祐斗くんはあんたじゃない女に笑いかけて、手を繋いで、抱き締めて、好きだって言うんだよ」

 さっき祐斗くんと歩いていた、チョコレート屋のバイトの女の子。さらさらのロングヘアーが良く似合う、私よりも年下の可愛らしい子だ。祐斗くんがあの子に笑いかけて、あの子と手を繋ぐ。少し顔を赤くして、好きだって言う。──祐斗くんがあの子を、抱き締める。

 そんなの、嫌だ!

「なんでそんなこと言うの!?」

 勢い良く顔を上げて見上げた麻友は、呆れたように笑っていた。

「嫌なんでしょ。……彩夏、あんたやっぱりその子のこと、好きなんだよ」

 今まで気付いてなかったんだね。

 彩夏、好きな人できたこと無かったもんね。

 私はそう言って苦笑する麻友を、呆然と見詰めているしかなかった。





 麻友と別れた後、私は一人でとぼとぼと駅へ向かった。ここから私の最寄駅までは、電車で五駅程ある。ホームは結構混み合っていた。帰宅ラッシュの時間帯なのかもしれない。しまった、もう少し時間をずらせばよかった。何も考えていなかったな。私は電車を待つ列の最後尾に並んで、小さくため息を吐いた。

 ──祐斗くんは、本当にもう、私のことなんか好きじゃなくなっちゃったのかな。

 私、本当に祐斗くんのこと、好き……なのかな。

 今までそんな風に考えたこともなかったから、戸惑いが大きい。私が祐斗くんを好きな気持ちは、恋愛感情ではないとずっと思い込んでいたのだ。突然この気持ちが恋愛感情なのだと言われても、ああそうなんだ、とは受け入れられない。

 でも、祐斗くんに彼女が出来たらショックだ。私じゃない女の子に笑い掛けて、好きだって言っている祐斗くんを想像するのは、凄く嫌だ。これってやっぱり、好きってこと、なのかな。

 ホームに電車が滑り込んでくる。

 前の人に続いて、狭い車内に乗り込む。やばい、本当にぎゅうぎゅうだ。後ろからも次々人が乗ってきて、どんどんと中に押しやられていく。かかとが浮き上がりそうなほどぐいぐいと押しやられたところで、なんとか電車の扉が閉まり、電車が発進した。

 うう、狭い。私の仕事終わりの電車はもう少し早い時間だから、こんなに混雑してる電車に乗るのは久し振りだ。

 四方八方を人に囲まれていて落ち着かない。背が低い所為もあって、押し潰されそうになる。後ろからぐいぐいと押されて、隣に立っているサラリーマンのおじさんに身体を押し付けるような形になってしまう。凄く迷惑そうに見下ろされている気配がするけれど、私だって望んでおじさんにくっついているわけじゃない。次の停車駅で降りようかと思ったけど、ドアのところまで辿り着けるかすら定かじゃない。

 このまま後何分我慢すればいいんだろう。──俯いて、内心で深くため息を吐いた、その瞬間。腕をぐっと掴まれた。ぎょっとして顔を上げたら、すぐ隣に祐斗くんが立っていた。い、いつの間に?

 祐斗くんは口をへの字に曲げて、不機嫌そうな表情で私を見下ろしている。

 え、なんで? なんでここにいるの? というよりも、なんでそんな怒ったような顔をしてるの?

 私の知っている祐斗くんはいつもにこにこしている印象が強いから、機嫌の悪そうな表情にびっくりしてしまう。驚いて呆然とする私の腕を、祐斗くんは黙って引いた。

「すみません」

 周囲の人に謝りながら、私の体を強引に引き寄せる。祐斗くんは自分の胸に私の頬を押し付けるようにしてから、私の体をぎゅっと抱き締めて、深く息を吐いた。

「ゆ、ゆゆ、祐斗、くん?」

 な、なんで? なんで私、抱き締められてんの? 耳をくっつけた体から、少し速くなった祐斗くんの鼓動が聞こえてくる。

 祐斗くんは何も言わなかった。どうして祐斗くんがこの電車に乗っていたんだろう、とか、どうしてこんな風に抱き締めるんだろう、とか、訊きたいことはいっぱいあった。だけど、満員電車の中で会話をしている人なんていなかったから、私も唇を噤んだ。

