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忌み嫌われた灰焚べ魔女は、焼かされた花嫁衣裳の灰から真犯人を当てて、はじめて名前を呼ばれた

作者: 他力本願寺
掲載日:2026/08/04

忌み嫌われた灰焚べ魔女は、焼かされた花嫁衣裳の灰から真犯人を当てて、はじめて名前を呼ばれた



  一、灰焚べの朝



 わたくしは灰の魔女と呼ばれ、忌み嫌われております。


 王都ヴェルンシュテットの北東、焼却塔の石壁に囲まれた一室で、毎朝、運ばれてくる灰にまじった嘘を読みます。嘘は硫黄のように匂い、嘘は蜜蝋のように固まります。それを読みとれる者が、この王都には、わたくしくらいしかおりません。


 リゼット・ガルネ。二十二歳。灰焚べ。


 灰焚べというのは、王都が「燃やしてよいもの」と「燃やしてはならないもの」を仕分け、前者だけを焼き、後者を送り返す職人のことです。名目上はそうです。実際には、誰も引き取りたがらないものが最後に流れ着く場所の番人、ということになります。婚礼で汚れた敷布、貴族の失恋の手紙、告発された魔導書、身寄りのない死者の遺髪、それから、もう申さなくてよいものたち。


 塔は王都の稜線から少し外れた低地にあります。石壁は苔で緑がかり、煙突が二本、細い糸のような煙を朝の空へ引いています。冬は窓の内側が凍りますので、指の腹で拭って、その日の帳面を開きます。棚には帳面と、灰汁を落とす酢の瓶と、蜂蜜の壺。灰焚べの部屋の湯は、冬でも少し甘くしてよいことになっております。わたくしが自分で決めました。


 昨日、市場で干し葡萄を買おうとしたとき、店主のおばさんはわたくしを見て、そっと両手を合わせました。祈りではありません。魔よけです。彼女は葡萄をわたくしの分だけ台の上に置き、代金は石の匙で掬いました。指がわたくしの指に触れないように。


 ――嫌がるくらいなら、売らなければよろしいのに。


 そう思って口の端が上がったので、彼女はいっそう怯えました。わたくしは葡萄を袋に入れて帰りました。慣れております。慣れきっております。


 塔の朝は静かです。わたくしのほかには、下働きの少年が一人。トビという名で、十四歳。彼はわたくしの顔を正面から見ませんが、灰の袋はわたくしの手から直に受け取ります。それだけで十分です。


 そのトビが、今朝、扉の前で立ち止まりました。


「灰焚べ魔女、おはようございます」

「おはよう。昨夜は何が焼かれた?」

「昨夜は、まだ。今朝、一件だけ搬入があります」


 彼は言葉を選びました。


「婚礼前夜の、花嫁衣裳。一式です」


 わたくしは帳面を閉じました。


 花嫁衣裳一式。それは普通、禁忌職に持ち込まれる品ではありません。婚礼は祝福の仕事で、灰は穢れの仕事です。両者が絶対に交わらぬよう、王都の慣習は長い時間をかけて二つを分けてきました。ですから花嫁衣裳が焼却塔に来るときは、いつでも、どこかで誰かが「祝いたくない」と思っている、ということになります。


 嘘は必ず灰に残ります。それを当てることだけが、わたくしの仕事です。


 トビが扉を開けると、冬の光と一緒に、白い布に包まれた大きな包みが運び込まれました。搬入者はフードで顔を隠した女性でした。わたくしの顔を見ようとしませんでした。それはよくあることです。


 ですが、彼女が包みの上に置いた一枚の紙は、よくあることではありませんでした。



  二、婚礼前夜の灰



「婚礼儀典局・禁忌職区画搬入許可」


 紙の頭にそう書かれ、下に朱の印が押してありました。第三王子アルベルト殿下の儀典印です。婚礼を受ける側ではなく、婚礼を挙げる側の印。


 わたくしは許可書を灰かき火箸の柄で軽く押さえ、それから、依頼人の顔を見ませんでした。彼女がフードを外さないのですから、こちらにも確認する義務はございません。


「お名前を伺ってもよろしいですか」

「――侍女、と、だけ」

「どなたの侍女ですか」

「申せません」

「では、どなたの婚礼衣裳ですか」


 彼女は息を吸って、それから吐きました。


「明日、王都大聖堂で挙式なさる、クラリス様の」


 クラリス・フォン・ミルデンフルスト侯爵令嬢。第三王子との政略婚。王都復興資金の担保として持参金の目処を立てるための婚礼だと、下町では「札束を運ぶための花嫁」などと言われている御方です。わたくしは貴族の噂に関心を持たぬよう努めておりますが、トビがよく喋るので、耳に入るのは仕方がありません。


「衣裳は明日お召しになるのでは。今日、焼くのですか」

「これは、着ない、ほうです」


 侍女は口早に説明しました。衣裳は本式用と前夜祭用の二着が仕立てられていた。今日、前夜祭の支度の最中に、クラリス様が「こちらは着たくない」と仰った。理由は、香りが、いつもと違うから。


