「好き」が「嫌い」になる呪われ令嬢は、旦那様の前でだけ全力で愛を叫んでしまう
私――エリーゼ・フォン・グラーフは、伯爵家の一人娘として生まれた。
容姿は悪くないらしい。銀に近い灰色の髪と、冬の湖のような青灰色の瞳。社交界では「冷たい美貌」などと囁かれるが、別にそうなりたくてなったわけではない。
問題は、私の口だった。
正確に言えば、私にかけられた呪いだった。
五つの誕生日。
母が焼いてくれた苺のタルトを前にして、私は満面の笑みで叫んだ。
「お母様、大嫌い!」
皿が割れるような沈黙。
母の顔から、ゆっくりと色が消えた。
違う。違う、違う。
私が言いたかったのは「大好き」だ。
大好き、大好き、ありがとう、嬉しい。
でも喉を通って出てくるのは、全部逆だった。
「嬉しくない」「ありがとうなんて思わない」「一緒にいたくない」
泣きながら首を振っても、口から出る言葉は全て裏返る。
感情が乗った瞬間、言葉が反転する。
事実の伝達はできる。「今日は晴れです」「この花は薔薇です」――そういう無感情な言葉は普通に言える。
けれど「綺麗ね」と思った瞬間に出るのは「醜いわ」であり、「ここにいたい」と願えば「帰りたい」と唇が動く。
母は三日間、部屋から出てこなかった。
高名な魔術師が呼ばれ、呪いだと断定された。
出生時に嫉妬した誰かが、産着に織り込んだ呪術。犯人は結局わからなかった。
解呪の方法も。
そうして私は、王都で最も嫌われた令嬢になった。
* * *
呪いだとわかっていても、人は言葉に傷つく。
理屈ではわかる、と母は言った。でも「あなたなんか産まれてこなければよかった」と娘に言われ続けて、平気でいられる母親がどこにいるだろう。
父は私を社交の場から遠ざけた。
使用人には「感情的な発言は全て逆だと思え」と通達したが、新しく入った者は必ず一度は泣いて辞めていった。
私は次第に、感情を込めた言葉を発すること自体をやめた。
事務的に喋る。感想を言わない。褒めない。けなさない。
何を食べても「結構です」、何を見ても「わかりました」。
社交界では「氷の令嬢」と呼ばれた。
裏では「呪われ令嬢」と。
友人は、一人もできなかった。
――それでも。
本当は、あの庭に咲く紫陽花を綺麗だと言いたかった。
焼きたてのパンの匂いに、幸せだと言いたかった。
母に、ごめんね、と。本当は大好きなの、と。
でも言えば言うほど傷つける。
だから私は黙ることを覚え、黙ることに慣れ、黙ることが私になった。
そんな私に、ある日、父が言った。
「エリーゼ。辺境伯ヴェルナー家から、縁談が来ている」
辺境伯ヴェルナー。
王都から馬車で七日。北の果て、万年雪に閉ざされた領地を治める家。
現当主は若いが、「人嫌いの隠者」として知られていた。
社交には一切出ない。
王都の貴族とは書簡のやりとりすらほぼない。
領地経営は堅実だが、本人に会ったことがある者がほとんどいない。
要するに――誰にも望まれなかった令嬢を押し付けるには、ちょうどいい辺境。
父の表情にそう書いてあった。
「……わかりました」
感情を込めなければ、言葉は裏返らない。
だから私はいつものように、無味乾燥な三文字で答えた。
本当は「寂しい」と言いたかった。
言えば「嬉しい」になるから、言わなかった。
* * *
北への旅路は、長かった。
馬車の窓から見える風景が、日を追うごとに色を失っていく。
緑が茶に、茶が白に。
王都の喧噪が遠ざかるほど、胸の底に沈んでいた澱が不思議と軽くなるのを感じた。
誰も私を知らない場所。
誰も私の言葉に傷つかない場所。
