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「好き」が「嫌い」になる呪われ令嬢は、旦那様の前でだけ全力で愛を叫んでしまう

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2026/02/07

 私――エリーゼ・フォン・グラーフは、伯爵家の一人娘として生まれた。


 容姿は悪くないらしい。銀に近い灰色の髪と、冬の湖のような青灰色の瞳。社交界では「冷たい美貌」などと囁かれるが、別にそうなりたくてなったわけではない。


 問題は、私の口だった。

 正確に言えば、私にかけられた呪いだった。


 五つの誕生日。

 母が焼いてくれた苺のタルトを前にして、私は満面の笑みで叫んだ。


「お母様、大嫌い!」


 皿が割れるような沈黙。

 母の顔から、ゆっくりと色が消えた。


 違う。違う、違う。

 私が言いたかったのは「大好き」だ。

 大好き、大好き、ありがとう、嬉しい。

 でも喉を通って出てくるのは、全部逆だった。


「嬉しくない」「ありがとうなんて思わない」「一緒にいたくない」


 泣きながら首を振っても、口から出る言葉は全て裏返る。

 感情が乗った瞬間、言葉が反転する。

 事実の伝達はできる。「今日は晴れです」「この花は薔薇です」――そういう無感情な言葉は普通に言える。

 けれど「綺麗ね」と思った瞬間に出るのは「醜いわ」であり、「ここにいたい」と願えば「帰りたい」と唇が動く。


 母は三日間、部屋から出てこなかった。


 高名な魔術師が呼ばれ、呪いだと断定された。

 出生時に嫉妬した誰かが、産着に織り込んだ呪術。犯人は結局わからなかった。

 解呪の方法も。


 そうして私は、王都で最も嫌われた令嬢になった。



 * * *



 呪いだとわかっていても、人は言葉に傷つく。


 理屈ではわかる、と母は言った。でも「あなたなんか産まれてこなければよかった」と娘に言われ続けて、平気でいられる母親がどこにいるだろう。


 父は私を社交の場から遠ざけた。

 使用人には「感情的な発言は全て逆だと思え」と通達したが、新しく入った者は必ず一度は泣いて辞めていった。


 私は次第に、感情を込めた言葉を発すること自体をやめた。


 事務的に喋る。感想を言わない。褒めない。けなさない。

 何を食べても「結構です」、何を見ても「わかりました」。


 社交界では「氷の令嬢」と呼ばれた。

 裏では「呪われ令嬢」と。


 友人は、一人もできなかった。


 ――それでも。


 本当は、あの庭に咲く紫陽花を綺麗だと言いたかった。

 焼きたてのパンの匂いに、幸せだと言いたかった。

 母に、ごめんね、と。本当は大好きなの、と。


 でも言えば言うほど傷つける。

 だから私は黙ることを覚え、黙ることに慣れ、黙ることが私になった。


 そんな私に、ある日、父が言った。


「エリーゼ。辺境伯ヴェルナー家から、縁談が来ている」


 辺境伯ヴェルナー。

 王都から馬車で七日。北の果て、万年雪に閉ざされた領地を治める家。

 現当主は若いが、「人嫌いの隠者」として知られていた。


 社交には一切出ない。

 王都の貴族とは書簡のやりとりすらほぼない。

 領地経営は堅実だが、本人に会ったことがある者がほとんどいない。


 要するに――誰にも望まれなかった令嬢を押し付けるには、ちょうどいい辺境。


 父の表情にそう書いてあった。


「……わかりました」


 感情を込めなければ、言葉は裏返らない。

 だから私はいつものように、無味乾燥な三文字で答えた。


 本当は「寂しい」と言いたかった。

 言えば「嬉しい」になるから、言わなかった。



 * * *



 北への旅路は、長かった。


 馬車の窓から見える風景が、日を追うごとに色を失っていく。

 緑が茶に、茶が白に。

 王都の喧噪が遠ざかるほど、胸の底に沈んでいた澱が不思議と軽くなるのを感じた。


 誰も私を知らない場所。