「調香師の手違いかもしれません。けれど本式用も同じ工房です。もし同じ手違いがあったらと、お付きの方が案じて――こちらだけ、燃やして確かめてほしいと」


「確かめる」というのは迂遠な言い方でした。要するに、この衣裳には毒が仕込まれているかもしれない、明日の衣裳にも同じことがされているかもしれない、と、どなたかが疑っておられるという意味です。


 貴族の御方が、宮廷にも衛兵隊にも訴えず、禁忌職の焼却塔に灰焚べを頼りに来る。それだけで、疑いの相手が宮廷か家中の内側にいると分かります。


「一つ、お伺いします。医師にお見せにはならなかったのですか」

「婚礼衣裳を裁って調べることは、不吉とされております」


 その通りでした。王都の礼法では、婚礼衣裳に異物の疑いが出たとき、鋏を入れて調べることは花嫁の縁を裁つに等しいとされ、疑いの出た品はその日のうちに焼くのが決まりです。そして王家の婚礼にかかる衣裳は儀典台帳に一点ずつ登録されており、家の炉で勝手に燃やすことはできません。儀典局の許可書を添えて焼却塔へ送り、返された灰をもって廃棄完了とする。灰は、王都にとっては「たしかに消えた」という書付の代わりなのです。


 ですから許可書は本物でしょう。婚礼儀典局には王家と侯爵家の役人が共同で入り、婚礼期間の物資搬入に限って第三王子の儀典印を使える者が、侯爵家側から三名、名指しで置かれます。この紙は、その三人のうちの誰かが押したものです。


 わたくしは頷きました。


「承ります。焼却は日の沈む前に。灰の判定は日没後になります。灰は袋詰めにいたしますので、明朝、こちらへお迎えを」

「灰の、判定、というのは」

「灰は嘘をつきません。誰が、どこで、何を、この衣裳に混ぜたのか。灰は憶えております。それをわたくしが読みます」


 フードの内側で、彼女は少しだけ頷いたようでした。


「一つだけ、お伝えしてよろしいですか、灰焚べ様」

「どうぞ」

「クラリス様は、明日の婚礼を、心から祝福されたいと願っておられます」


 それだけ言って、彼女は帰りました。


 わたくしは帳面に「花嫁衣裳一式・前夜祭用・香料異臭あり・判定要」と書き付け、包みを台の上に広げました。


 包みの覆いは前夜祭用のもので、工房札もそこに結ばれていました。マ行――王都随一の服飾工房「マレンティ」。


 中の衣裳は、白絹。薄絹の裾。銀糸の刺繍。襟の裏には、薔薇と葉の紋が細かく縫い付けられています。数えるまでもなく、ミルデンフルスト侯爵家です。


 花嫁衣裳の二着は、たいてい同じ絹、同じ裁ち方で仕立てられます。前夜祭用と本式用の違いは、身頃へ後から付ける襟だけ。芯の厚みと、襟裏の刺繍の葉の数です。見分けは覆いと工房札でつけます。王家の婚礼では汚損に備え、工房が五葉を縫った予備の本式襟を一つ納めますが、それは衣裳へ付けず、封もせずに儀典方が預かります。身頃へ襟を付け、最後の一針をかけ、検印糸で閉じるところまでが儀典方の職分です。ですから、ここまでは、ごく普通の花嫁衣裳でした。


 わたくしは襟に鼻を近づけました。


 ――薔薇と、蜜蝋。


 花嫁衣裳の香料は、白百合か、月下香か、雪柊のいずれかです。薔薇は使いません。薔薇は貴族女性の日常の香りで、婚礼の日に日常を持ち込むのは礼法に反します。それが一つ。


 もう一つ、蜜蝋。これは香料ではなく、封蝋の主成分です。手紙の封、書状の封印、あるいは紋章の認証に使うもの。


 なぜ封蝋の匂いが、花嫁衣裳から立つのか。


 封蝋と婚礼、と考えて、わたくしはひとつ思い出しました。


 王都の婚姻誓約には、三つの紙が関わります。一つ、家の財産原簿。これは家が持つ帳面で、誓約そのものではありません。二つ、聖堂に納める照合用の控え。婚礼の三月前までに提出され、記録には残りますが、法的な効力は持ちません。そして三つ目、花嫁の襟に縫い込まれる誓約用副本。当主が琥珀蝋で封じたその一枚だけが、祭壇で聖堂長に裂かれて読み上げられ、花嫁が誓ったその瞬間に、正本となります。


 そして、そのとき、紙の性質が変わります。目録は家の申告書ではなくなり、花嫁ご本人の保証になるのです。以後、記載に虚偽があったとき、第一の責を負うのは、印を押した当主ではなく、誓ったご本人。冷たい法だと、わたくしは常々思っております。


 襟の縫い口は、聖堂の検印糸で閉じられます。糸そのものは束で儀典方へ預けられますので、縫い直しはききます。ほどけば必ず痕が残り、婚礼の朝に検分されます。本式用の衣裳は前夜のうちに大聖堂の封印庫へ納められ、翌朝の公開検分までは、聖堂長であっても封を解けません。花嫁は、自分の襟に縫われて封じられた紙を、中身を見ないまま誓うわけです。