 さっきまでの不快感とか、心細さは嘘みたいに無くなってしまって、心の中がふんわりと温かくなっていく。祐斗くんの腕の中は温かくて、何故だか安心する。

 そうしてほっとした所為か、ふいに、電車に乗るまでの間考えていたことを思い出してしまった。私は、本当に祐斗くんのことが好きなのだろうか。祐斗くんのことを好きなこの気持ちは、本当に恋愛感情なのだろうか、って。

 そんなことを考えた瞬間、一気に頬に熱が集まってくる。触れ合っている部分が、発火するんじゃないかって勢いで熱くなっていく。

 どきどきして、胸が苦しくなる。

 ──私、本当に、祐斗くんのこと好きなの?

 やがて電車が緩やかに停車して、扉が開く。ここは大きな駅だから、次々と人が降りていく。その分乗り込んでくるかと思ったけど、予想に反してあまり人は増えなかった。

 きつきつだった車内には僅かにスペースが出来る。だけど、背中に回された祐斗くんの手が離れる気配は無かった。

「……祐斗くん?」

 いつまでこうしているつもりなのだろうかと、躊躇いがちに顔を上げる。祐斗くんはじっと私を見下ろしていた。至近距離で見詰め合うような形になって、殊更に頬が熱くなる。

 だけど、真っ赤になっているであろう私とは違って、祐斗くんは平然とした顔をしているように見えた。

「どこまで行くんですか? 帰るとこ?」

「う、うん」

 私が頷いたら、祐斗くんはそっか、と呟いた。私の最寄り駅は四つ先だけど、祐斗くんの最寄り駅は次の駅だ。この駅から次の駅までは、そんなに遠くは無い。もう少ししたら、祐斗くんは降りて行ってしまう。

 ──そうしたら、もうこんな風に抱き締められることはないのかな。

 胸がきゅう、と切なく疼く。

 さっき麻友に言われた言葉を思い出す。祐斗くんはもう私のことなんか好きじゃないんじゃないか、って。同年代の彼女でも出来たんじゃないか、って。もし、もしも本当にそうなら、祐斗くんは、こんな風に彼女のことを抱き締めるのかな。優しく包み込むみたいに、ぎゅうって抱き締めるのかな。

 そう考えただけで、胸を刃物で貫かれたみたいに苦しくなる。

 そんなの、絶対に嫌だ。

 こんな風に優しく抱き締めるのも、笑いかけるのも、好きだって言うのも、私だけにして欲しい。他の女の子に、こんな風にしないで欲しい。祐斗くんの一番近くにいるのは、私であって欲しいのに。


 ──ああ、そっか。


 これが、好きってことなのか。

 私、祐斗くんのこと好きなんだ。いつの間にか、好きに、なってたんだ。


「”ご乗車、ありがとうございました。東原、東原です。扉にご注意下さい”」

 車掌さんのアナウンスで、ふと我に返る。

 ああ、祐斗くんの降りる駅だ。あっという間についてしまった。背中にまわされていた手が、離される。祐斗くんの体が、離れていく。祐斗くんが、行ってしまう。

 ──もう二度と、こんな風に抱き締められることは、無いのかな。祐斗くんはもう他に彼女が──或いは、好きな女の子が、いるのかな。

 私は思わず祐斗くんを見上げた。祐斗くんは一瞬、何故だか驚いたような瞳で私を見下ろしたけれど、すぐにぎこちなく、小さな笑みを浮べた。

「せっかく会えたんだし、送って行ってもいいですか?」

「え?」

 送っていくって、私の最寄り駅まで、ってことだろうか。

 今までも何度か一緒に遊んだことはあるけど、いつもは電車の車内で別れている。送ってもらったことなんて無かったから、戸惑いを隠せない。

 私がすぐに返事をしなかったからか、祐斗くんは眉尻を下げて、少し寂しそうに言った。

「……嫌ですか?」

 嫌な訳が無い。私は慌てて頭を振った。

「う、ううん」

「良かった」

 祐斗くんはほっとしたように笑う。

 でも、なんで? どうして今日に限って、送ってくれるなんて言うの?