 誰も私の言葉に傷つかない場所。


 それは、追放というより――解放に近い響きがした。


 七日目の朝。

 雪の中に、石造りの屋敷が見えた。

 巨大ではないが、堅牢で、飾り気がない。主の性格そのものみたいな建物だ。


 馬車が止まる。

 御者が扉を開ける。


 冷気が頬を刺す。

 その先に、一人の男が立っていた。


 黒髪。琥珀色の瞳。背が高く、肩幅が広い。

 貴族というより軍人に近い体躯だが、纏う空気は静かだった。

 表情が、ほとんどない。


「ディートリヒ・フォン・ヴェルナーです」


 低い声。抑揚がない。

 まるで事実を読み上げるような自己紹介。


「……エリーゼ・フォン・グラーフです」


 私も負けじと無機質に返した。

 互いに感情を排した、完璧に退屈な初対面。


 ――のはずだった。


「長旅で疲れているでしょう。部屋に暖炉を焚かせてあります。湯も沸いている」


「……ありがとうございます」


 感謝は事実の報告だ。裏返らない。

 けれど、暖炉と湯が用意されていると聞いた瞬間、胸の奥がじわりと温かくなった。


 その温もりを、言葉にしてはいけない。


 私は唇を引き結んで、屋敷の中に入った。



 * * *



 辺境での日々は、驚くほど穏やかだった。


 使用人は少ないが、みな寡黙で実直だった。余計なことを訊かない。余計なことを言わない。

 北の人間の気質なのか、それともこの主に長く仕えるうちにそうなったのか。


 ディートリヒは、朝から執務室にこもり、昼に私と食事を取り、午後は領地を回り、夜は書斎で本を読む。

 規則正しく、静かで、予測可能な人間だった。


 会話は必要最低限。

 でも、不快ではなかった。


 三日目の昼食。

 出された鹿肉のシチューが、びっくりするほど美味しかった。


 口の中に広がる深い味わいに、思わず目を見開く。


「……っ」


 言いたい。美味しい、と言いたい。

 でも言えば「不味い」になる。


 黙ってスプーンを置いた。


「口に合いませんでしたか」


 ディートリヒが、淡々と訊いた。


「いえ、そういうわけでは……」


「おかわりを用意させましょうか」


「え」


「三口で皿が空になっていたので」


 ……見られていた。

 恥ずかしさで頬が熱くなる。


「……では、お願いします」


 おかわりは事実の要求だ。裏返らない。

 二杯目のシチューを、私はまた三口で空にした。


 ディートリヒは何も言わなかったが、翌日の昼食にも鹿肉のシチューが出た。


 ――偶然だと思いたい。

 でも、翌々日に私が焼きたてのパンの匂いで足を止めたとき、次の朝食の籠にはまだ湯気の立つパンが山盛りになっていた。



 * * *



 事件が起きたのは、七日目だった。


 屋敷の裏手に、小さな庭がある。

 雪に覆われたその隅で、一株だけ冬薔薇が咲いていた。

 深い紅色。雪の白に鮮烈に映える。


 思わず、声が出た。


「――醜いわ」


 瞬間、自分の口を手で塞いだ。

 綺麗だと思った。綺麗だと言いたかった。

 でも出てきたのは正反対。


 背後に気配。


 振り返ると、ディートリヒが立っていた。

 いつからいたのか。何を聞いたのか。


「……失礼しました。独り言です」


 心臓がうるさい。

 彼はこの薔薇を大切にしているかもしれない。なのに「醜い」と言ってしまった。


 弁解したい。でも弁解に感情を込めれば、もっと酷い言葉になる。


 逃げよう、と踵を返しかけたとき。


「そうですか」


 ディートリヒの声が、静かに降った。


「確かに、冬に咲く花は強情ですね」


 ……え?


「でも、その強情さが綺麗だと、私は思います」


 彼は薔薇を見ていた。

 穏やかとも無表情ともつかない顔で。


 怒っていない。傷ついてもいない。

 まるで私が「醜い」と言ったことを、気にしていないかのように。


 いや。

 もしかして。


 聞こえて、いなかった?