それは、追放というより――解放に近い響きがした。
七日目の朝。
雪の中に、石造りの屋敷が見えた。
巨大ではないが、堅牢で、飾り気がない。主の性格そのものみたいな建物だ。
馬車が止まる。
御者が扉を開ける。
冷気が頬を刺す。
その先に、一人の男が立っていた。
黒髪。琥珀色の瞳。背が高く、肩幅が広い。
貴族というより軍人に近い体躯だが、纏う空気は静かだった。
表情が、ほとんどない。
「ディートリヒ・フォン・ヴェルナーです」
低い声。抑揚がない。
まるで事実を読み上げるような自己紹介。
「……エリーゼ・フォン・グラーフです」
私も負けじと無機質に返した。
互いに感情を排した、完璧に退屈な初対面。
――のはずだった。
「長旅で疲れているでしょう。部屋に暖炉を焚かせてあります。湯も沸いている」
「……ありがとうございます」
感謝は事実の報告だ。裏返らない。
けれど、暖炉と湯が用意されていると聞いた瞬間、胸の奥がじわりと温かくなった。
その温もりを、言葉にしてはいけない。
私は唇を引き結んで、屋敷の中に入った。
* * *
辺境での日々は、驚くほど穏やかだった。
使用人は少ないが、みな寡黙で実直だった。余計なことを訊かない。余計なことを言わない。
北の人間の気質なのか、それともこの主に長く仕えるうちにそうなったのか。
ディートリヒは、朝から執務室にこもり、昼に私と食事を取り、午後は領地を回り、夜は書斎で本を読む。
規則正しく、静かで、予測可能な人間だった。
会話は必要最低限。
でも、不快ではなかった。
三日目の昼食。
出された鹿肉のシチューが、びっくりするほど美味しかった。
口の中に広がる深い味わいに、思わず目を見開く。
「……っ」
言いたい。美味しい、と言いたい。
でも言えば「不味い」になる。
黙ってスプーンを置いた。
「口に合いませんでしたか」
ディートリヒが、淡々と訊いた。
「いえ、そういうわけでは……」
「おかわりを用意させましょうか」
「え」
「三口で皿が空になっていたので」
……見られていた。
恥ずかしさで頬が熱くなる。
「……では、お願いします」
おかわりは事実の要求だ。裏返らない。
二杯目のシチューを、私はまた三口で空にした。
ディートリヒは何も言わなかったが、翌日の昼食にも鹿肉のシチューが出た。
――偶然だと思いたい。
でも、翌々日に私が焼きたてのパンの匂いで足を止めたとき、次の朝食の籠にはまだ湯気の立つパンが山盛りになっていた。
* * *
事件が起きたのは、七日目だった。
屋敷の裏手に、小さな庭がある。
雪に覆われたその隅で、一株だけ冬薔薇が咲いていた。
深い紅色。雪の白に鮮烈に映える。
思わず、声が出た。
「――醜いわ」
瞬間、自分の口を手で塞いだ。
綺麗だと思った。綺麗だと言いたかった。
でも出てきたのは正反対。
背後に気配。
振り返ると、ディートリヒが立っていた。
いつからいたのか。何を聞いたのか。
「……失礼しました。独り言です」
心臓がうるさい。
彼はこの薔薇を大切にしているかもしれない。なのに「醜い」と言ってしまった。
弁解したい。でも弁解に感情を込めれば、もっと酷い言葉になる。
逃げよう、と踵を返しかけたとき。
「そうですか」
ディートリヒの声が、静かに降った。
「確かに、冬に咲く花は強情ですね」
……え?
「でも、その強情さが綺麗だと、私は思います」
彼は薔薇を見ていた。
穏やかとも無表情ともつかない顔で。
怒っていない。傷ついてもいない。
まるで私が「醜い」と言ったことを、気にしていないかのように。
いや。
もしかして。
聞こえて、いなかった?
