英語禁止の店 :約5500文字
「ふーん……。ま、良さそうな感じのお店じゃない」
彼女は店の前に立ち、腰に手を当てて満足げにそう言った。鼻をぷっくりと膨らませ、小さく何度も頷く。そして「ほら、入りましょ」と言い、一歩前へ出た。
するとレオナルドがすっと回り込み、店の扉を開けた。長い腕で扉を押さえ、半歩身を引いて彼女を先に通した。あまりにも自然な所作で、長年の習慣として染みついているように思えた。
おれも二人の後に続き、料理店の中へ足を踏み入れた。
この夜、おれは元彼女とその恋人のレオナルドと一緒に夕食を取ることになっていた。
数日前、彼女から突然、『一時帰国するから久々に会いましょ』と連絡が来たのだ。
数年前、彼女はこれまた前触れもなくある日突然こう言い出した。『オーストラリアに行くから別れて。たぶん、そのほうがお互いのため……』
おれは素直に承諾した。
前々から彼女の『前しか見ない』姿勢と、強烈な上昇志向にはほとほと疲れさせられていたのだ。とりわけ、自分の人生をドラマのように演出したがる癖には辟易していた。
ただ、今思い返すと、あのとき彼女は少し不満そうな顔をしていた気がする。おれがすんなり別れを受け入れたことが、自分の『理想の別れのシーン』とズレていたのだろう。
今回連絡を寄こしたのも、たぶんそれが彼女の中の物語の一部だからだ。現地でできた恋人をおれに見せつけるため。正確には、『海外で成功し、充実した人生を送っているあたし』だ。
レオナルドも不憫な男である。背が高く、顔立ちも整った伊太利亜人だが、心なしか疲れているように見えた。時折見せる遠い目は、祖国に思いを馳せているわけではあるまい。もっとも、すべておれの思い込みかもしれないが。
「でね、東南アジアを巡るツアーに参加したら、彼に惚れられちゃって。一緒にイタリアでオリーブオイルを作らないかって誘われたの」
店内はそれほど広くなかった。濃い茶色を基調とした木造の内装で、天井から吊るされた照明が淡い橙色の光を落とし、店内に柔らかな陰影を作っている。どこか古びた落ち着きを漂わせていた。
客はおれたち以外にいない。静かだった。
席に着くと、店員の女が机のそばにやって来て、静かに献立を置いた。黒髪を後ろで一つに束ね、厚ぼったいまぶた。地味な花柄の前掛けを身につけている。この店は家族経営らしく、たぶん娘なのだろう。入口横の会計台には、初老の女が椅子に腰かけていた。茶髪に強めの癖毛しており、あちらがおそらく母親だろう。
「プロオリーブオイラーとして毎日農園の仕事ばかりしていたんだけど、ある日ぷつんって糸が切れたみたいに何もやる気が起きなくなっちゃったの。それで、インドに行ったわけ。そしたら、あたしと同じ悩みを抱えた人に出会ってさあ。その人にこう言われたの――」
「あー、そろそろ注文しようか」
おれは献立を少し持ち上げながら言った。話を遮られたことに苛立ったのか、彼女はわずかに眉をひそめた。だが、すぐに笑みを浮かべ、「オッケー」と甲高い声で言った。
彼女が手を挙げると、店員が再びやって来た。
彼女はちらりとレオナルドを見て、注文するように目で促した。レオナルドは小さく頷き、献立を指さした。
「This one, please」
その瞬間だった。店員の顔がほんのわずかに引きつった。だがすぐに元の表情――笑っているのか無表情なのか判然としない曖昧な表情に戻ると、彼女のほうを向いた。
「お決まりですか?」
店員が訊ねた。
彼女は小さく息を吐いた。
「あの、彼、英語であなたに話しているんですけど」
「……英語が苦手でして。ご注文はお決まりですか?」
「I don’t understand」
彼女は今度は露骨に大きくため息をつき、そう言った。
レオナルドは困ったように眉を下げ、店員によく見えるように献立を差し出した。そして指で料理を示しながら、先ほどよりもゆっくりと発音した。
「This one, please」
その直後だった。
「Ohoooooooooo!?」
店員が突然、前掛けの胸袋部から玉筆を引き抜き、そのままレオナルドの右目に突き刺した。
レオナルドの肩に片手を置き、体重を乗せてぐいぐいと玉筆を押し込んでいく。レオナルドは「Ohooo……!」と呻きながら、玉筆を掴もうと必死に手を伸ばした。しかし、眼窩の奥で硬いものを削るようなゴリゴリッという鈍い音が響いた直後、その腕から力が抜けた。頭がゆっくりとうなだれ、レオナルドはそのまま机の上の献立へ突っ伏した。