「あの……先ほどの私の言葉、聞こえましたか」


「ええ」


 聞こえていた。なのに、怒らない。


「……何と、聞こえましたか?」


 奇妙な質問だと自分でもわかっている。

 でも訊かずにはいられなかった。


 ディートリヒは少し首を傾げた。


「『綺麗だ』と言っていたように聞こえましたが」


 世界が、止まった。



 * * *



 混乱した。

 激しく、徹底的に、混乱した。


 部屋に戻り、ベッドに突っ伏して考える。


 空耳? いや、彼ははっきり「綺麗だと言っていたように聞こえた」と言った。

 私は「醜い」と言った。それは間違いない。


 なぜ。

 どうして。

 彼にだけ、言葉が正しく届いたの?


 いや、待って。たまたまかもしれない。「醜い」を「美しい」と聞き間違えることなんてあるだろうか。……ない。普通はない。


 翌日。

 私は確かめることにした。


 朝食の席。焼きたてのパンを一口かじる。

 バターの香りが口に広がる。

 今度は意識して、感情を込めて言った。


「このパン、不味いですね」


 使用人がびくりと肩を揺らした。

 料理長の顔が一瞬で曇る。


 ――ああ、ごめんなさい。美味しいって言いたかったの。


 でもディートリヒは、紅茶のカップを傾けたまま、こともなげに言った。


「ええ。美味しいでしょう。この地方の小麦は寒暖差で甘くなるので」


 ――やっぱり。


 彼には、逆に聞こえている。

 いや、正しく聞こえている。


 私の呪いを貫通して、本心が、この人にだけ届いている。


 胸の奥で、何かが軋んだ。

 もう二十年近く、錆びついて動かなかった歯車が、ぎし、と音を立てた気がした。



 * * *



 理由を知ったのは、もう少し後のことだった。


 ある夜。

 書斎で本を読んでいたディートリヒに、私は訊いた。


「あなたには……何か呪いのようなものは?」


 唐突な質問だった。

 でも彼は本から顔を上げ、少し考えてから答えた。


「呪い、とは少し違いますが」


 暖炉の火が、ぱちり、と爆ぜた。


「私には、人の言葉の裏が聞こえるのです」


 静かな告白だった。


 彼が物心ついた頃から持っていた、異能。

 人が口にする言葉の裏にある感情が、音として聞こえてしまう。


 貴族が「ご立派ですね」と言えば、「この若造が」という嘲りが聞こえる。

 使用人が「かしこまりました」と言えば、「面倒だ」という本音が聞こえる。

 父が「期待している」と言えば、「失望した」と聞こえる。


「社交界に出なくなったのも、それが理由です」


 淡々と語る声に、怒りはなかった。

 悲しみすらも、もう枯れたような声だった。


「人の言葉を聞くたびに、その裏の醜さが重なって聞こえる。だから私は、人と距離を取ることにしました」


 なるほど、と思った。

 そして、全てが繋がった。


 私の言葉は、表面上は反転している。「大嫌い」と言っても、裏にある感情は「大好き」だ。

 彼は表面の言葉ではなく、裏の感情を聞いている。


 だから。


「私の言葉は……あなたにだけ、正しく届いている」


「……どういう意味ですか」


 私は、生まれて初めて、自分の呪いを人に説明した。


 感情を込めた言葉が反転する呪い。

 好きと言えば嫌いになる。綺麗と言えば醜いになる。

 だから黙ることを選んだこと。

 誰にも本心を伝えられなかったこと。


 話しているうちに、視界が滲んだ。

 泣くつもりなどなかった。

 でも、二十年分の言えなかった言葉が、喉の奥で渦を巻いていた。


「……あなたは」


 ディートリヒの声が、僅かに震えた。

 この人が感情を滲ませるのを、初めて聞いた。