「あの……先ほどの私の言葉、聞こえましたか」
「ええ」
聞こえていた。なのに、怒らない。
「……何と、聞こえましたか?」
奇妙な質問だと自分でもわかっている。
でも訊かずにはいられなかった。
ディートリヒは少し首を傾げた。
「『綺麗だ』と言っていたように聞こえましたが」
世界が、止まった。
* * *
混乱した。
激しく、徹底的に、混乱した。
部屋に戻り、ベッドに突っ伏して考える。
空耳? いや、彼ははっきり「綺麗だと言っていたように聞こえた」と言った。
私は「醜い」と言った。それは間違いない。
なぜ。
どうして。
彼にだけ、言葉が正しく届いたの?
いや、待って。たまたまかもしれない。「醜い」を「美しい」と聞き間違えることなんてあるだろうか。……ない。普通はない。
翌日。
私は確かめることにした。
朝食の席。焼きたてのパンを一口かじる。
バターの香りが口に広がる。
今度は意識して、感情を込めて言った。
「このパン、不味いですね」
使用人がびくりと肩を揺らした。
料理長の顔が一瞬で曇る。
――ああ、ごめんなさい。美味しいって言いたかったの。
でもディートリヒは、紅茶のカップを傾けたまま、こともなげに言った。
「ええ。美味しいでしょう。この地方の小麦は寒暖差で甘くなるので」
――やっぱり。
彼には、逆に聞こえている。
いや、正しく聞こえている。
私の呪いを貫通して、本心が、この人にだけ届いている。
胸の奥で、何かが軋んだ。
もう二十年近く、錆びついて動かなかった歯車が、ぎし、と音を立てた気がした。
* * *
理由を知ったのは、もう少し後のことだった。
ある夜。
書斎で本を読んでいたディートリヒに、私は訊いた。
「あなたには……何か呪いのようなものは?」
唐突な質問だった。
でも彼は本から顔を上げ、少し考えてから答えた。
「呪い、とは少し違いますが」
暖炉の火が、ぱちり、と爆ぜた。
「私には、人の言葉の裏が聞こえるのです」
静かな告白だった。
彼が物心ついた頃から持っていた、異能。
人が口にする言葉の裏にある感情が、音として聞こえてしまう。
貴族が「ご立派ですね」と言えば、「この若造が」という嘲りが聞こえる。
使用人が「かしこまりました」と言えば、「面倒だ」という本音が聞こえる。
父が「期待している」と言えば、「失望した」と聞こえる。
「社交界に出なくなったのも、それが理由です」
淡々と語る声に、怒りはなかった。
悲しみすらも、もう枯れたような声だった。
「人の言葉を聞くたびに、その裏の醜さが重なって聞こえる。だから私は、人と距離を取ることにしました」
なるほど、と思った。
そして、全てが繋がった。
私の言葉は、表面上は反転している。「大嫌い」と言っても、裏にある感情は「大好き」だ。
彼は表面の言葉ではなく、裏の感情を聞いている。
だから。
「私の言葉は……あなたにだけ、正しく届いている」
「……どういう意味ですか」
私は、生まれて初めて、自分の呪いを人に説明した。
感情を込めた言葉が反転する呪い。
好きと言えば嫌いになる。綺麗と言えば醜いになる。
だから黙ることを選んだこと。
誰にも本心を伝えられなかったこと。
話しているうちに、視界が滲んだ。
泣くつもりなどなかった。
でも、二十年分の言えなかった言葉が、喉の奥で渦を巻いていた。
「……あなたは」
ディートリヒの声が、僅かに震えた。
この人が感情を滲ませるのを、初めて聞いた。
「あなたは、この世界で唯一、裏表のない人間だったということですか」
「え?」
「あなたの言葉の裏には、常に本心がある。嘘がない。策略がない。見下しがない。二十年間、私が人の言葉に聞いてきた醜さが、あなたには一切ない」
琥珀色の瞳が、まっすぐ私を見ていた。
「私が人と会わなくなったのは、人の裏側が醜すぎたからです。でもあなたの言葉の裏にあるのは――」