 ――けれど、これは前夜祭用です。前夜祭用の襟には、何も縫われません。


 わたくしは襟の芯を指で挟みました。厚い芯です。中に紙一枚あろうと、指では分かりません。ですが縫われていないと決まっているものを、灰焚べが疑う理由はありません。


 ですので、わたくしは帳面にこう書きました。


「毒、可能性有り。皮膚経由。焼却により確定を要す」


 それが、この時点でのわたくしの見立てでした。


 この見立ては、根から間違っておりました。



  三、炉の前の一刻



 日没の一刻前、炉に薪を組み、白絹を広げ、四隅に香油を数滴落としました。供養のためではありません。灰の粒子を均等にするための、灰焚べの技法です。均等に焼けた灰は均等な情報を残し、不均等な焼却は事実を歪めます。


 薪に火を入れ、わたくしは椅子に腰を下ろして、じっと炉を見つめました。灰焚べは、燃やすことよりも、燃えるさまを見ることのほうが仕事です。どの色で炎が上がり、どの順番で布が縮み、どの一瞬に煙が変わったか。それが後で灰を読むときの索引になります。


 絹はまず、裾から縮みました。銀糸の刺繍が赤く光り、すぐに消えました。煙は最初のひと呼吸だけ、わずかに緑がかりました。


 ――緑。


 わたくしは背を起こしました。緑の煙は、銅を含む染料か、乾いた植物の毒物です。夾竹桃の樹皮を乾かして粉にしたものが、いちばん近い。


 それから、襟が焼けました。


 襟は、最後まで残りました。厚い芯が湿気を抱えていたのでしょう。焔の中で襟だけが黒く縮み、そのとき、獣のような、爪を焼いたような匂いが、ひとすじ立ちました。


 絹の匂いではありません。羊皮紙の匂いです。


 わたくしは火箸を握ったまま、しばらく動けませんでした。


 炉の中では、前夜祭用の衣裳が、襟に紙を抱えて燃えていました。



  四、三つの皿



 火が落ち着いた頃、灰は白と灰色の粉になって静かに沈みました。わたくしは木匙で三箇所から灰を取り、三つの陶皿に分けました。東の窓を細く開けます。冬の空気は灰の匂いを鮮明にします。


 一皿目、裾の灰。

 二皿目、身頃の灰。

 三皿目、襟の灰。


 まず裾。緑の刺すような匂いがあります。夾竹桃です。間違いありません。次に身頃。襟。


 夾竹桃だけは、三皿ともほぼ同じ濃さでした。


 わたくしは筆を置きました。同じ、というのは、おかしいのです。


 皮膚から毒を入れるつもりなら、肌に触れる場所へ濃く仕込みます。襟の内側、袖口、胴の裏。裾の外側や、硬い銀糸の上に振っても意味がありません。三箇所が同じということは、犯人は場所を選んでいない。衣裳の全体に、上から均等にかけたのです。


 わたくしは指先で三皿の灰を擦り比べました。夾竹桃の粒は、どの皿でも表布の側にだけ残り、裏地の灰にはほとんど混じっておりません。つまり毒は、仕立て上がった衣裳が衣裳掛けに吊られているところへ、外から振りかけられた。


 そして量が、少ない。


 少なすぎるのです。振りかけた総量から見て、人ひとりを害するには遠い。花嫁が一日まとって汗ばんだとしても、せいぜい気分が悪くなる程度でしょう。


 ――この毒は、殺すために撒かれていない。


 では何のために撒くのか。答えは一つです。


 匂わせるため。


 着る前に、花嫁が気づく。香りが違うと言う。誰かが毒を疑う。疑われた衣裳は、鋏を入れて調べることを許されず、その日のうちに焼かれる決まりです。そして王家の婚礼衣裳は、家の炉では燃やせません。


 王都で焼ける場所は、北東の低地に一つきり。この塔です。わたくしの炉です。


 わたくしは椅子から立ち上がりました。膝が、笑うように震えました。


 この衣裳は、着せられるために汚されたのではありません。焼かれるために汚されたのです。狙われたのは花嫁の肌ではなく、衣裳そのもの。そして焼く道具に選ばれたのが、王都でいちばん人に嫌われている、誰の証言も採られない女でした。


 わたくしは三皿目の襟の灰に、顔を近づけました。


 羊皮紙の匂い。そして錆の色をした、砂ほどの粒がいくつも。没食子のインクに混じる鉄が、焼けて残ったものです。さらにその奥に、松脂の匂いがひとすじ。


 松脂の匂いのする蝋は、琥珀蝋。当主が誓約に押す、正式な封蝋です。しかも琥珀蝋は聖堂が婚礼ごとにただ一つだけ下付する支給品で、家の裁量で二つ目を作ることはできません。