「あなたは、この世界で唯一、裏表のない人間だったということですか」


「え?」


「あなたの言葉の裏には、常に本心がある。嘘がない。策略がない。見下しがない。二十年間、私が人の言葉に聞いてきた醜さが、あなたには一切ない」


 琥珀色の瞳が、まっすぐ私を見ていた。


「私が人と会わなくなったのは、人の裏側が醜すぎたからです。でもあなたの言葉の裏にあるのは――」


 彼は、不器用に言葉を探した。

 言葉を扱い慣れていない人間の、ぎこちない沈黙。


「温かいものばかりだ」


 涙が、落ちた。

 拭う暇もなく、ぼろぼろと。


 止まらない。

 止められない。


「あっ……ごめんなさ……っ、なんで、泣いて……」


「泣いていいと思います」


「よくないわ、初めて会ってまだ半月しか経ってないのに……っ」


「半月も一緒にいれば、十分です」


「……あなた、ちょっと距離感がおかしいんじゃないの」


「人付き合いをしてこなかったので、適切な距離がわかりません」


「開き直らないで……っ」


 泣きながら笑っていた。

 こんなの、何年ぶりだろう。

 笑うことも泣くことも、ずっと怖かったのに。



 * * *



 それからの日々は、劇的に変わった。


 いや、日常の形はほとんど変わっていない。

 朝食を一緒に食べ、昼に少し話し、夜は書斎で並んで本を読む。


 変わったのは、私だ。


「今日の空、大嫌い」


「ええ、綺麗な夕焼けですね」


「この紅茶、飲みたくない」


「おかわりを淹れましょうか」


「あなたの顔なんか見たくないわ」


「では、もう少し近くに座りますか」


 ……この人、天然なのか、確信犯なのか。


 私が何を言っても、彼は裏の意味を正確に受け取る。

 嫌味でも皮肉でもなく、ただ当たり前のように。


 初めてだった。

 思ったことを、そのまま言える相手。

 いや、そのまま言えてはいない。口から出る言葉はいつも逆だ。

 でも届く。この人には届く。


 ある日、領地の視察に同行したとき。

 村の子供たちが私を見て、きゃあきゃあと駆け寄ってきた。


「奥方様だ!」「奥方様、綺麗!」


 子供は正直だ。呪いなんか知らない。ただ珍しい銀髪の女が来たから寄ってきただけだ。


 一人の女の子が、私の手を取った。

 小さくて、温かい手。


 心臓が跳ねる。

 いけない。感情が動いたら、言葉が――


「……触らないで。嫌いよ、あなたたちなんか」


 女の子の目が、みるみる潤んだ。

 唇が震える。


 ああ、またやってしまった。

 いつもこうだ。

 近づきたい人ほど、傷つけてしまう。


 その時。


「奥方様は、照れているのです」


 ディートリヒが、片膝をついて女の子の目線に降りた。


「本当は、とても嬉しいと言っています。この人は少し不器用なので、嬉しいときに怖い顔をしてしまうのです」


 女の子が、きょとんとして私を見上げた。


「……ほんとう?」


 私は、必死で頷いた。

 言葉は使えない。でも頷くことはできる。


 女の子は、ぱぁっと笑った。


「じゃあ、またきてね!」


 駆けていく小さな背中を見送りながら、私は隣に立つ男を睨んだ。


「余計なお世話よ」


「どういたしまして」


「褒めてない」


「ありがとうございます」


「……本当にむかつくわ、あなた」


「光栄です」


 彼の口元が、ほんの僅かに――本当に微かに、持ち上がった。

 笑った。この人が、笑った。


 心臓が、ばくばくとうるさい。

 こんなの、反則だ。



 * * *



 季節が一つ巡る頃。

 王都から手紙が届いた。


 差出人は父だった。


『エリーゼへ。

 先日、王都の舞踏会でヴェルナー辺境伯領の繁栄が話題になった。

