表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/29

努力しない勇者、水を逃がし風を送る

 翌朝。

 山は昨日より静かだった。

 静かなのに、空気が張っている。

 試掘の穴が水を見せたからだ。山は、こちらの想定を試しにくる。

 作業域の杭と紐は、昨日より増えていた。

 危険を知った現場は、自然に線を増やす。

 だが増えすぎる線は、逆に邪魔になる。

 そこへ、アルが来た。

「おはようございまーす」

 軽い声。軽装。

 ――その半歩後ろに、リュシエルがいた。

 鎧は軽い。背中には細い剣。視線は鋭い。

 そして左腕に、革紐で括った筒と板。紙束が収まっている。

「……本当に来た」

 ライネルが呆れたように言う。

「来ると言ったら来ますよ。僕の昼寝がかかってるんで」

 アルは欠伸をしながら、作業域の外周を一周見た。

 見るのは人ではない。地面の傾きと、岩肌の割れ目と、風の流れ。

 リュシエルはアルの歩幅に合わせ、紙筒を揺らさないように持ち直す。

 護衛の歩き方ではない。付き従う者の歩き方だ。

「アル」

「はい?」

「昨日より風が変わってる。谷から上がってくる。湿ってる」

 リュシエルの声は短い。無駄がない。

 アルはそれだけで頷いた。

「まず」

 アルはつま先で土を蹴り、昨日の泥を見た。

「水は、出る前提。出ない想定で掘るのが一番危ない」

 バルグが頷く。

「割れ目は読めぬ。だが読めぬなら、逃がせばいい」

「そういうことです」

 アルは素直に頷き、地図の代わりに地面へ棒を置いた。

 棒で、地面に線を引く。

 現場は、紙より先に地面が必要だ。

 リュシエルが筒から紙を抜き、すっと開く。

 粗い図だが、昨日までの記録が書き足されている。

「昨日の試掘点はここ。水が出たのはこの位置」

「助かります、秘書さん」

「秘書じゃない」

 リュシエルが即答する。

「護衛です。あなたが倒れたら私が困る」

「困るのは僕もです」

 アルが笑った。


「穴の下流を決めます」

 アルが言い、崖道の方向ではなく、森側へ線を伸ばした。

 谷の浅い窪みを指す。

「ここに仮の排水溝。深さは膝下でいい。重要なのは繋げること。

 水は勝手に流れます。人は勝手に流れない。だから水の道を先に作る」

 セリアが即座に確認する。

「溝の出口は?」

 アルが指で描く。

「土嚢で受けて、沈殿槽。鉄粉混じりなら一度沈める。

 濁ったまま下へ落とすと、下流が困りますからね。……評議会に怒られます」

 ユノが小さく頷いた。

「下流の村の水、守らなきゃ」

 ミレイユが冷静に言う。

「沈殿槽と土嚢は、費用が小さい割に効果が大きい。

 監督局にも説明しやすいです。環境影響の配慮として」

 アルは肩をすくめる。

「偉い言い方ですねぇ。僕は揉めたくないだけです」

 ミリィが静かに言う。

「揉めない仕組みは、守る側も休めます」

「そうそう。休みたいんです」

 アルは笑った。

 ガレスが低く付け足す。

「排水溝は、守る。

 悪い奴は水を止める」

 リュシエルがちらりと周囲を見て、短く言う。

「止められない位置にする。溝の脇は柵。人が寄れない。馬も寄れない」

 アルが頷く。

「はい。なので排水溝の脇は立入禁止。

 近づくのは作業班だけ。護衛が張る」

 アルが線を太くする。

 禁止が一本の線に変わる。


 次にアルは、穴の上方を見た。

「換気。これも出る前提」

「まだトンネルじゃない」

 ライネルが言う。

「だから今のうちから癖をつけるんです」

 アルは平然と言う。

「穴が深くなったら酸欠で倒れます。倒れると助ける人も倒れます。それが一番、休めない」

 ミリィが静かに頷いた。

「救助は連鎖します。止めるなら最初です」

 アルは上を指す。

「風が抜ける位置に、仮の送風布。簡単な筒でいい。それと、合図の言葉。『風止め』って言ったら全員作業停止。すぐ退出」

 リュシエルが即座に紙に書き足す。

 字は綺麗ではないが、迷いがない。

「風止めは短い。叫びやすい。

 合図は短いほど通る」

 フィオナのペンが走る。

 言葉が規則になる速度が早い。

 セリアが確認する。

「合図を誰が出す?」

「現場責任者です」

 アルは迷いなく答える。

「ガレスさんか、ミリィ隊長か、バルグさん。