彼は、不器用に言葉を探した。
言葉を扱い慣れていない人間の、ぎこちない沈黙。
「温かいものばかりだ」
涙が、落ちた。
拭う暇もなく、ぼろぼろと。
止まらない。
止められない。
「あっ……ごめんなさ……っ、なんで、泣いて……」
「泣いていいと思います」
「よくないわ、初めて会ってまだ半月しか経ってないのに……っ」
「半月も一緒にいれば、十分です」
「……あなた、ちょっと距離感がおかしいんじゃないの」
「人付き合いをしてこなかったので、適切な距離がわかりません」
「開き直らないで……っ」
泣きながら笑っていた。
こんなの、何年ぶりだろう。
笑うことも泣くことも、ずっと怖かったのに。
* * *
それからの日々は、劇的に変わった。
いや、日常の形はほとんど変わっていない。
朝食を一緒に食べ、昼に少し話し、夜は書斎で並んで本を読む。
変わったのは、私だ。
「今日の空、大嫌い」
「ええ、綺麗な夕焼けですね」
「この紅茶、飲みたくない」
「おかわりを淹れましょうか」
「あなたの顔なんか見たくないわ」
「では、もう少し近くに座りますか」
……この人、天然なのか、確信犯なのか。
私が何を言っても、彼は裏の意味を正確に受け取る。
嫌味でも皮肉でもなく、ただ当たり前のように。
初めてだった。
思ったことを、そのまま言える相手。
いや、そのまま言えてはいない。口から出る言葉はいつも逆だ。
でも届く。この人には届く。
ある日、領地の視察に同行したとき。
村の子供たちが私を見て、きゃあきゃあと駆け寄ってきた。
「奥方様だ!」「奥方様、綺麗!」
子供は正直だ。呪いなんか知らない。ただ珍しい銀髪の女が来たから寄ってきただけだ。
一人の女の子が、私の手を取った。
小さくて、温かい手。
心臓が跳ねる。
いけない。感情が動いたら、言葉が――
「……触らないで。嫌いよ、あなたたちなんか」
女の子の目が、みるみる潤んだ。
唇が震える。
ああ、またやってしまった。
いつもこうだ。
近づきたい人ほど、傷つけてしまう。
その時。
「奥方様は、照れているのです」
ディートリヒが、片膝をついて女の子の目線に降りた。
「本当は、とても嬉しいと言っています。この人は少し不器用なので、嬉しいときに怖い顔をしてしまうのです」
女の子が、きょとんとして私を見上げた。
「……ほんとう?」
私は、必死で頷いた。
言葉は使えない。でも頷くことはできる。
女の子は、ぱぁっと笑った。
「じゃあ、またきてね!」
駆けていく小さな背中を見送りながら、私は隣に立つ男を睨んだ。
「余計なお世話よ」
「どういたしまして」
「褒めてない」
「ありがとうございます」
「……本当にむかつくわ、あなた」
「光栄です」
彼の口元が、ほんの僅かに――本当に微かに、持ち上がった。
笑った。この人が、笑った。
心臓が、ばくばくとうるさい。
こんなの、反則だ。
* * *
季節が一つ巡る頃。
王都から手紙が届いた。
差出人は父だった。
『エリーゼへ。
先日、王都の舞踏会でヴェルナー辺境伯領の繁栄が話題になった。
北方交易路の整備と税制改革により、辺境でありながら王都に匹敵する経済圏を築きつつあるとか。
これは、お前の助言によるものだと聞いた。
誇りに思う。
……会いたいと思っている。母も同じだ。
もしよければ、今度の祭事で王都に来てはくれまいか』
手紙を読み終えて、私は長いこと黙っていた。
助言。
確かに、私はディートリヒにいくつか提案をした。
呪いのおかげで社交は壊滅的だが、事務能力には影響がない。数字を読み、書類を精査し、計画を立てることは普通にできる。
元々、伯爵家の一人娘として帝王教育は受けていたのだ。使う場がなかっただけで。
でも、それを「誇りに思う」と言う父に、複雑な感情が渦巻いた。