 北方交易路の整備と税制改革により、辺境でありながら王都に匹敵する経済圏を築きつつあるとか。

 これは、お前の助言によるものだと聞いた。

 誇りに思う。

 ……会いたいと思っている。母も同じだ。

 もしよければ、今度の祭事で王都に来てはくれまいか』


 手紙を読み終えて、私は長いこと黙っていた。


 助言。

 確かに、私はディートリヒにいくつか提案をした。

 呪いのおかげで社交は壊滅的だが、事務能力には影響がない。数字を読み、書類を精査し、計画を立てることは普通にできる。

 元々、伯爵家の一人娘として帝王教育は受けていたのだ。使う場がなかっただけで。


 でも、それを「誇りに思う」と言う父に、複雑な感情が渦巻いた。


 王都にいた頃は、厄介者だったくせに。

 使えるとわかった途端に「誇り」だなんて。


「……くだらない」


 ディートリヒが、執務室の向かいの椅子から顔を上げた。


「嬉しかったですか」


「嬉しくなんかないわ。涙が出そうなのは、目にゴミが入ったからよ」


「左目にゴミが入って、右目から涙が出るのですか」


「そういうこともあるの」


「初めて知りました」


「……もう黙って」


「はい」


 黙った、と思ったら。


「行きたいのなら、一緒に行きますよ」


「行きたくないわ」


「では、準備をさせましょう」


 この人は本当に、容赦なく私の裏を読む。



 * * *



 王都への帰還は、行きとは全く違う旅路だった。


 隣に、人がいる。

 馬車の向かいの席で、相変わらず無表情に本を読んでいる男がいる。


 心強いと思った。

 でも口にすれば「不安だ」になるから、言わない。


 ……いや。


 言ってみようか。

 この人なら、正しく受け取ってくれるから。


「あなたがいると不安だわ」


 ディートリヒは本から目を上げ、少し考えてから言った。


「そうですか。では、もう少し近くにいましょう」


 馬車の向かい側から、隣に移ってきた。

 肩が触れる距離。

 近い。近すぎる。


「……離れて」


「嫌です」


 ちょっと待って。これは、私の呪いじゃなくて彼の本心では?


「今のは私の裏を読んだの? それとも本心?」


「どちらだと思いますか」


「質問に質問で返さないで」


「では正直に。本心です」


 心臓がうるさすぎて、馬車の車輪の音が聞こえない。


「……最低」


「ありがとうございます」


「褒めてないって言ってるでしょ」


「ええ、わかっています」


 わかってるなら、なんでそんな穏やかな顔をするの。



 * * *



 王都に着いた。


 実家の門の前で、父と母が待っていた。

 母は、私を見た瞬間、口を手で覆った。


「エリーゼ……」


 記憶より白髪が増えていた。皺も。

 でも、瞳の色は覚えている通りだった。


 胸の奥から、感情が津波のように押し寄せる。


 言いたい。ただいまと言いたい。会いたかったと。寂しかったと。本当はずっとずっと、大好きだったと。


 唇を開いた。


「お母様、大――」


 嫌い。

 そう続くはずだった。いつものように。


 でも、横から伸びた手が、私の手をそっと握った。


 ディートリヒだった。

 何も言わない。ただ、手を握っている。


 母を見た。

 母は泣いていた。


「わかっているわ」


 母が言った。


「わかっているの、エリーゼ。ずっと、わかっていたわ」


「……え?」


「あなたが五つの時、大嫌いと言った夜。あなたは眠りながら泣いていた。ごめんなさい、ごめんなさいって、何度も。……あの時、私は気づくべきだった。あなたの言葉じゃなく、あなたの涙を聞くべきだった」