 勇者は関係ない」

 ユノが少しだけ笑った。

 それが嬉しかった。


 最後にアルは、作業域の外側へ大きな弧を描いた。

「避難路」

「避難路?」

 誰かが言う。

 新しい試用の作業員だ。目が泳いでいる。

 想定外が怖い目だ。

 アルは優しくもなく、厳しくもなく、ただ当然の声で言った。

「逃げ道がない現場は、事故じゃなくて自殺です」

 空気が固まる。

 だが、固まるべき言葉だった。

 ミリィが一歩前に出た。丁寧に。

「怖いなら、怖いと申し上げてください。怖い場所で黙るのが、一番危険です」

 試用の男が、息を飲む。

「……す、すみません。俺、こういうの初めてで」

「謝らなくて結構です」

 ミリィは微笑む。

「初めての方がいるからこそ、避難路が必要なのです」

 アルが頷く。

「はい。だから避難路の線を作ります。赤い紐。目印。滑り止めの杭。そして――避難場所に水と薬箱。これ、絶対」

 セリアが即答する。

「薬箱は私が担当します。位置も記録に残します」

 フィオナが頷く。

「設置場所と担当者を書きます。書いたものは守らせます」

 リュシエルが短く言う。

「避難路は見えるだけじゃ足りない。夜も見えるように。反射布、用意」

 ミレイユが即座に反応する。

「費用は小さい。優先します」

 アルが満足そうに言った。

「そう。担当者が決まれば、責任が決まる。責任が決まれば、他の人は安心できる。

 安心できれば、余計な緊張が減る。余計な緊張が減れば――事故が減る」

 ライネルがため息をつく。

「結局、休むために真面目にやるんだな」

「休むためなら、いくらでも真面目になりますよ」

 アルはさらっと言った。


 昼前。

 アルは地面の線を見て、筒から紙を出した。

 ――出したのはアルではない。リュシエルだった。

 紙筒を開き、風で飛ばないよう角を押さえ、アルの横に置く。

 護衛の手ではなく、秘書の手だ。

 粗い図。だが必要なものは全部ある。

 排水溝。沈殿槽。換気の位置。避難路。禁止線。

 そして合図の言葉。

 ミレイユが覗き込み、目を細めた。

「……これなら監督局に出せます。安全計画として、工程に組める」

 ルードが頷く。

「山を抜くなどと大きな話をする前に、まずこの一枚が必要でしたな」

 ユノが紙を見つめて言う。

「……これ、勇者が作るものじゃないね」

「勇者が作る必要ないですから」

 アルは欠伸をする。

「勇者が剣を振るのは早い。でも剣を振らなくていい仕組みを作るのは、もっと早く街を救います」

 ミリィが静かに頷いた。

「はい。守る人が、守り続けなくてよい街は――強いです」

 ガレスが一言だけ付け足す。

「強い街は、狙われる」

 その言葉が落ちた瞬間。

 リュシエルの目が、ふっと上がった。

 森の方角。風。鳥。

「……鳥が飛ぶ」

 言った瞬間、遠くで鳥が一斉に飛び立った。

 森警備隊の斥候が、息を切らして駆けてくる。

「……報告! 山道の下で、不審者。人数、五。商会の募集を嗅ぎつけた盗賊崩れの可能性あり!」

 空気が変わる。

 しかし、昨日までのように揺れない。

 線がある。

 手順がある。

 守る者がいる。

 ガレスが頷いた。

「よし。線の通りに動く」

 ミリィが穏やかに言う。

「皆さま、作業は中止。避難路へ。慌てなくて結構です」

 ユノが喉を鳴らし、しかし声を整える。

「ギルド長として、指示します。――全員、避難路へ。護衛班は配置につけ」

 リュシエルが紙を素早く丸め、筒に戻した。

 アルの背に当たらない角度で固定する。動きが早い。

「アル。立つ。移動」

「はいはい」

 アルは肩をすくめて従った。

「……ほら。線を引いておくと、こういうときラクでしょう?」

 ライネルが舌打ちしながらも頷く。

「悔しいけどな」

 ルードが静かに笑う。

「では――次は、治安計画の実地試験ですな」

 道を作る前に、街はまたひとつ試される。

 だが今度は、英雄が走らなくてもいい。

 線が、走る。

 そしてその線の脇で、リュシエルが一度だけアルに言った。

「――あなたは寝る前に、帰ってきて」

「努力します」

 アルはいつもの調子で答えたが、歩幅だけは少し速かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