 襟には、琥珀蝋で封じた羊皮紙が縫い込まれていた。誓約用副本です。


 前夜祭用の襟には、何も縫われません。


 わたくしは残った灰の中から、焼け残った銀糸の玉を拾い集めて、ランプの下に並べました。刺繍の紋の輪郭が、糸の焼け方でおぼろに読めます。


 薔薇と、葉。


 葉を数えました。五枚ありました。


 ミルデンフルスト侯爵家の紋は、日常の書付では三葉、聖礼の場でのみ五葉を用います。前夜祭は聖礼ではありません。


 わたくしは、今朝、この襟を見ております。見て、こう思ったのです。数えるまでもなく、侯爵家だと。


 わたくしは、数えませんでした。


 しばらく、何も書けませんでした。窓の外は日が落ちきって、王都の空は濃い藍色でした。焼却塔の壁が、いつもより近くにあるように感じられました。


 覆いと工房札を入れ替えるだけで、二着は入れ替わります。花嫁は香りの違いには気づけても、絹の裁ち方が同じ二着を、覆いの外から見分けることはできません。


 それから、わたくしは帳面の最初の一行を線で消して、書き直しました。


「焼却したのは前夜祭用ではなく、本式用。襟に誓約用副本、琥珀蝋の封印あり。夾竹桃は殺傷目的ではなく、衣裳を忌避させ、規則どおり焼却させるための偽装。明日、花嫁は別の衣裳を本式として着る。その襟に縫われているのは、別の紙」


 誰かが、目録を書き替えます。


 花嫁は祭壇で、自分の襟から出てきた紙に誓います。読み上げられたそれが、その日から正本になります。聖堂の控えは照合用に過ぎず、効力を持ちません。もし中身が偽物なら、露見するのはずっと後の照合のときで、そのとき偽りを誓っていた者は、家ではなく、あの日祭壇に立っていた娘ひとりです。


 わたくしは、三日前の噂を思い出しました。トビが喋っていたのです。大聖堂で〈階の稽古〉があった、と。花嫁が本式の衣裳をまとって聖堂の階を上る稽古です。


 わたくしは酢の瓶を取り、一皿目の裾の灰に数滴垂らしました。


 灰が細かく泡立ち、泡が引いたあと、皿の底に、青みを帯びた薄片がいくつも残りました。


 雲母です。北山の石切場だけに出る青雲母を含む石灰岩は、王都では大聖堂の階と祭壇の床にしか使われておりません。磨くたびに粉が出て、裾を引いて上れば、必ず裏に入ります。


 三度、証されました。羊皮紙。五つの葉。大聖堂の階の粉。


 わたくしが今日、日の暮れる前に炉へ入れたのは、明日クラリス様がお召しになるはずだった、本式の花嫁衣裳でした。


 それから、わたくしはもう一つの匂いに戻りました。薔薇と蜜蝋です。


 こちらは、夾竹桃とは違いました。表布にしかなく、しかも均等ではありません。肩と、袖の上のほうだけが濃い。手で掴んだ跡です。衣裳掛けの衣裳を回しながら、まわりに粉を振った者の、両手の跡。


 薔薇を練り込んだ蜜蝋は、当主の琥珀蝋とは別物です。安価で、香りがよく、日々の書付を大量に封じる者が使います。侯爵家でそれを一日中掌で温めている者は、儀典方です。


 そしてもう一つ。琥珀蝋は、婚礼ごとに一つきり。それは今日、わたくしの炉で燃えました。


 糸は束で預けられております。閉じ直すことはできる。ですが、蝋は。


 ならば、明日の襟を封じる蝋は、どこから来るのでしょう。


 他家の蝋を盗む、色だけ似せて練る、聖堂の庫を破る。道はありますが、今夜のうちに、記録を残さず、手元の品だけで間に合わせるなら――当主の古い書状から封蝋を削り集め、溶かし直すのが、いちばん早い。ですが削り屑では量が足りない。足りない分を嵩増しするのに、いちばん手近な蝋は――薔薇の蜜蝋です。


 印章そのものは儀典方が保管しています。ですから印影は本物になります。紙も、字も、印も本物に見える。ただ、蝋だけが混ぜ物になる。


 わたくしは帳面の最後に、こう書きました。


「実行者は侯爵家儀典方、儀典印を扱える三名のいずれか。手が薔薇蜜蝋の匂いを持つ者。明朝、衣裳の襟の封蝋を検分されたし」


 ――ですが、わたくしは法廷に立てません。


 灰焚べは、塔の外や公の場で灰を語ってはならない。塔内で認可を受けた官吏に伝えることは許されますが、公判で証言として採られることはありません。認可官は灰の判定だけを記録し、灰焚べ個人の名を公文書に残してはならない。灰焚べが見たのは灰であって事件ではない、というのが王都の建前です。慣習ではなく、成文の法です。


 わたくしは炉の残り火を見ました。この手が、婚礼をひとつ、灰にしたのです。


 それから、トビを呼びました。


「衛兵隊本部の、副隊長ベルナール・インク様。至急こちらへお越しいただくよう、伝書を」

「灰焚べ魔女。副隊長様は、灰焚べの伝書を、受けてくださいますか」

「――さあ。受けてくださらなかったときのことは、そのときに考えます」


 トビは駆けて行きました。わたくしは三つの皿を、静かに、見つめていました。



  五、証言できない証人



 ベルナール・インク副隊長は、来られました。


 思ったより早く、思ったより一人で。従者を連れず、外套の下に武装だけを整えて、扉を叩かれました。二十四歳、王都で最も若い衛兵隊副隊長。剣は間違いないが頭は正攻法しかない、と噂される御方です。わたくしは噂しか存じません。


