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寝る子は育つと人は言う。勇者志望は城を追い出された

 王都から南へ、馬で十日。

 街道が砂に飲まれはじめるころ、小さな石造りの街がぽつんと現れる。

 城と呼ぶには控えめで、館と呼ぶには立派。

 そこが辺境領レーヴェルト。

 領主グラウヴァルト・レーヴェルト卿の居城だった。

 王国軍の重鎮にして、今は国王からこの地を「預かる」かたちで治める男。

 その堂々たる名誉の裏には、たったひとつだけ――

 どうしても無視できない悩みの種があった。

 嫡男、アルノルト・レーヴェルト。

 15歳の少年。剣を握れば翌日は筋肉痛。魔術の授業は講義開始三分で船を漕ぐ。

 強いて挙げるなら、好きなものは「昼寝」と「読書」。

 領民は影でこう呼ぶ。

 ――「寝台の賢者」。

 ――「日なたぼっこの坊っちゃん」。

 兵士たちはさらに容赦ない。

 ――「あの息子が領主を継いだら、戦が来たとき城ごと寝るぞ」。

 父グラウヴァルトは、ため息まじりにその声を聞いていた。

 鳶色の鋭い眼を持つこの男は、若いころ戦場で数え切れぬ勝利を収めた。

 だが、老いよりも早く、息子への失望が彼を老けさせていた。

     

 その日も、朝の訓練場。

 武官たちの掛け声が響く中、肝心の嫡男の姿はどこにもない。

 侍従が走り込んできて、息を切らしながら報告した。

「アルノルト様……また、屋根の上でございます」

「……屋根?」

 グラウヴァルトの額に、ぴきりと青筋が浮かぶ。

「はい、図書室の窓から抜け出して……陽当たりのよい屋根の上で、

 『風がいちばんの先生だ』と仰せに……そのまま、お昼寝を」

 空気が、ぴたりと止まった。

 グラウヴァルトは剣の柄を軽く叩き、長く吐息をつく。

「……もうよい。下ろすな。どうせ叱っても聞かん」

「よろしいのですか?」

「叱って変わる子なら、とっくに将軍になっている」

 そのとき――。

 城の上から、のんきな声が風に流れてきた。

「おーい、父上ー! 兵士たちの掛け声、一拍ずれてますよー!

 『エイッ!』じゃなくて『セイッ!』の方が響きがいいです!」

 兵士たちが一斉に固まる。

 グラウヴァルトの視線が、ゆっくりと天を向いた。

 屋根の上には、金髪の少年が寝転がっていた。片手には本、もう片方の手にはパン。

 その顔には、心底のんびりとした笑み。

「……風が先生なら、その風が冷たくなる季節に、何を教わるつもりだ」

「うーん……たぶん、『寝方を変えろ』ですかね?」

 ざわ……と兵士たちの間に笑いが走る。

 父の眉が、音もなくつり上がった。

「アルノルト」

「はいはい、聞こえてますよ。降ります」

 少年は屋根の縁に腰をかけ、ひょい、と飛び降りる。

 風が金髪を払う。その手に抱えた古書が、ぱらりと開いた。

 革装丁は擦り切れ、表紙の文字はもう読めない。

 それでもアルは、そこに指を置くたび、なぜか「今はまだ開くな」と言われている気がしていた。

「この本、言うんですよ。『知は剣に勝る』って。……だから僕は、剣より知識で人を守りたいんです」

「口だけは王都貴族の坊っちゃんだな」

 グラウヴァルトは鼻を鳴らした。

「では問う。知識で腹は満ちるか?」

「満ちません。でも――理由を考えられる人間は、腹を減らす人を救えると思うんです」

 一瞬、兵士たちがざわついた。

 グラウヴァルトは眼を細め、低く唸る。

「……口先だけではないか。だが、世は甘くない。知識を振るうにも、生き残る腕が要る」

「うーん……じゃあ、父上」

 アルは首をかしげて、あっさりと言った。

「僕の腕は読書に使います。あなたが剣で国を守るなら、僕は手順で人を守る」

「手順、だと?」

「はい。剣より正確で、寝ながら考えられますから」

 ――笑う者もいた。呆れる者もいた。

 けれど、グラウヴァルトだけは、ほんのわずかに口元を緩めた。

「……寝ながら、か。王国はお前の夢で守られるのかもしれんな」

 そう言い残して、父は背を向ける。

 アルノルトは本を閉じ、空を見上げた。

 雲が一つ、ゆっくりと流れていく。

 ――努力はしない。

 けれど誰よりも、世界を観察していた。

     