赤黒い血がその上にじわりと広がり始めた。
「英語は苦手です。ご注文はお決まりですか?」
店員は玉筆を握ったまま、無表情で言った。
「わ、What――」
「やめろ! あ、あの、これを二つお願いします!」
おれは叫びかけた彼女の口を慌てて塞ぎ、震える指で献立を指し示した。その数センチ先の文字は血で覆われて見えなくなっていた。
「焼き豚の薄切り入り野菜和えの鉢ですね。かしこまりました」
店員は何事もなかったかのように慣れた手つきで献立を回収し、厨房のほうへ歩いていった。献立を閉じた拍子にレオナルドの血が小さく飛び散り、彼女の髪にかかった。ぽつんぽつんと小さな玉状に浮いていた。
「なんなの……これ……」
彼女が呆然とした顔で呟いた。ゆっくりと顔を傾け、レオナルドのほうを見る。眉根が寄り、大きく息を吸い込んだ――叫びの兆候だ。おれは慌てて手で制した。
「静かにっ。ここ、英語禁止の店らしい。表に貼り紙があっただろ」
「な、なんで、そんな、そんなの、なんで……!」
「最近、この国では外国人排斥の空気が強くなっているんだよ。感じなかったのか? 排除を掲げる政党が議席を増やしたり、世間全体がそういう方向に流れているんだよ」
「だから、なんでこんな店に入ったのよ!」
「いや、君が橄欖油料理専門店がいいって言ったんじゃないか」
「か、かんらんゆ……?」
「オリーブオイルのこと」
おれは声を潜めて答えた。
「こんなお店、嫌よ!」
彼女が勢いよく立ち上がろうとした瞬間、店員がお冷を持って戻ってきた。コトンと机に置かれた玻璃の杯の音が、やけに大きく店内に響いた。
店員は静かに一礼すると、そのまま奥へ下がっていった。
「なんなの、あのウェイター……ボールペンで彼を……」
「静かに……」
「ね、ねえ、逃げましょ……」
「そうしたいが無理だ……」
「なんでよ……!」
おれはゆっくりと振り返った。会計台の横に座っている初老の女店員がじっとこちらを見ていた。目が合ったので、おれはぎこちなく会釈した。初老の女は無表情のまま小さく頷いた。
「……すんなり通してくれると思うか? とりあえず食事して、自然な感じで出るしかない」
「食べられるわけないでしょ! 横に死体があるのよ! もうなんなの、席替わってよ!」
「わかったよ……」
「やっぱダメ。正面にあるの無理……」
「わかったよ」
「ス、スマホで警察を呼びましょ……」
「いや、携帯なんかいじったら作法違反になる。ここは大人しくするしかない」
「もう、ほんと最悪……Seriously, the worst……!」
彼女が小声でぶつぶつ文句を垂れ続けていると、店員が注文した料理を運んできた。
どんと紙製の大鉢が目の前に置かれた。中には野菜和えが山のように盛られていた。萵苣のほか、細かく刻まれた野菜や薄切りの焼き豚が混ざり合い、油をまとっててらてら光っている。強い香草の香りが立ち上り、食べる前から青臭さが口の中に広がったように感じた。
かなりの量だ。一皿で二人前、いや三人前はありそうだった。
店員は続けて小刀と叉の入った木の籠を机に置き、さらに三種類の橄欖油の瓶を整然と並べ始めた。琥珀色のもの、緑がかったもの、濁った黄色のものが等間隔できっちりと並べられた。
店員は一礼し、静かに下がっていった。
「どうすんのよ、これ……。本当に食べなきゃいけないの?」
「ああ。“良い客”であり続けるんだ。無事にここを出たければな」
おれは叉を手に取り、萵苣の山へゆっくり突き刺した。葉が軋むように裂け、小気味よい音を立てた。おれが何口か食べると、彼女もおそるおそる叉を動かし始めた。
「英語が苦手ならそれは別にいいの。でも、まずは彼のほうを見て、『英語が苦手なんです』って言ってほしかった。それがマナーでしょ」
「ああ」
「彼、旅が大好きだから少しだけど日本語を覚えてきたのよ。私が教えたの」
「だったら最初から日本語で言えばよかったじゃないか」
「あんな簡単な英語くらい通じると思ったのよ。メニューについて聞きたいこともあっただろうし、全部を日本語で話せるわけじゃないもの。通じないなら、それはしょうがないの。この国、本当に英語教育に力を入れてるの? とは思うけど。いいの。ただ、途中からあたしのほうしか見なくなったじゃない」
「そうだな」
「あたしが言いたいのは、英語を話せないことが問題なんじゃないの。多言語を話す人を無視するのはどうなの? ってこと。ただ一言、彼のほうを見て、何語でもいいから返事をしてくれればよかったのよ」