「灰焚べ殿」


 彼は最初にそう呼びました。殿、と付けたのです。それだけで、この方がわたくしを下働きではなく職人として扱おうとしていることが伝わりました。


「夜分に失礼いたします。副隊長様、こちらへ」


 わたくしは三つの皿を並べ、帳面を開いて、指で示しました。副隊長様は皿を覗き込み、それから帳面の字を目で追われました。速い方でした。


「――皮膚から毒を入れる、と一度見立てて、粒子の配り方で撤回した」

「はい」

「撤回の根拠は」

「量と、配り方と、面です。表布にだけ、均等に、致死には遠い量。肌に触れぬ場所にも同じだけ。殺すための毒は、こういう撒き方をいたしません」

「では何のための毒だ」

「焼かせるための毒です。着せるためではなく、着るのを嫌わせるための。疑いの出た婚礼衣裳は鋏を入れずにその日に焼く決まりで、王家の登録品を焼ける炉は、王都にここしかございません」


 副隊長様の顎が、わずかに動きました。


「――我々ではなく、貴女を選んだ、ということか」

「はい。灰焚べの言葉は法廷に立ちません。ですから、灰焚べに焼かせれば、証人ごと消えます。廃棄の証として返す灰さえ引き取ってしまえば、書付の上では、きれいに消えたことになります」


 彼はしばらく黙って、それから、三皿目を指しました。


「これが、襟か」

「はい。羊皮紙と、鉄インクの錆、それに松脂。琥珀蝋です。襟に誓約用副本が縫い込まれておりました。前夜祭用の襟には縫いません。裾には大聖堂の階の青雲母。刺繍の葉は五枚。三日前の階の稽古で着るのは本式用のみ」


 言葉が、思ったより平らに出ました。


「わたくしが焼いたのは、明日お召しになるはずだった、本式の衣裳です」


「――では、明日、花嫁が着るものは」

「前夜祭用の身頃へ、工房が納めた予備の本式襟を付けたものです。そこへ別の紙を入れ、預かった検印糸で閉じる。襟を付け、最後の一針をかけ、検印糸で封じるところまでが、儀典方の職分ですので」


 副隊長様は、皿から目を上げて、わたくしの顔をご覧になりました。わたくしは目を伏せませんでした。灰焚べは目を伏せる仕事ではありません。


「灰焚べ殿。私は今日、本部で、この件から手を引くよう言われました」

「――さようですか」

「昼のうちに、婚礼儀典局から照会がありました。焼却塔の灰について妙な言い立てがあるかもしれぬが取り合うな、と。禁忌職の申し立てで婚礼に手を触れれば、隊が宮廷に詫びる話になる。上申の道は、もう塞がっています」


 わたくしは、帳面の上に手を置きました。


「では、お帰りください。副隊長様が職を失う理由に、灰焚べの帳面は軽すぎます」

「軽い重いは、私が決めます」


 彼は皿を一つ、掌に載せました。


「私が問うているのは、証拠能力です。灰焚べの判定は、法廷では採られない。私が明日、令状もなく公開検分に割って入り、聖堂長様に封蝋を削れと申し立てて、何も出なければ。私は職を退き、貴女は虚偽の灰判定で王家の婚礼を妨げた罪に問われる。――それでも、貴女は言いますか」


「申します」


 わたくしは筆を取り、帳面の余白に一行書いて、副隊長様の側へ向けました。


「灰は証拠になりません。ですが、灰が指した先にあるものは、証拠になります」


 彼が、その一行を読みました。


「明日の衣裳の襟を、聖堂長様の御前で裂いてください。中の封蝋を薄く削り、手燭の炎に近づけてくださいませ。松脂だけが立つなら、それは正しい琥珀蝋です。わたくしの読み違いです。ですが、そこに薔薇が立ったなら」


「――立ったなら」

「その蝋は、古い封蝋を削って溶かし直し、足りない分を日常の薔薇蜜蝋で嵩増ししたものです。印影は本物、紙も字も糸も本物、蝋だけが偽り。婚礼の琥珀蝋は聖堂が一つしか下付されません。二つ目が要るなら聖堂長様の裁可と、その理由の記録が要ります。儀典方が手元の品だけを使い、今夜のうちに記録を残さず封蝋を用意するなら、この方法しかございません」