 私の最寄り駅に着くと、祐斗くんと一緒に改札を抜けた。ホームで別れるのかと思ったら、家まで送って行ってもいいですか、と訊ねられたのだ。びっくりして一瞬固まったら、「家に上げてくださいなんて言わないので」と困ったような笑顔で告げられる。別に家を見られたら困るとか、そういうつもりじゃなかったんだけど、と思いながら、私はじゃあお願いします、と頭を下げた。

 私たちは並んで、家に向かって歩き出す。私の家は駅からそんなに遠くないから、あっという間に着いてしまうだろう。

 祐斗くんは、なんで今日に限って家まで送るなんて言ってくれたのかな。

 繋いだ手のひらが、緊張で汗ばんでいく。

 ──そうなのだ。私たちは、何故か手を繋いでいる。改札を出た後、祐斗くんは突然私の手を取ったかと思うと、指を絡み合わせてきた。なんでいきなり手を繋ぐの、とか、なんで恋人繋ぎなの、とか、不思議に思ってぎょっとしたけど、私は何も言えなくて──余計なことを言って手を離されるのが嫌で──繋がれた手はそのままだ。

「……祐斗くん、あのね」

 黙って歩いていた祐斗くんは、不思議そうに私を見下ろした。

 さっき一緒に歩いていたチョコレート屋の女の子と、付き合ってるの? 私のことなんて、もう好きじゃなくなっちゃったの? だったら、なんで今日に限って家まで送ってくれたりするの? どうして、手を繋いだりするの?

 訊きたいことは、どれも訊く勇気が無くて。「彼女が出来た」なんて、決定打を聞かされるのが怖くて。私は結局、抱いた疑問とは違う言葉を口にした。

「さっき、助けてくれて、ありがとう」

 電車の中で、私を引き寄せてくれたことに対して、まだお礼を言っていなかったことを思い出したのだ。突然すぎてびっくりしたけれど、今にして思ったら、祐斗くんはきっとかかとを地につけることもままならなかった私を助けてくれたんだ。

 そんな風に思ったら、また胸がきゅうって切なくなる。

 四つも年下で、頼りない男の子って思ってたはずなのに。いつの間にかすっかり、男の人になってしまっていた。

 私がなかなか気付けなかったから。

 だから、祐斗くんの気持ちは私から離れていってしまったのかな。

「……いえ。あやさんが、こんな時間の電車に乗ってるの珍しいですね」

 いつもならふわりと柔らかい笑みを浮べてくれるのに、祐斗くんの表情はどこか硬い。──それも、もう私のことなんて好きじゃないから……なの?

 訊くのが、怖い。

「今日は友達とお茶してたら、ちょうど帰宅ラッシュとかぶっちゃって」

 この時間帯ってあんなに混むんだね、あはは、と笑い掛けたけれど、祐斗くんは笑ってくれなかった。どこか硬い表情のまま、繋いだ手のひらに力を込めて、唐突に足を止める。

「祐斗くん?」

 不思議に思って、同じように立ち止まって見上げたら、祐斗くんはどこか苛ついたような口調で言った。

「あやさんは、危機感が無さ過ぎます!」

「へ?」

 危機感って、何だ。

「さっきだって電車の中で、あんな風におっさんに体くっつけたりして。ありえないです!」

「そ、それは、不可抗力でしょ!? おじさんだって迷惑そうにしてたけど、身動き取れなかったんだからしょうがないじゃん!」

 そんなこと言われても、と少しむっとして言葉を返す。だけど祐斗くんは眉根を寄せると、さっきまでの勢いが嘘のように、冷ややかに告げた。

「迷惑そうだった? どこが? ──あやさんのそういう鈍いところ、本当に嫌だ」

 嫌だという言葉に、胸がズキンと痛んだ。

「今だってこうやって手を繋いでも、振り払おうともしない。さっきだって、俺が強引に抱き締めても、あやさんは嫌な顔一つしなかった。……全部、分かっててやってるんですか?」

