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魔王と真面目な娘、怠惰勇者を査定する

 リグラードは、王都から西へ馬で七日。

 だが「辺境の果て」というには、まだその途中にすぎない。

 ここからさらに西へ四日走れば、人も草も痩せる魔域境界〈まいききょうかい〉――焦げた大地の帯に出る。

 その向こうは、すでに魔族の領分だ。前線要塞まで三日、そのさらに奥、火山と黒い森を抜けて十日進んだ先に、ようやく魔王の居城ノクティアがあると言われている。

 つまりリグラードは、王都と魔王領のちょうど中ほど。

 戦になれば、真っ先に兵も物資も通り抜ける、西方の喉元だった。

     ◇

 魔王城・黒曜の間。

 高い天井から吊るされた燐光が、地図と書簡の山を淡く照らしていた。

 大陸全図の上には、いくつもの赤い印。

 その一つ――西方の片隅に、小さな黒い丸が後から書き足されている。

 リグラード。

 ルクシアは、地図から視線を上げた。

 玉座には、角を持つ影が腰掛けている。

 闇そのものを固めたような黒衣。

 目だけが、冷たく明滅していた。

 魔王――ノクト・ヴァルグレイス。

 そして、その娘が、ルクシア・ノクト=ヴァルグレイス。

「……報告書は、読んだな」

 低い声が、石壁を這う。

「はい。リグラード大迷宮――かつての攻略済み拠点が、現在は地下市として再利用。訓練場、避難所としても機能し始めていると」

 ルクシアは、手にした羊皮紙をぴたりと揃えた。

「中心人物は一人。レーヴェルト辺境領の嫡男、アルノルト・レーヴェルト。通称――努力しない勇者志望」

 魔王の口元が、わずかに歪む。

「努力しない、か。怠け者ほど厄介だと、誰かが言っていたな」

「父上ご自身です」

「そうだったな」

 黒い瞳が、地図を射抜く。

「怠惰は、何もしないことではない。自分が楽をするために、世界の形を変えようとする――それを、我々は何度も見てきた」

 魔王は立ち上がり、地図へと歩み寄った。

 指先が、リグラードの印を軽く弾く。

「報告によれば、あの少年は戦場を市場に変え、血の滲んだ迷宮を、訓練場と避難所に変えたという」

「はい。戦略価値の再評価が必要との進言が、前線からも来ています」

「……気に入らんな」

 短く、しかし濁りのない言葉。

「我が軍が砦として使わなかったのは、壊れた戦場だったからだ。血の匂いは、兵を鈍らせる。それを人間どもは、平然と利に変えてゆく」

 魔王は、横目で娘を見た。

「ルクシア。お前は、どう見る」

 ルクシアは一拍だけ考え、率直に答えた。

「……合理的です。役目を終えた刃を鋤に変え、地を耕す。戦いそのものより、後始末が上手い敵は、厄介です」

「ふむ」

 魔王の視線が、わずかに深くなる。

「では問う。その怠け者を、どう処理すべきだ?」

 ルクシアは、わざとすぐには答えなかった。

 沈黙ごと、考えを差し出すように。

「……情報が足りません。報告書から見えるのは結果だけです。彼が本当に怠惰なのか、ただの計算高い理想主義者なのか――それを見極めない限り、処遇は決められません」

「よろしい」

 魔王は小さく笑った。

 その笑みは、氷よりも薄く、しかし熱を含んでいた。

「ならば――お前に命じる」

 玉座の背後の壁が、音もなく割れる。

 黒い石の中から、白い封蝋がひとつ、せり出してきた。

「密命だ。表向きは、王都ギルド監査局からの派遣監査官――ルク・アーベント。身分はすでに偽装してある」

 封筒が宙を滑り、ルクシアの手元に落ちる。

 蝋の印には、夜を象徴する半月と、極小の紅点。

 魔王家の直命の印だった。