 部屋が静かになりました。炉の残り火が、ひとつ鳴りました。


 副隊長様は、帳面を返そうとして、わたくしの指の上に指を置きました。


 わたくしが手をどけるのが遅れたのです。彼は、離しませんでした。一拍、二拍。それから、何も言わずに手を引いて、外套の襟を直されました。


 わたくしの指が、そこだけ、灰よりも熱くなりました。


 ――魔よけを、切られなかった。


「灰焚べ殿。ひとつ伺っても」

「どうぞ」

「なぜ、ここまでやる。灰焚べは焼くだけの仕事ではないのか。三箇所から取って読むのは、貴女の職分を超えている」


 わたくしは少し考えて、正直に答えました。


「わたくしが灰を焚べた日、王都の誰かが嘘を焚べました。灰は、嘘の側の重さを、わたくしに預けます。預かったものをそのままにするのは、灰焚べの矜持に反します」


 それから、少し声が落ちました。


「それに、今日は、わたくしの手が使われました。使われた手で、始末をつけたいのです」


 副隊長様は、皿を袋へ移されました。素手で。石の匙も使わずに。


 扉のところで、彼は思い出したように言われました。


「湯を、いただけますか」


 わたくしは驚きました。忌み人の器から飲む方は、王都にはおりません。


 トビが慌てて湯を運び、わたくしは蜂蜜を一匙落としました。副隊長様は立ったままそれを飲み、「甘い」と言って、少しだけ困った顔をされました。


「インク様」

「はい」

「灰と、よく合うお名前です」

「――そう言われたのは、はじめてです」


 扉が閉まりました。わたくしは椅子に戻り、それから、少し考えて、立ち上がりました。


 三つの皿のうち、一つは持って行かれました。残りは二つ。わたくしは二つの灰を油紙に包み、炉の裏の煙道、煉瓦が一枚外れる場所に押し込みました。空になった陶皿には竈の灰を掬って入れ、元のとおり台の上に並べました。


 なぜそうしたのか、そのときは自分でも分かりませんでした。ただ、今朝の侍女に、わたくしはこう申し上げたのです。灰の判定は日没後に、灰は明朝お迎えを、と。


 あの言葉は、侍女を通って、家中のどこかへ届いております。


 ――灰焚べは、灰を読む。


 それを聞いた者が、今夜、何を考えるか。灰は、王都にとって「たしかに消えた」という書付なのです。書付が読めるものだと知れたなら、取り戻しに来る者がいます。


 三の鐘が鳴る少し前に、扉が叩かれました。三度ではなく、二度。急いた叩き方でした。


 トビが心張り棒に手をかけようとしたので、わたくしは首を振り、自分で開けました。


 立っていたのは、上等な外套の男でした。四十ほど。手袋をしたまま、片手に手燭を持っています。


「夜分、失礼する。ミルデンフルスト侯爵家儀典方、儀典家令補佐のクラウス・ベルガーだ。朝方こちらへ搬入した品の灰を、急ぎ引き取りに来た」

「明朝のお約束でしたが」

「予定が変わった。明朝は婚礼だ。廃棄完了の届けを朝一番に出す。灰を頂こう」


 男は、わたくしの返事を待たずに部屋へ入り、台の上の二つの陶皿へ、まっすぐに進みました。


 わたくしは、その背へ声をかけました。


「ベルガー様。灰は三皿ございました。二皿しか、そこにはございません」


 彼の肩が止まりました。


「一皿は、日没後に衛兵隊がお持ちになりました。襟の灰です」


 振り返った男の顔は、手燭の下で、たいへん整っておりました。整っていて、白くなっていました。


「――襟の」

「はい。羊皮紙と、鉄インクの錆と、琥珀蝋が出ました。前夜祭用の襟には、何も縫われません」


 男は手燭を台に置き、外套の内側へ手を入れました。わたくしは動きませんでした。動かず、鼻から息を吸いました。


「ベルガー様。あなたの手は、薔薇の匂いがいたします」


 彼の指が止まりました。


「手袋の内側まで染みておられますね。薔薇を練った蜜蝋を、毎日、掌で温めていらっしゃる。衣裳の肩と袖にも、同じ匂いが残っておりました。粉を均等に振るために、衣裳掛けを掴んで回されたでしょう」


「――黙れ」

「黙ります。わたくしの言葉は、どこの法廷でも採られません。名を書かれることさえありません。ですから、黙ります」


 わたくしは一歩下がって、炉の火箸に手を伸ばしました。


「ですが、明日、あなたが襟に縫い直した紙は、聖堂長様が祭壇で裂いて読み上げます。あれは、わたくしではなく、王都が読むものです」


 男が踏み込みました。


 同時に、扉が外から蹴り開かれました。


 冬の風と、雪と、抜き身の音が一度にわたくしの部屋へ入り、次の呼吸でクラウス・ベルガーは床に押さえられていました。副隊長様は膝で男の背を押さえながら、少し息を切らして、こう言われました。


「――許可書の印が、気になって戻った。婚礼儀典局で第三王子の儀典印を搬入に押せる者は、侯爵家側に三人。そのうち一人が、日没後に邸を一人で出て、北東へ向かったと聞いた」


 それから、わたくしを見上げて、


「灰焚べ殿。ご無事ですか」

「無事です。皿は二つ、割れておりません」

「――皿か」

「わたくしの私物ですので」


 副隊長様は、笑うのを我慢したような顔をされました。


 トビは壁際で腰を抜かしておりました。わたくしは彼の頭に手を置いて、それから、煙道の煉瓦から油紙の包みを取り出し、副隊長様に渡しました。


「本物の灰は、こちらです。台の上のは、竈の灰です」

「――貴女は、来ることを読んでいたのか」

「読んでおりません。ただ、灰は読むと申し上げたのは、わたくしですから。嘘を焚べた者は、灰を怖がります」


 副隊長様は、油紙の包みを受け取りながら言われました。


「衣裳は宵のうちに封印庫へ納められています。前夜の二重封印は、殿下の命でも解けない。開くのは明朝の公開検分だけです。――夜が明けるまで、外を固めます」



  六、リゼット、と



 翌朝。婚礼の朝でした。


 大聖堂の鐘は、いつも通り、六の鐘を打ちました。婚礼の日は音が長く尾を引きます。わたくしは塔からそれを二度数え、二度目のあと、街の方角から、鐘とは違う喧噪が風に乗って届くのを聞きました。