 だって、嫌じゃないんだもん。その手を離して欲しくないと、思ってしまっている。祐斗くんのことが好きだって、気付いてしまったから。

「分かってるって、何を?」

 いつも明朗な祐斗くんにしては珍しく、祐斗くんは何かに迷うように言い淀む。やがて、躊躇いがちに口を開いた。

「──あやさんがそんなだから、俺は期待してしまうんです」

 何を、と訊く間も無く、私は祐斗くんに抱き締められていた。

「っ!?」

 ぎゅう、と背中にまわされた腕に力が込められる。たったそれだけのことで、あっという間に、全身が熱を持ち始める。

 どきどきする。どきどきするけど、なんだか幸せな気持ちになる。

 ──麻友の言っていた通りだ。やっぱり私、祐斗くんのこと、好きだ。

「好きです。あやさんのことが、好き。……大好きです」

 祐斗くんの優しい声が、触れ合った体から響いてくる。祐斗くんの囁くようなその言葉で、一気に頬に熱が集まるのを感じた。

 今まで何度も言われた言葉で、今更こんなにドキドキするなんて、思ってもみなかったのに。

「……でも、これで最後にします」

 最後って、一体何を? 思わず顔を上げて問い掛けようとしたけれど、きつく抱き締められていてそれも叶わない。

「俺はあやさんの優しさに甘えて、ずっとしつこくしてたけど、もう……、終わりにします。いい加減、諦めることにします」

 終わりにするって、最後にするって……、どういうことだろう。

 もう二度と、好きだとは言ってくれないということ?

 こんな風に抱き締めてもらえることは、もう二度と無いということ?

 そう考えた瞬間、さあ、と青ざめていくのを感じた。好きだって言って貰えて温かくなっていた気持ちが、すうと冷えていく。

「や、やだ!」

 私は気が付いたら、そう口にしていた。

「は?」

 思わず、と言ったように、祐斗くんが声を上げる。

 嫌だ。

 これで最後だなんて、言って欲しくない。

 私から離れていかないでよ。

 ずっと傍にいて。

 この気持ちを言葉にしたいのに、今まで告白したことなんて無かったから、何て言えばいいのか分からない。

 四年もの間、私は何度も祐斗くんを振っている。今になってこんなことを言うのは、都合が良いって分かってる。でもやっぱり、祐斗くんがいなくなってしまうのは、嫌だ。祐斗くんが他の女の子と付き合うのなんて、絶対に嫌だ。

「私も、……好き」

 だから、離れていかないで。

 下ろしたままにしていた手を動かす。本当は、祐斗くんの背中に手をまわして、抱き締め返そうと思った。だけど結局勇気が足りなくて、私は指先で、祐斗くんの着ているデニムシャツの裾を掴んだ。

「祐斗くんのこと、好き……だから」

 私は祐斗くんの胸に顔を押し付けたまま、ぎゅっと目を瞑る。

 言ってしまった! 好きって、言ってしまった! 恥ずかしくて顔を上げられなくて、私はそのままじっと、祐斗くんの言葉を待っていた。

 だけど、いくら待っても、祐斗くんは何も言ってくれない。静かな空間で、じっと目を瞑っていた私は、ドキドキしていた気持ちに冷たいものが混じってくるのを感じた。

 もしかして、もう、遅かったのかな。

 祐斗くんは、ただ私と決別するために、最後にもう一度、好きって言ってくれただけだったのかな。

 本当はもうとっくに私のことなんか好きじゃなくて、他に好きな子がいたりするのかな。今日歩いていた、チョコレート屋のバイトの女の子とか。

 心が冷えていく。

 怖い。

 祐斗くんの気持ちが私から離れていくことが、こんなに怖いことだなんて思ってなかった。

 ……でもこれは、祐斗くんの気持ちを四年間も無下にし続けた、罰なのかも知れない。

 恐る恐る顔を上げる。祐斗くんは、放心した様子で、呆然としたように私を見下ろしていた。

「祐斗、くん?」

 思わずそう声を掛けると、祐斗くんはみるみるうちに表情を強張らせて、震える唇を開いた。

「なんで今日に限って、そういうことを……言うんですか」

 祐斗くんの目に浮かんでいるのは、拒絶と困惑の色でしかなかった。

 厚かましいことに──私は、祐斗くんは喜んでくれると思っていた。ずっと私のことを好きだと言ってくれていたから、私も祐斗くんが好きだと伝えたら、喜んでくれるのではないかと思っていたのだ。

 だけど、そんなことはなかった。

 やっぱりもう遅かったんだ。胸がズキンと痛くなって、私は俯いた。祐斗くんの顔を、見られない。なんだか気まずい沈黙が、ひどくいたたまれない。

 好きな人に気持ちを受け入れてもらえないって、こんなに辛いことなの?