王都にいた頃は、厄介者だったくせに。
使えるとわかった途端に「誇り」だなんて。
「……くだらない」
ディートリヒが、執務室の向かいの椅子から顔を上げた。
「嬉しかったですか」
「嬉しくなんかないわ。涙が出そうなのは、目にゴミが入ったからよ」
「左目にゴミが入って、右目から涙が出るのですか」
「そういうこともあるの」
「初めて知りました」
「……もう黙って」
「はい」
黙った、と思ったら。
「行きたいのなら、一緒に行きますよ」
「行きたくないわ」
「では、準備をさせましょう」
この人は本当に、容赦なく私の裏を読む。
* * *
王都への帰還は、行きとは全く違う旅路だった。
隣に、人がいる。
馬車の向かいの席で、相変わらず無表情に本を読んでいる男がいる。
心強いと思った。
でも口にすれば「不安だ」になるから、言わない。
……いや。
言ってみようか。
この人なら、正しく受け取ってくれるから。
「あなたがいると不安だわ」
ディートリヒは本から目を上げ、少し考えてから言った。
「そうですか。では、もう少し近くにいましょう」
馬車の向かい側から、隣に移ってきた。
肩が触れる距離。
近い。近すぎる。
「……離れて」
「嫌です」
ちょっと待って。これは、私の呪いじゃなくて彼の本心では?
「今のは私の裏を読んだの? それとも本心?」
「どちらだと思いますか」
「質問に質問で返さないで」
「では正直に。本心です」
心臓がうるさすぎて、馬車の車輪の音が聞こえない。
「……最低」
「ありがとうございます」
「褒めてないって言ってるでしょ」
「ええ、わかっています」
わかってるなら、なんでそんな穏やかな顔をするの。
* * *
王都に着いた。
実家の門の前で、父と母が待っていた。
母は、私を見た瞬間、口を手で覆った。
「エリーゼ……」
記憶より白髪が増えていた。皺も。
でも、瞳の色は覚えている通りだった。
胸の奥から、感情が津波のように押し寄せる。
言いたい。ただいまと言いたい。会いたかったと。寂しかったと。本当はずっとずっと、大好きだったと。
唇を開いた。
「お母様、大――」
嫌い。
そう続くはずだった。いつものように。
でも、横から伸びた手が、私の手をそっと握った。
ディートリヒだった。
何も言わない。ただ、手を握っている。
母を見た。
母は泣いていた。
「わかっているわ」
母が言った。
「わかっているの、エリーゼ。ずっと、わかっていたわ」
「……え?」
「あなたが五つの時、大嫌いと言った夜。あなたは眠りながら泣いていた。ごめんなさい、ごめんなさいって、何度も。……あの時、私は気づくべきだった。あなたの言葉じゃなく、あなたの涙を聞くべきだった」
膝から力が抜けた。
ディートリヒの手が、支えてくれた。
「お母、様……」
言葉を探す。
感情を込めない言葉を。裏返らない言葉を。
でも、感情を込めない「ただいま」なんてない。
だから私は、一世一代の賭けに出た。
「お母様、大嫌い」
母は泣きながら、笑った。
「私もよ。大嫌い、エリーゼ」
その日、グラーフ伯爵家の玄関で、母と娘が「大嫌い」と言い合いながら抱き合って泣いているのを、使用人たちは誰一人不思議に思わなかった。
隣に立つ辺境伯が、生まれて初めてはっきりと笑っているのを見て、むしろそちらに驚いた者が多かったという。
* * *
帰りの馬車。
王都を離れ、北へ向かう道中。
沈黙が続いていた。
今日一日で、感情を使い果たした気分だった。
でも、一つだけ。
どうしても、伝えなければならないことがあった。
「ディートリヒ」
「はい」
「一つ、お願いがあるの」
「何でしょう」
「これから私が言うことを、あなたの能力で聞かないで」
彼が、初めて戸惑った顔をした。
「……どういう意味ですか」