 それは、夏の終わりだった。

 レーヴェルト領を流れる川が、一夜にして濁流となった。

 翌朝、村人たちは異変に気づく。

 ――井戸の水が、赤茶けて臭う。

 飲めば腹を壊し、家畜も飲まない。

 それでも別の水源を掘るには、金も時間もない。

 人々は次第に、不安と苛立ちを募らせていった。

「城が何とかしろ!」

「税だけ取って、水も出ねえ!」

 そんな声が、城下にまで届く。

 父グラウヴァルトは、領政の報告書を前に沈黙していた。

 戦なら勝てる。だが水は剣で切れない。

 彼は視線を横にそらし、ぼそりと言う。

「……アルノルト。お前の言葉で静めてみろ」

「え、僕が?」

「どうせ屋根の上で寝る暇があるなら、井戸の上で考えろ」

 そして少年は、書物と縄を抱えて村へ向かった。

     

 井戸の前には、荒れた顔の男たち。

 その輪の中で、アルノルトは小さく手を挙げた。

「えー……その、ちょっとだけ話を聞かせてください」

「お坊ちゃんが何を知ってる!」

「この臭い水を飲んでみろ!」

 怒号が飛ぶ。

 アルは一歩も退かず、縄の端を結びながら笑った。

「じゃあ犯人探しじゃなくて、場所探しからにしましょう。誰のせいかより、どこで起きてるかを先に見つけます」

「場所……?」

「はい。手順を作ります。この縄を三本。上流・井戸・下流。それぞれに白布を結んで、一晩置きましょう。翌朝、どの布がいちばん茶色いかで、原因の場所がわかります」

 村人たちは顔を見合わせる。

 子どもの遊びにも思えたが、怒る気力も尽きていた。

「……勝手にしろ」

 翌朝。

 井戸の前に集まった村人たちの前で、少年は布を掲げた。

「上流の布がいちばん赤い。井戸は薄い。下流はほぼ透明。つまり汚れは上流から来てる」

「上流……あの粉砕所か?」

 数人の男が顔を見合わせる。

 そこでは近ごろ、領都から来た商人が鉄鉱の粉を洗っていた。

 排水が川に流れ、井戸へ染みていたのだ。

 村人たちは怒鳴りながら粉砕所へ向かおうとする。

 だがアルノルトは、手を上げて止めた。

「待ってください。次の手順です。

 暴れない。まず交渉表を作る」

「交渉表?」

「はい。損した人と得した人の名前を並べて、できることとできないことを、一行ずつ書く。書き終えたら、一枚の板に打ち付けて公開するんです」

「なんでそんなことを?」

「人は、書かれたものの前では、ちょっとだけ正直になるから」

 村人たちは半信半疑のまま表を作り、粉砕所の前に立てた。

 『井戸を汚した:商人トーヴァル』『損害:村の家畜七頭』『望むこと:修復と清水桶二十』

 それを見た商人は、罰を恐れて逃げるどころか、

 翌日には新しい井戸掘り人夫を雇い、清水桶を寄贈した。

 三日後。

 村に、再び澄んだ水が戻る。

     

 グラウヴァルトは報告を受け、息子を呼び出した。

「剣も振らず、魔法も使わず……お前、どうやって治めた?」

「手順を立てて、手を汚さずに」

「ふん……それで民は納得したのか」

「はい。たぶん怒りを使う順番を変えただけです。

 殴る前に書くだけで、少しだけ穏やかになりました」

 父はしばし黙し、やがて笑った。

 戦場でも聞かないほど静かな笑いだった。

「……戦より難しいことをしたな。怒りの矛先を、人から仕組みにずらした」

 アルノルトは照れくさそうに後頭部をかく。

「剣より、ペンの方が寝ながら使いやすいですしね」

「お前の寝言は、そのうち国を動かすかもしれん」

 その言葉に、少年はほんの少しだけ真剣な顔になった。

 ――やがて、この小さな井戸の手順が、世界を動かす。

 まだ誰も知らない。

 昼寝の王子が、眠りながら秩序を設計する勇者になることを。

 しかし、この時点で父には、目の前の息子の器量がまだ測りきれなかった。

 剣を捨て、魔術を怠り、手順と理屈で人を動かそうとする十五歳。

 ――賢か、愚か。

 答えは、まだ見えない。

     