 膝から力が抜けた。

 ディートリヒの手が、支えてくれた。


「お母、様……」


 言葉を探す。

 感情を込めない言葉を。裏返らない言葉を。


 でも、感情を込めない「ただいま」なんてない。


 だから私は、一世一代の賭けに出た。


「お母様、大嫌い」


 母は泣きながら、笑った。


「私もよ。大嫌い、エリーゼ」


 その日、グラーフ伯爵家の玄関で、母と娘が「大嫌い」と言い合いながら抱き合って泣いているのを、使用人たちは誰一人不思議に思わなかった。


 隣に立つ辺境伯が、生まれて初めてはっきりと笑っているのを見て、むしろそちらに驚いた者が多かったという。



 * * *



 帰りの馬車。


 王都を離れ、北へ向かう道中。

 沈黙が続いていた。


 今日一日で、感情を使い果たした気分だった。

 でも、一つだけ。

 どうしても、伝えなければならないことがあった。


「ディートリヒ」


「はい」


「一つ、お願いがあるの」


「何でしょう」


「これから私が言うことを、あなたの能力で聞かないで」


 彼が、初めて戸惑った顔をした。


「……どういう意味ですか」


「裏を読まないで。表面の言葉だけを、そのまま聞いて」


「それは……」


「お願い」


 声が震えた。

 感情が込もっている。だからこの「お願い」も反転しているかもしれない。

 でも構わない。


 私は彼の目を見た。

 琥珀色の、優しい目。

 人の醜さを聞き続けて、それでも優しさを捨てなかった人の目。


「大嫌いよ、ディートリヒ」


 沈黙。


 彼は私を見つめていた。

 裏を読むな、と言った。

 表面の言葉を聞け、と言った。


 だから彼は、「大嫌い」という言葉を、そのまま受け取ったはずだ。


 でも。


「……私もです」


 彼は言った。


「私も、大嫌いです。エリーゼ」


 裏を読んでいないのに、正しく答えた。

 いや。


 読んでいないからこそ、これは彼自身の言葉だ。


 私の呪いに合わせたんじゃない。

 彼が、彼の意思で、私の言語を選んだ。


 「大嫌い」を「大好き」の意味で使うことを、彼が自分で決めた。


 私の歪んだ言葉を正すのではなく、私の世界に来てくれた。


「ずるい」


 今度は、裏返っていない。

 本心のまま出てきた言葉だった。


「ずるいわ、あなた」


「心外です。私は至って誠実ですが」


「誠実な人はそんな顔で笑わないの」


「笑っていますか、私」


「笑ってるわ。にやにやしてる」


「人生で初めてにやにやしたと思います」


「自覚しなさいよ」


「自覚します」


 馬車が揺れて、肩がぶつかった。

 離れなかった。

 どちらも。



 * * *



 その年の冬。


 北の辺境伯領は、例年にない賑わいを見せていた。


 王都から視察団が来たのだ。

 辺境伯領の経済成長が王国全体に好影響を与えているとして、国王自ら褒賞を検討しているという。


 視察団の中に、かつて私の縁談を「厄介払い」として進めた父方の親族がいた。

 彼は領地の発展ぶりに目を丸くし、そして私を見て、さらに目を丸くした。


「エリーゼ嬢……いや、ヴェルナー夫人。お元気そうで何よりです」


「ええ、おかげさまで」


 感情を込めない、事務的な返答。

 裏返らない。


「しかし驚きました。このような辺境が、これほどまでに……」


「夫と、この領地の皆のおかげです」


 これも事実の報告。裏返らない。


 彼は気まずそうに咳払いをして、小声で付け加えた。


「……あの時は、その、申し訳ないことをしたと」


「何のことかしら。何か、謝られるようなことがありましたか?」


 にっこりと微笑む。

 感情は込めていない。だから裏返らない。

 でも、相手が勝手に裏を読んで冷や汗をかくのは、私のせいではない。


 背後で、ディートリヒが小さく咳をした。

 笑いをこらえている咳だと、私にはわかる。


 この人の表情が読めるようになったのは、いつからだろう。

 無表情の中の微細な変化。

 眉の角度、瞬きの速さ、口元の僅かな動き。


 言葉がなくても通じる。

 言葉が裏返っても通じる。

 言葉を超えた場所に、私たちの対話はある。



 * * *



 視察団を見送った夜。


 書斎で並んで本を読んでいた。

 暖炉の火が、ぱちぱちと心地よい音を立てている。


「ねえ」


「はい」


「あなたと結婚して、不幸だわ」


 ディートリヒは本から目を上げず、静かに答えた。


「私もです」


 ページをめくる音だけが、しばらく続いた。

 窓の外では雪が降っている。


「紅茶を淹れてくるわ。あなたの分は淹れないから」


「二杯お願いします」


「……本当に、大嫌い」


「ええ。私も、大嫌いです」


 立ち上がって給湯室に向かう。

 廊下は少し冷えるけれど、この屋敷の冷たさはもう怖くない。


 戻れる場所がある。

 言葉が届く人がいる。


 二十年間、凍りついていた喉が、ようやく温まった気がした。


 大嫌い。

 大嫌い、大嫌い。


 この世界でたった一人、その裏側を聞いてくれる人へ。

 私は今日も、反転した愛を贈る。


 彼は今日も、まっすぐに受け取ってくれる。


 それが私たちの――少し歪で、でも誰よりも正直な、愛の形だった。

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