「裏を読まないで。表面の言葉だけを、そのまま聞いて」
「それは……」
「お願い」
声が震えた。
感情が込もっている。だからこの「お願い」も反転しているかもしれない。
でも構わない。
私は彼の目を見た。
琥珀色の、優しい目。
人の醜さを聞き続けて、それでも優しさを捨てなかった人の目。
「大嫌いよ、ディートリヒ」
沈黙。
彼は私を見つめていた。
裏を読むな、と言った。
表面の言葉を聞け、と言った。
だから彼は、「大嫌い」という言葉を、そのまま受け取ったはずだ。
でも。
「……私もです」
彼は言った。
「私も、大嫌いです。エリーゼ」
裏を読んでいないのに、正しく答えた。
いや。
読んでいないからこそ、これは彼自身の言葉だ。
私の呪いに合わせたんじゃない。
彼が、彼の意思で、私の言語を選んだ。
「大嫌い」を「大好き」の意味で使うことを、彼が自分で決めた。
私の歪んだ言葉を正すのではなく、私の世界に来てくれた。
「ずるい」
今度は、裏返っていない。
本心のまま出てきた言葉だった。
「ずるいわ、あなた」
「心外です。私は至って誠実ですが」
「誠実な人はそんな顔で笑わないの」
「笑っていますか、私」
「笑ってるわ。にやにやしてる」
「人生で初めてにやにやしたと思います」
「自覚しなさいよ」
「自覚します」
馬車が揺れて、肩がぶつかった。
離れなかった。
どちらも。
* * *
その年の冬。
北の辺境伯領は、例年にない賑わいを見せていた。
王都から視察団が来たのだ。
辺境伯領の経済成長が王国全体に好影響を与えているとして、国王自ら褒賞を検討しているという。
視察団の中に、かつて私の縁談を「厄介払い」として進めた父方の親族がいた。
彼は領地の発展ぶりに目を丸くし、そして私を見て、さらに目を丸くした。
「エリーゼ嬢……いや、ヴェルナー夫人。お元気そうで何よりです」
「ええ、おかげさまで」
感情を込めない、事務的な返答。
裏返らない。
「しかし驚きました。このような辺境が、これほどまでに……」
「夫と、この領地の皆のおかげです」
これも事実の報告。裏返らない。
彼は気まずそうに咳払いをして、小声で付け加えた。
「……あの時は、その、申し訳ないことをしたと」
「何のことかしら。何か、謝られるようなことがありましたか?」
にっこりと微笑む。
感情は込めていない。だから裏返らない。
でも、相手が勝手に裏を読んで冷や汗をかくのは、私のせいではない。
背後で、ディートリヒが小さく咳をした。
笑いをこらえている咳だと、私にはわかる。
この人の表情が読めるようになったのは、いつからだろう。
無表情の中の微細な変化。
眉の角度、瞬きの速さ、口元の僅かな動き。
言葉がなくても通じる。
言葉が裏返っても通じる。
言葉を超えた場所に、私たちの対話はある。
* * *
視察団を見送った夜。
書斎で並んで本を読んでいた。
暖炉の火が、ぱちぱちと心地よい音を立てている。
「ねえ」
「はい」
「あなたと結婚して、不幸だわ」
ディートリヒは本から目を上げず、静かに答えた。
「私もです」
ページをめくる音だけが、しばらく続いた。
窓の外では雪が降っている。
「紅茶を淹れてくるわ。あなたの分は淹れないから」
「二杯お願いします」
「……本当に、大嫌い」
「ええ。私も、大嫌いです」
立ち上がって給湯室に向かう。
廊下は少し冷えるけれど、この屋敷の冷たさはもう怖くない。
戻れる場所がある。
言葉が届く人がいる。
二十年間、凍りついていた喉が、ようやく温まった気がした。
大嫌い。
大嫌い、大嫌い。
この世界でたった一人、その裏側を聞いてくれる人へ。
私は今日も、反転した愛を贈る。
彼は今日も、まっすぐに受け取ってくれる。
それが私たちの――少し歪で、でも誰よりも正直な、愛の形だった。