 だったら私は何度も祐斗くんに、こんな気持ちを味わわせてしまっていたのだろうか。

「……念のために、聞きますけど……。それは、どういう意味なんですか」

 静かだった空間に、祐斗くんの少し硬い声が落ちる。 

 どういう意味って……、何がだろうか。私が祐斗くんを好きになったことに対して、訊いているの? 好きになったこということに対して、他にどんな意味があるというのだろう。

「どういうって……、そのままの意味、だけど」

 まさかこんな反応が返って来るとは思っていなかったから、戸惑ってしまう。

「あやさんの言う”好き”は……弟に向けるのと同じ感情ですよね。もう何十回と聞きましたから、よく分かってます」

 どこか悲しげな、冷たい声が降って来る。私ははっとして顔を上げた。いつもお日様みたいな笑顔を浮べていた祐斗くんは、なんだかまるで自嘲するような、切なげな苦笑を浮べていた。

 その顔を見ただけで、胸が痛くなる。祐斗くんにこんな悲しい表情をさせている原因が自分にあるのだと思うと、苦しくてたまらなくなった。

 ──祐斗くんは、信じてくれていないんだ。

 私が祐斗くんのことを好きになったということを、信じてくれていないんだ。

「……どうして最後だって言ってるのに、はっきり振ってくれないんですか。──俺は……もう、あなたを諦めたいのに」

 押し殺したような低い声が、くっついたままの体から響いてくる。私はぎゅっと目を瞑った。

「だって、最後にして欲しくない……から」

 恥ずかしいなんて言ってちゃ駄目だ。このままじゃ本当に、祐斗くんは私の気持ちを信じてくれないかもしれない。私は意を決して、デニムシャツの裾を握っていた指先を、祐斗くんの背中にまわした。しがみつくように抱きつくと、祐斗くんが小さく息を呑む気配がした。

「あや、さん?」

「祐斗くんが好き。……弟とは、違うよ。もう、違う」

 いつの間にか大きくなっていた実弟のことは好きだけど、こんな風に抱き締めたりしない。抱き締めたとしても、こんな風にドキドキしたりしないだろう。一緒にいて胸がきゅうって切なく疼くのも、他の女の子と歩いている姿を見て苦しい気持ちになるのも、祐斗くんだけだ。

 ああ、どうして気付かなかったんだろう。

 私はいつから、祐斗くんのことを好きだったんだろう。多分きっと、この気持ちが生まれたのは昨日今日の話じゃないのに。

「っ、本気で……、言ってるんですか?」

「うん」

「それは……、そういう意味で、って捉えていいんですか」

 そういう意味っていうのは、異性として、ってことだろうか。ゆっくりと、背中にまわされていた腕が緩められる。私も抱きついていた腕を緩めて、祐斗くんを見上げた。

 祐斗くんは真っ赤な顔で私を見下ろしていた。

 あ、可愛い。すっかり見慣れたその表情を見て、なんだかほっとする。頬を赤く染めて、どこか呆然としたように見下ろしてくる祐斗くんを見つめていたら、胸がきゅんと甘く疼いた。

 ああ、やっぱり私、祐斗くんが好きだ。

「うん」

 異性として──男の人として、好きだ。

 私が小さく頷いた瞬間、祐斗くんはふわりと顔を綻ばせた。もうすっかり見慣れた、おひさまみたいな笑顔を見たら、ただただ緊張でドキドキしていた心に、温かなものが生まれ始める。こんな笑顔も、久しぶりに見た気がする。