 昼過ぎ、トビが息を切らせて駆け込んできました。


「灰焚べ魔女、婚礼が、延期になったそうです。一日だけ」

「そう」

「聖堂長様が、副隊長様の立会いで、大勢の前で襟を裂いたそうです。それで、封蝋を薄く削って、手燭にかざしたら――薔薇の匂いがしたって。並んでた貴族の皆さんに、はっきり分かるくらい」

「そう」

「花嫁様は、まだ袖も通しておられませんでした。ご無事です。名誉も、守られたって」

「そう」


 トビは、わたくしが「そう」しか言わないので、不安そうにこちらを見ました。わたくしは帳面を閉じ、それから、はじめて少しだけ笑いました。


「よかったですね」

「はい、灰焚べ魔女」

「あなたの伝書が、間に合いましたね」

「私じゃないです。灰焚べ魔女が、間に合いました」


 トビは湯を注いでくれました。わたくしは蜂蜜を二匙落としました。今日は特別、二匙です。


 クラウス・ベルガーの動機は、翌々日、副隊長様が取調べの経過を伝えに来られたときに、はじめて筋道で聞きました。噂ではなく、調べた言葉で聞くのは、灰を読むのに似て、少し疲れます。


 彼は八年、侯爵家の財産原簿を預かっておりました。北岸の塩田三区、南街道の関銭、山手の葡萄畑。原簿に並ぶ財のうち、いくつかは、すでに他所へ二重に担保に入れられていました。入れたのは彼です。最初は穴埋めのため、次は穴埋めの穴埋めのため。


 本来の誓約用副本には、その塩田と関銭と葡萄畑が並んでおりました。いずれも王都の抵当台帳に登録された財で、婚礼の翌週、王家の財務が台帳と突き合わせます。突き合わせれば、二重担保はその場で出ます。八年分の穴が、婚礼の翌週に露見する。


 ですから彼は、副本を書き替えました。


 新しい紙に並べたのは、辺境三領の徴税権と、雪の下にある山林と、外海航路の持分。どれも書式の上では立派な財で、抵当台帳には載りません。実在と評価額を確かめるには、巡察官が現地へ出るしかなく、道が開くのは雪解けのあと。食い違いが問われるのは、早くて数月先になります。


 そして、そのとき責を負うのは、家ではありません。祭壇で誓った瞬間、目録は花嫁個人の保証に変わります。虚偽の第一の責は、印を押した当主ではなく、誓った娘。彼はその数月のあいだに、帳面を整え、あるいは王都を出るつもりでいました。


 ただ、祭壇で正本となる資格を持つのは、当主の琥珀蝋で封じられた副本一枚だけです。それは花嫁の襟に縫われ、聖堂の検印糸で閉じられていました。ほどけば婚礼の朝の検分で必ず露見する。かといって、儀典台帳に登録された衣裳を、家の炉で燃やすこともできない。


 だから彼は、規則の道を通して消すことにしたのです。人を疑わせ、婚礼を汚さず、誰にも咎められない場所で。廃棄の証として返される灰さえ引き取ってしまえば、書付の上ではきれいに消える。彼が選んだのは、王都でいちばん忌み嫌われている女の炉でした。


「――聖堂の照合用控えとの突き合わせは、その日のうちに行われました。本来なら数月後の手続きですが、偽造が出ましたので、前倒しになりました。侯爵閣下が三月前に出された控えです。押収品には、三葉の襟が一つありました。前夜祭用の身頃から外したものです」


 副隊長様は、そこまで読んで、調書の控えを膝に置かれました。


「婚礼は、昨日、無事に行われました」

「衣裳は、どうなさったのですか。襟を裂かれたのでしょう」

「マレンティ工房が、聖堂長様の立会いで、一晩で仕立て直しました。検分で開いた予備の本式襟を縫い戻し、前夜祭用の身頃へ正式に付け直して。副本は聖堂の控えから書き起こし、侯爵閣下が改めて押されました。――琥珀蝋は、聖堂長様が特例で、二つ目を下付されました」


 わたくしは、少し目を上げました。


「その裁可には、理由を記録に残さねばならないはずですが」

「残りました。『前の一つは焼失し、その焼失を北東焼却塔の灰が明かした』と」


 彼は、そこで一度、言葉を切りました。


「ベルガーが最後まで手を出せなかったのが、その一行です。二つ目を願えば、なぜ一つ目が失われたかを書かねばならない。書けば、自分の企てを自分で公にすることになる。――貴女が読んだ通りでした」


