花嫁の謎:陛下side
ぽたたたた、と小走りに近付いてくる足音に、香瑛の耳がぴくりと動いた。黒銀の髪に紛れていた同じ色の▲がぴ、と立つ。
軽やかな足音。女性のものだ。それも、小柄な。
「カリンか」
自分の執務室に小走りで接近してくる小柄な女性、ともなればカリンぐらいしか思い当らない。そして、彼女が廊下を走る、なんて侍女として相応しくない行動に出る理由も、一つしか思い当らなかった。
彼女に、花兎の姫君に何かあったのだろうか。
カリンには、今朝彼女にあてた手紙を託した。
最大限相手を尊重するよう、内容は非常に吟味を重ねたし、使う言葉も威圧的にならないよう、それでいて媚びぬよう、一国の王が他国の王族に送るのに相応しいものにした。
彼女は決して己が力で無理やり従えた奴隷のような存在ではないのだと、王族として対等であり、人間として対等であると伝えたかった。
すでに香瑛は彼女に対して取り返しのつかないことを幾つもしてしまっている。
彼女の身に起こった不幸の原因は、香瑛の祖父の犯した罪であり、それを正すことができなかったこれまでの両種族の導き手たちだ。そして、今代における香瑛の責任でもある。
花兎の一族に不必要なプレッシャーをかけ、恐ろしい暴挙に出ることを許してしまった。
だから香瑛は、誠心誠意彼女に向き合い、どんな形であれ彼女が望むようにその人生に責任を取ろうと思っていた。
足音が次第に近くなる。
香瑛は立ち上がると、扉へと向かった。
扉の外からは、カリンが息を整える気配がする。
そしてコン、と最初のノックが鳴るより先に、香瑛は内側から扉を開いた。
「!」
面食らったように、扉をノックしかけた体勢のままカリンが固まる。
そりゃそうだろう。
ノックしようと思っていた扉がその寸前で開き、自ら扉を開いて己を迎え入れたのが自国の皇帝だったならば誰でも焦る。
カリンの動揺は見てわかったものの、それを香瑛はさっくりと気づかなかったことにした。このあたりの鷹揚さは、さすが王族と言えるものなのかもしれない。
「彼女に何かあったのか?」
「……いえ、失礼致しました」
カリンはすぐに動揺を飲みこみ、丁寧な礼を香瑛へと送る。
主が主なら部下も部下、取りつくろうのが非常に上手い。
そして、何事もなかったような顔でカリンが香瑛へと差し出したのは、先日香瑛が花兎の姫君から受け取ったものと同じような書状だった。
「…………」
先日の絶縁状めいた手紙のトラウマを思いだして、香瑛の眉間に深い皺が寄る。
開くのも躊躇われるが、彼女からの手紙を見なかったことにするわけにはいかない。彼女がそうするとは思えないが、驕り高ぶった琥狼の王が、花兎の王族を蔑ろにした、などと声高に叫ばれるとますます厄介なことになる。
だが、これ以上心の傷を不用意に増やしたくない、と思うのも事実で。
「…………はぁ」
香瑛は深々とため息をついた後、丁寧に押された封蝋をぺりっと爪で剥いだ。
そして、文面を確認して何度か瞬く。
『陛下へ
せっかくのお手紙ですが、読むことができませんでした』
破り捨てたのか。
読む前に始末されたのか。
思わず再び床に崩れ落ちそうになった香瑛だったが、手紙には続きがあった。
『私は、読み書きに難があります。
聞くことはできますが、長い文章を書いたり、読むことが苦手です。
陛下のお手紙は、少し、私には難しすぎました。
陛下がよろしければ、カリンさんに読んでもらうことを許してもらえませんか。
もしくは、もっと簡単なお手紙をくださると、嬉しいです』
「蛇蝎のごとく嫌われているわけでは……ないのか?」
ついそんな呟きが漏れた。
手紙には「もっと簡単なお手紙をくださると、嬉しい」と書いてある。
手紙を寄こすな、でも、関わりたくない、でもなく。
「嬉しい」、と。
じんわりと、香瑛の胸の内にも喜びが広がる。
花嫁として迎えた女性に、言葉をかけることすら許されないほどに嫌われているのかと思っていたのがそうではない、ということがわかったのだ。
嬉しくないわけがない。
が、その一方で「読み書きに難がある」という彼女の言葉に疑問を覚える。
王族の女性でありながら、そのようなことがあるのだろうか。
香瑛が会ったことのある花兎の王族はアクトーネとその父ぐらいだが、両名とも非常に良く言えば聡明、悪く言えば狡猾と言えるほど優秀な人物だった。
そんな彼らの娘であり、妹である女性が教育を受けていない、ということがはたしてあるのだろうか。
だが……、文字の読み書きが出来ない、などという嘘をつく理由も、意味も香瑛には考え付かなかった。
「……カリン」
「はい」
「お前から見て、彼女は愚かな女性か?」
「いえ、そうは思いません。とても聡明なお方だと思っております」
カリンの返答は早かった。
カリンほど優秀な侍女から見ても、彼女は決して甘やかされ、教育を放棄されたようには見えない、ということだろう。
何かがチグハグだ。
かみ合っていない。
いくら花嫁を寄こせと大国からプレッシャーをかけられ、泣く泣く望まぬ婚姻を結ぶことになったからといって、自らの娘であり妹である少女の足の腱を斬り、声を奪って奴隷の態で差し出すというのはやはりおかしいのではないだろうか。
もちろん、最初からそれがおかしいのは香瑛もわかっている。
だからこそ、それほどの愚行に走るほど花兎の一族を追い詰めてしまったのかと考えた。あんな状態の彼女を見て、なおも花兎に花嫁を差し出せと迫るようなものは今後蘭の国には生まれないだろう。香瑛も、それを許すつもりはない。花兎は、今後降りかかりうる火の粉を払うために彼女を犠牲にするつもりなのかと、見せしめのつもりで彼女を送ってきたのだと香瑛は考えていたのだ。
けれど、何かがおかしい。
どこかで、ボタンをかけ違えている。
「……今は考えても無駄だな」
ぽそりと呟いて、香瑛は机へと向かった。
もちろん彼女への返事を書くためだ。
難しい言葉、形式ばった書式はなかったことにする。
シンプルに、簡単に、読みやすく。
そうして。
香瑛と花兎の姫君の文通が始まった。
次回小ネタ回。
おそらく今日中に投稿できるかと。