 祐斗くんの笑顔が、私に向けられている。

 以前だったら当たり前でしかなかったそれが、今、凄く嬉しい。

「やっぱり嘘とか、無しですよ。気のせいだったとかいうのも、無しです」

「言わないよ、そんなこと」

 こんなにどきどきしてるのに、心臓が張り裂けそうなくらいに激しく脈打っているというのに、これが気のせいなんてこと、あるわけがない。

 祐斗くんは一度大きく息を吸い込むと、どこか躊躇いがちに言った。

「俺と、付き合ってくれますか?」

 もちろん、祐斗くんにまだ私と付き合ってくれる気があるのなら。そう思って、頷こうとした瞬間、私は今日カフェで見かけた光景を思い出した。

 祐斗くんは、女の子と二人で歩いていたのだ。

「でも祐斗くん、バイト先の女の子は?」

「へ?」

 思わず問い掛けたら、祐斗くんはきょとんとしたように瞳を瞬いた。

「今日、デートしてたでしょ」

「デート?」

 怪訝そうに寄せられた眉根を見て、やっぱりデートじゃなかったのだろうか、とほっとして息を吐く。

「チョコレート屋の女の子と、二人で歩いてたから。デートかと思って」

「え!? 見てたんですか!?」

 びっくりしたように声を上げる祐斗くんに、私は頷いてみせる。

「カフェの窓から見えたんだ。二人、仲良さげだったから」

「あれは、たまたまバイトの上がりが一緒だったから、駅まで一緒に帰っただけです。デートとか……、そんな訳ないじゃないですか。俺が好きなのはあやさんだってこと、知っているくせに」

 祐斗くんは苦笑するように、そう言った。祐斗くんのその言葉に、私は心のもやがぱっと晴れたような心地がした。

 どうしよう。凄く、嬉しい。

「じゃあ私と、付き合ってくれるの?」

 そう口にしたら、祐斗くんはふわりと笑った。

「それ、訊いたの俺の方なんですけど。俺が嫌だとか、言うと思いますか?」

 言う訳が無いと言いたげな様子で、祐斗くんが笑みを深める。どこかいたずらっぽい笑顔にドキリとする。

 笑顔にドキドキするとか、そんなこと想像したこともなかったのに。うう。私、いつの間にこんなに、祐斗くんのこと、好きになってたんだろう。

 嬉しいんだけど、嬉しくてたまらないんだけど、なんだか少し、悔しい。私ばっかりドキドキしてる気がする。いつもは、私がすぐに赤くなる祐斗くんをからかっていたのに、今日はきっと私の方が赤くなっている。それがちょっぴり、悔しい。

 何か意趣返しがしたくなった私は、祐斗くんにも赤くなって欲しくて、緩められた腕の中で思い切って背伸びをした。いつの間にか少し高くなった頬に、一瞬触れるか触れないかのキスをする。

「っ、あやさん?」

 祐斗くんの、驚いたような声が降ってくる。その途端、ふと我に返った私は、恥ずかしくてたまらなくなった。祐斗くんに照れて欲しかったはずなのに、結局私自身が恥ずかしくなっている。恥ずかしさのあまり、私は祐斗くんの胸に顔を埋めようとした。

 でも、それよりも早く、背中から離された手のひらが、私の右頬を捉える。頬を優しく包み込むようにして、顔を持ち上げられた。温かくて大きな祐斗くんの手のひらが、私の頬に熱を与える。恥ずかしくて目を合わせられずに目線を下げていたら、ふいに顔に大きな影が落ちた。びっくりして目線を上にずらしたら、すぐ傍に祐斗くんの顔がある。ぎょっとして声を上げる間も無く、ふわりと唇を重ねられた。

 優しく触れた唇はすぐに離される。多分茹蛸のようになっている私を見下ろす祐斗くんの顔も、負けず劣らず赤い。

「……甘い」

 ぽつり、と祐斗くんが呟く。

「また、チョコ食べてたんですか?」

「え、う、うん。チョコケーキ、食べたけど」

 唇にチョコ、残ってたのかな。なんだか恥ずかしくなって唇を指で擦ろうとしたら、その腕を掴んで止められる。そのまま、もう一度唇を重ねられた。

「あやさんなら、甘くても好きです」

 言っている意味はよく分からなかったけれど、祐斗くんがなんだか嬉しそうに笑うから、私も嬉しくなって、ふわりと笑った。

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