「クラリス様は」

「白絹をまとって、階を上られたそうです」

「そうですか」


 わたくしは見に行っておりません。禁忌職は婚礼の場に入れませんし、入る気もございません。わたくしの場所は、ここです。


 その日の夕方、フードをかぶらない侍女が、塔まで来ました。顔を見せ、名を告げ、代金を、石の匙を使わず、直に、わたくしの手のひらへ置きました。指が、少し触れました。


 言伝は、一行だけでした。


「わたくしの誓いを、灰から拾ってくださったこと、忘れません」


 わたくしは帳面に、その一行を写しました。灰焚べの帳面は、焼いたものしか書かない帳面ですけれど、その日は例外にしました。わたくしが自分で決めました。


   *


 次の朝でした。


 扉が、トビではない誰かに叩かれました。三度、間隔を置いて、丁寧に。


 トビが開けて、それから、こちらを振り返り、何か言おうとして、言わずに脇へ退きました。


 副隊長様が立っておられました。陶皿と、紙束を抱えて。夜が明けきらない藍色の光の中で、外套の肩に、うっすら雪が積もっていました。


「お返しに参りました。貴女の、私物です」


 皿は洗われて、乾いていました。


「それと、事件報告書の写しを。正式に綴じられたものです。――一つ、お詫びがあります」


 彼は紙束の終わりのほうを開いて、わたくしに見せました。事件の経緯、証拠、押収物。そして通報者の欄に、こう書かれていました。


 ――北東焼却塔ノ灰。


「法が、貴女の名を書かせません。認可官は灰の判定だけを記録し、灰焚べの名を公文書に残してはならない。灰は名を持たぬ、と。三度書いて、三度消しました」


 わたくしは、その行を見ておりました。ずいぶん長いあいだ見ていた気がいたします。


「よろしいのです。灰が書かれているのなら、間違いではありません」

「私は間違いだと思っています」


 副隊長様は、紙束をわたくしの帳面の隣に置き、肩の雪を払われました。


「隊では、私の処分の話が出ました。令状のない検分でしたので。――聖堂長様が、庇ってくださいました。祭壇で薔薇の匂いを嗅いだのは、あの方も同じでしたから」


 それから、はじめて、まっすぐにわたくしの目をご覧になりました。


「灰焚べ殿」

「はい」

「――リゼット、と、お呼びしてもよろしいですか」


 わたくしは灰を読む者です。人の嘘は、焼かなければ読めません。けれど自分の嘘なら、焼かなくても分かります。


 わたくしは、たった一つ、灰にならない嘘を持っております。


 慣れています、という嘘です。


「……どうぞ」


 声が、思ったよりずっと細く出ました。


 副隊長様は、少し目を伏せて、それから、困ったように笑われました。


「では、私からも一つ。――ベルナールと」

「……ベルナール様」

「様は、なくても構いません」

「一度に、二つは、無理です」


 彼は、今度は隠さずに笑われました。


 トビが、気を利かせたつもりなのか、大慌てで湯を運んできて、蜂蜜の壺を二人ぶんの真ん中に置きました。わたくしは自分の湯に二匙、副隊長様の湯には、伺ってから一匙落としました。


 彼は、湯を飲みながら、窓の外の煙突を眺めておられました。


「リゼット殿。皿は、お返ししました。報告書も、お渡ししました。私が、ここへ来る用は、もうありません」

「――さようですか」


 自分の声が、少し落ちたのが分かりました。灰焚べは、こういう声を人に聞かせる仕事ではありません。


「ですので、来月からは、用のないまま参ります」


 わたくしは、彼を見ました。


「衛兵隊の焼却持ち込みは、月の初めに一度あります。あれを、私が運ぶことにしました。押収品の廃棄です。――誰も引き受けたがらない役目でしたので、すぐに通りました」

「……副隊長様が、灰を運ぶのですか」

「ベルナールです」

「ベルナール、様が、灰を運ぶのですか」


「運びます。運んで、湯をいただいて、帰ります。それだけです。灰の話でなくても、構いませんか」


 わたくしは、蜂蜜の壺の蓋を、閉めました。閉めて、それから、少し考えて、また開けました。


「――月の初めは、二匙にいたします」

「二匙は、甘すぎるのでは」

「甘くしてよい日を決めるのは、わたくしです。わたくしが自分で決めております」


 彼は、うなずいて、湯を飲み干されました。


 扉が閉まったあと、わたくしは棚から、もう一つ、陶の器を出して、洗って、乾かして、蜂蜜の壺の隣に置きました。


 それだけのことに、たいへん長い時間がかかりました。


 その朝、わたくしはようやく、自分の嘘を自分で焚べました。


 立った匂いは、硫黄でも蜜蝋でもなく、ただ、少し甘いだけでした。



〈了〉


 最後までお読みくださり、ありがとうございました。


 もし続きが読みたいと思っていただけましたら、感想欄でお聞かせください。いま考えているのは、次の三つです。


 一、後日談『灰焚べ魔女の、冬の朝』──月の初めに灰を運んでくる人と、二匙の湯のその後。

 二、連作短編──焼却塔に持ち込まれる、別の嘘の話。

 三、長編──なぜ灰焚べが「名を書かれない職」になったのか。王都がその法を作った日の話。


 番号だけでも、ひと言だけでも構いません。反応の多かったものから書きます。ブックマークや評価も、次を書く力になります。


 それでは、また、灰の匂いのするところで。


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