「目的は三つ」

 魔王は指を一本ずつ立てる。

「一つ。リグラード地下市と迷宮再利用事業の、実態と制度を魔王城の基準で査定せよ」

「……人間の基準ではなく?」

「当然だ。我らにとって価値があるかどうかだ」

 二本目の指が立つ。

「二つ。アルノルト・レーヴェルト――その男の怠惰の質を見極めろ。

 それが単なる逃避か、構造を変える知恵か」

「恐れながら、父上」

 ルクシアは、少しだけ身を乗り出した。

「もし後者――構造を変える知恵だと判断された場合は?」

 魔王の目が、愉快そうに細くなる。

「いい質問だ」

 三本目の指が立った。

「三つ。もしその怠惰が、戦を短く終わらせる方向に働くと判断したなら――」

 言葉を切り、薄く笑う。

「――可能な限り、利用しろ。縛れぬなら、流れをずらせ。直接殺すな。世界の形を変えられる者は、我々にとっても道具になる」

「……利用、ですか」

「そうだ。怠け者は、自分が楽をするためなら、敵とも平然と取引する。使えるうちは使え。使えぬと判断したとき――それからでよい」

 ルクシアは、密命の重さを指先で確かめるように、封筒を握った。

(殺せ、とも、救え、とも言わない。測れ――か)

 魔王の声が、少しだけ柔らかくなる。

「ルクシア」

「はい」

「お前は、怒りを磨いてきた。我が娘らしく、理不尽を焼く炎を持っている」

 ルクシアの胸の奥で、昔の戦場の光景が一瞬よぎる。

 炎と叫びと、倒れた部下の顔。

「だが、世界を長く動かすのは、怒りではない」

 魔王は静かに続けた。

「怠惰に見える知恵だ。無駄を嫌い、遠回りを嫌い、誰も苦しまずに済む線を引きたがる者たち。私は、あれが一番嫌いだ」

「……なぜ、ですか」

 思わず出た問いを、魔王は笑い飛ばさなかった。

「戦を綺麗に終わらせようとする。血の匂いを薄め、恨みを見えない場所へ流す。そうやって、次の戦の火種を、静かに積み上げていくからだ」

 地図の別の場所――過去に滅んだ国の跡を、爪が軽くなぞる。

「私は、憎しみの線を見える場所に出しておきたい。地図に刻み、城壁に刻み、墓標に刻む。そうすれば、次の世代がここで間違ったと学べる」

「……アルノルトは、逆を行こうとしているかもしれない、と?」

「だから、見てこい」

 魔王の声が、命令の色を取り戻す。

「もしあやつが本当に、努力しない方法で誰も苦しまない仕組みなどと言うなら――」

 そこで一度、言葉が止まった。

「――その夢の代償を、必ず見つけろ。何を切り捨て、誰を見捨てて、その線を引いているのか。我々が戦うべき相手かどうか、それで決まる」

 ルクシアは深く膝をついた。

「……拝命いたしました。ルク・アーベントとして、王都ギルド監査局より派遣。その実、魔王ノクト・ヴァルグレイス直命の監査官として――アルノルト・レーヴェルトを査定します」

 魔王の影が、わずかに頷く。

「行け。名を隠し、牙を隠し、心だけは隠すな。判断を誤るなよ、ルクシア」

「はい、父上」

 立ち上がったルクシアの耳元で、風が揺れる。

 黒曜の窓の外、遠く雷鳴が転がった。

(怠惰に見える知恵……

 私の正義と、一番相性の悪い相手かもしれませんわね)

 けれど、その胸の奥――ほんの少しだけ、別の感情も顔を出していた。

(……楽しみ、でもある)

 世界の形を変えようとする怠け者。

 魔王が嫌いだと言った、その種族を、自分の目で測りに行く。

 ルクシアは封筒を握り直し、玉座の間を後にした。

 その足取りは、任務の重さのわりに、驚くほど軽かった。

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