「確かに」
「旅の醍醐味って、現地の人と交流することでしょ? だから彼の目を見て、どんな言語でもいいからコミュニケーションを取ってほしかったの。それだけ」
「ああ」
「どうしろっていうの? あのウェイターがあたしに目線を向けたとき、『ああ、この人きっと英語が苦手で助けを求めてるんだな』って空気を読むべきだった? はいはい、で、そのあとあたしが彼に状況を説明してあげるべきだったのね。他の店でも似たようなことが何度かあったのよ。彼もその点だけは不満だって言ってたわ。ほんと、この国の英語教育はどうなっているの? でも結局、こっちが悪いんだもんね。あーあ、これまでお会いした全国のウェイターさんたち、あたしが空気を読めずに助けてあげれられなくて大変失礼いたしました」
「そうだな」
「ただね、こっちは英語を強要しているわけじゃないの。わかる? そこは勘違いしてほしくないのよ。彼は日本語を話せないから、英語で注文を取ってもらえますかって優しくお願いしているだけなの。それのどこが悪いの?」
「君は悪くないよ」
「個人的な興味であの人にお伺いしたいわ。彼女のやっていることって、日本語の強要じゃないの? 英語を押しつけられるのは嫌なのに、日本語を押しつけるのはいいの?」
「ああ、まったくだ」
「あたしだってかなり頑張ったのよ。彼のことを見てって言ったの。なのに、なんか違う方向に行っちゃった感じ。はあ……」
「そうだな。頑張ったな」
おれは彼女の話に相槌を打ちながら、黙々と野菜和えを口へ運び続けた。
懐かしい感覚だった。彼女と付き合っていた頃を思い出す。あの頃もだいたいいつもこんな感じだった。彼女は延々と喋り続け、おれは適当に頷きながら聞き流していた。
おれはぼんやりと思い出に浸りながら、野菜和えに橄欖油を回しかけた。
「プロのオリーブオイラーとして、こんな店は絶対に認められない。あとでSNSに書くからね」
「ああ」
時間はかかったが、結局二人とも野菜和えを平らげた。
おれはともかく彼女が完食したのは意外だった。おそらく現実逃避なのだろう。隣で血まみれになっているレオナルドのことを彼女は一度も見ようとしなかった。
おれは伝票を手に取り、会計台へ向かった。
「三千七百五十円になります」
初老の女店員は慣れた手つきで金銭登録器を打ち、最後にチンと鈴を鳴らした。
「えっと、ちょうどで」
おれは財布を開き、紙幣と小銭を取り出した。彼女は財布を出す素振りすら見せず、腕を組んだまま初老の女店員を睨みつけていた。
会計を終え、おれは軽く会釈して扉に手をかけた。
そのときだった。彼女が大きくため息をついた。
「“ノーイングリッシュ”くらいは覚えてほしいわ」
皮肉をたっぷり含んだ声だった。
直後、初老の女店員の手が動いた。まるで塩でも撒くようにひらりと横へ払われた。その手には合成樹脂製の伝票綴じ具が握られていた。
彼女は目を見開き、口をぽっかりと開けたまま固まった。
おれが横から顔を覗き込むと、彼女の喉元に細い赤い線がじわりと浮かび上がった。それはまるで口紅を一本引いたかのように鮮やかな赤だった。そしてその線はゆっくりと左右へ広がり、やがてぱっくりと裂けた。白っぽい肉のひだが覗き、その奥からどろりと暗い血が滲み出してきた。
彼女は後ろへ倒れた。
喉にできた第二の口から濁った血が絶え間なくあふれ続けた。あるいは第三の口か。まあ、どうでもいい。びくっびくっと痙攣するたびに、そこから血が上向きに飛んだ。まっすぐ天井を見上げながら、排水口のような音を立て続けている。
おれはその音を聞きながら小さく息を吐いた。
まさか、別れた頃から何ひとつ変わっていないとは驚いた。そして呆れた。
連絡が来た直後、少しだけ嬉しかったのは事実だ。だが、すぐにふつふつとあの頃の苛立ちが蘇ってきた。だから、おれはこの店を選んだのだ。
もっとも、こんな結末になるとは思っていなかった。彼女が、おれか店員のどちらかに一言謝っていればたぶんこうはならなかっただろう。残念だ。
おれは初老の女店員に軽く会釈して、再び扉に手をかけた。
「……いや、プロのオリーブオイラーってなんだよ!」
思わず口から言葉が滑り出た、その瞬間だった。
しまったと気づいたときにはすでに遅かった。
初老の女店員が手をひゅっと振った。
そしてその一振りが、おれの世界を真っ二つに切り裂いた。