 夏の風が窓を鳴らし、羊皮紙の端を揺らす執務室。

 重い空気を破ったのは、妹の明るい声だった。

「あにさま、すごいですわ!」

 セリアが駆け寄り、ぱっと笑う。

 彼女にとって兄は、変わり者でありながら、どこか誇らしい存在だ。

「昼寝も……少しは役に立つことか」

 壁際で聞いていたライネルが、苦笑まじりに呟く。

 城に仕える若き武官。アルにとっては兄のような存在である。

 アルは頬をかき、どこか照れくさそうに肩をすくめた。

「父上の後は、セリアが継ぐといいですよ。僕と違って威厳もあるし……僕は――勇者にでもなろうかと思います」

 その瞬間、部屋の空気が止まった。

 グラウヴァルトの眉がわずかに動き、低い声が落ちる。

「……いま、何と言った?」

「勇者です。剣は持てませんが、人を助ける仕事です。どこの国にも属さず、束縛されず、風のように――」

「勇者など!」

 父の声が荒れた。

 机を叩く音が、雷のように響く。

「勇者など冒険者の別名だ! 住所もなく誇りもなく、戦場で死体を漁る連中のことをそう呼ぶのだ!貴族の子が軽々しく口にする名ではない!!」

「でも、剣や地位がなくても、人は救えます。手順で、話し合いで。僕はそれを証明して――」

「黙れ!!」

 グラウヴァルトの怒声が執務室に響く。

 拳が机を砕き、羊皮紙が宙に舞った。

「貴族の名を汚すだけでなく、己の怠けを知恵などと呼ぶか!ならば出て行け!!その腑抜けた精神を、冒険者とやらになって鍛え直してこい!!」

 雷鳴のような声に、セリアが泣きそうな顔で兄を見る。

「……あにさま……」

 アルは静かに微笑んだ。

「大丈夫。昼寝の旅に出るだけですよ」

 そう言って、腰の古書を軽く叩く。

 その音は、まるで旅の鐘のように響いた。

 執務室を出る直前、彼は父の背に一言だけ残す。

「父上――。僕はいつか、努力しない方法で、誰も苦しまない国を作ります」

 グラウヴァルトは振り返らなかった。

 ただ拳を握り、唇を噛む。

 怒りの奥に、かすかな誇りのようなものがあった。

     

 門の前。

 セリアが走り寄り、兄の背に小さな包みを押しつける。

「お弁当ですわ。……あと、寝癖の櫛も」

「ありがとう。食べたら寝ます」

 アルは軽く笑い、日差しの中へ歩き出した。

 門の向こう、風が吹く。

 その髪が、光を受けて金色にきらめいた。

 重い扉が閉まる音が、城内の静寂をさらに深くする。

 執務室の窓から、遠ざかる少年の背が見えた。

 小さな荷袋ひとつ。手には古びた本。

 金髪が光るたび、まるでまだ夢の中を歩いているように見える。

 グラウヴァルトは腕を組み、しばし無言のまま見送っていた。

 怒りは、もう残っていない。

 残っているのは、理解できぬ息子への諦念と、わずかな期待。

「……愚か者め。だが、愚かの中にこそ、誰も踏み込めぬ知恵があるのかもしれん」

 独白とともに、彼は窓枠に指先を当てる。

 そこにうっすら残った、幼い頃のアルの背丈の刻み目に一瞬だけ目をやり、すぐに視線を外した。

 その独り言を遮るように、扉が叩かれる。

「――失礼します」

 入ってきたのは、若き武官ライネル・ヴォルフ。

 礼儀正しく膝をつくが、顔にはわかりやすい疲れの色が滲んでいる。

「グラウヴァルト卿。お呼びでしょうか」

 父はゆっくりと頷き、低く言った。

「ライネル。お前に――アルノルトの補佐を命じる」

 その瞬間、ライネルの表情が固まった。

 瞳がわずかに泳ぎ、口元が引きつる。

「……補佐、でありますか?」

「そうだ。名目は護衛。実際は監視と保護だ。あの馬鹿息子が市井に出れば、三日と経たず野盗に財布を奪われる」

 ライネルは無言で立ち上がり、姿勢を正す。

 その目には、露骨な「やりたくない」が浮かんでいた。

「……ご拝命、ありがたく」

「言葉と顔が一致しておらんぞ」

「いえ、心からの感謝です」

 沈黙。

 グラウヴァルトの肩が、ふっと力を抜いた。

「……はぁ。ライネル、お前だけが頼りだ」

「恐れ入ります」

 グラウヴァルトは机上の封筒を手に取り、差し出す。

「これは旅費と身分証。王都で顔が利く者への紹介状も入っている。アルには渡すな。お前の判断で使え」

「……承知いたしました」

 しばし、二人は言葉を交わさなかった。

 窓の外では、馬車の車輪の音が遠ざかっていく。

 やがてグラウヴァルトが、ぽつりと呟いた。

「世間知らずの息子が、市井で三日も生きていけるはずがない……。頃合いで根をあげれば、戻ってくるだろう。そのとき少しでも真面目になっていれば、それでいい」

 ライネルは一礼し、踵を返す。

 扉を出る直前、わずかに振り返った。

「……卿。あの方は、不思議な人です」

「どういう意味だ」

「人を怒らせない天性をお持ちです。いえ……怒りを、使わせないと言うべきかもしれません」

 父の眉が動く。

 だが、その意味を問う前に、ライネルは去った。

 残された執務室には、夕陽が差し込み、机の上の茶器が黄金に光る。

 グラウヴァルトは静かにカップを持ち上げ、ぽつりと呟いた。

「……怒りを使わせない、か。もしそれが本当なら――あいつは、戦より難しい道を歩くのだな」

 窓の向こう、赤く染まる空。

 その下を歩く一人の少年の影が、ゆっくりと伸びて、やがて遠くに溶けていった。

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