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努力しない勇者志望と真面目勇者の意識改革

 「ユノ様、確認の方をお願いいたします」

 エルフの職員が、分厚い依頼書の束をユノの机の上にそっと置いた。

 ユノは椅子から軽く腰を浮かせ、小さく会釈する。

「ありがとうございます。……拝見しますね」

 淡い声とともに、ユノは束を自分の方へ引き寄せる。

 一枚ずつ目を通しながら、机の横に並べられた木箱へ、てきぱきと振り分けていく。

「これは……魔物の目撃情報と護衛依頼。難易度C寄りのDですね。……うん、安全第一でDに」

 小さく呟きながら、依頼種ごとに区分された箱へ、迷いなく書類を落としていく。

 「村の見回り」「迷子捜索」「坑道安全確認」──これまで勇者宛てに積み上げられてきた何でも屋案件が、今は一つひとつ、新しい基準で仕分けられていく。

「……森側の境界線付近、魔物の群れ。これはC以上確定ですね。フェルン隊長行き」

 ユノは、C〜B案件用の木箱に札を立てた。

『森警備隊・フェルン隊』

 その札が立ったのと、ほとんど同時だった。

 扉が、ノックもそこそこに開く。

「ユノ、うち向けのがあるって聞いたが」

 入ってきたのは、深緑の軍装をまとったエルフの青年――フェルン・エルファードだ。

 長い耳が、机の上の書類の束を見てぴくりと動く。

「ちょうどです。森の南東区画、C〜B相当の魔物案件がまとまってきています。危険度評価はこちらに」

 ユノが差し出した書類を、フェルンは一枚一枚、素早く目で追っていく。

 やがて、小さく息を吐いた。

「……勇者任せにしてたのは、俺たちの怠慢だったな。今さらだが、こうして『森警備隊行き』の札を目の前に出されると、ちょっと耳が痛ぇ」

「いえ。これから、取り返していきましょう」

 ユノが穏やかに微笑むと、フェルンも口元だけで笑った。

「任せろ。『危なくなったらユノを呼べ』じゃなくて、『危なくなる前にフェルンたちが片付ける』に書き換えてやるさ」

 そう言って、彼はC〜Bの束を肩にかつぎ、そのまま部下たちの待つデッキへと戻っていった。

 ユノが書類と格闘している、そのすぐ裏では――。

「Aランク魔物、こっちはあたしね」

「じゃあ、このBは俺が行く。距離的にもまとめて片付けられそうだ」

 リュシエルとライネルが、A・B案件を次々と受け取っては、現場へ飛び出していく。

「はい、このE案件は新人向けですね。ギルドの基本方針は――」

 セリアは、窓口に立つエルフやドワーフの職員たちに、落ち着いた口調でギルド運営の要点を教えていた。

「FとEは、なるべく地元の新人冒険者に回してください。『勇者に頼めば早い』は禁止ワードですからね」

「は、はい!」

 その一角で、ミリィ・コールハンマーが、目を輝かせて手を挙げる。

「セリアさん! この村の見回りと、こっちの軽い魔物退治。EとDが混ざってるやつは、うちのパーティーでまとめてやります!」

「いい心がけです。では、その案件はミリィ隊優先でマークしておきますね」

「やった! ユノ様が行かなくて済む現場、どんどん増やしていきますから!」

 ミリィは書類を抱えたまま、仲間の若手ドワーフたちの方へ駆けていった。

     

 ギルド本部の奥、簡易治療室。

「次の人、入ってきて――って、なんでまたあなたなの、ミリィ」

「こ、転んだだけです、サーラさん……」

 サーラ・グリーンリーフは、ため息をひとつつきながらも、慣れた手つきで傷薬を塗っていく。

「ユノの真似して無茶な突撃ばかりするの、そろそろやめなさい。ユノは出来てしまうからやってただけで、本来やるべきじゃなかったのよ」

「う……はい」

「それとユノ。あとでちゃんとここに来なさいね」

 サーラは、治療室の戸口から顔を出し、事務室の方で書類を捌くユノに向かって釘をさす。

「『疲れた顔してるけど大丈夫です』は、医者には通用しないから」

「……はい。終わったら伺います」

 ほんの少しだけ困ったように笑ったユノを見て、サーラは満足げに引っ込んだ。

     

 一方そのころ、鍛冶場側の出入口では、グラド・アイアンビアが鉄粉まみれの腕を組んでいた。

「ギルド用の装備補修依頼、こいつらだな。……おいおい、ちゃんと定期点検してんじゃねぇか」

 新しい依頼票を眺めて、彼はふっと笑う。

「前は『ユノが守ってくれるから、そのうちでいい』って顔ばっかりだったが……数字叩きつけられてから、エルフもドワーフも急にシャキッとしやがったな」

 背後では、ドルン・ストンフィストが腕を組んで、その様子を眺めていた。

「強い奴が一番働くべきってのは変わらんがな。……強い奴一人に全部やらせる仕組みは、さすがにワシも見直さんとな」

「遅ぇけど、気づかねぇよりマシですよ、議長さん」

 グラドはニヤリと笑い、火床へ向き直った。

     

 そして、ギルド本部の中庭。

 木漏れ日の降りそそぐベンチの上では、怠惰な勇者志望が一人、気持ちよさそうに昼寝をしていた。

 腕を枕にして横になり、頬には穏やかな影。

 そのすぐそばでは、新しく生まれた「勇者ギルド」が、慌ただしく――だが、以前よりずっと健全な形で回り始めている。

 フェルン率いるエルフ警備隊が、C〜B案件を抱えて森の方へ出ていき、ミリィたち若手冒険者が、E〜D案件を手に、騒がしく飛び出していく。

 奥の治療室ではサーラが、新人たちに説教混じりの手当てをし、鍛冶場ではグラドが、ギルド印入りの新しい装備を鍛えている。

 そして、事務室では――

 窓の外がゆっくりと赤く染まり始める中、勇者ユノが何でも屋ではなく、依頼を選ぶギルド長として、淡々と書類を仕分け続けていた。

 積み上がっていた依頼書の山は、朝に比べればずいぶん低くなっている。

 それでも、机の上にはまだ数枚の紙が残っていた。

「……次は、森北東の護衛依頼。難易度C寄りの……」

 ペン先が、紙の上を走る。

 ユノは、いつものように危険度を書き込み、木箱へと書類を滑り込ませた。

 そのとき。

「――はい、終業です」

 事務室の扉にもたれかかっていたアルが、パン、と手を叩いた。

「え?」

「え?」

 ユノと、端で帳簿をまとめていたセリアの声が重なる。

 アルは、のほほんとした笑顔のまま、ユノの机へ歩み寄った。

「ユノさん、お仕事はここまで。帰りましょう」

「えっ、あ、あの……」

 ユノは思わず立ち上がりかけて、慌てて椅子に座り直す。

「ま、まだ十時間も働いていませんが……?今日の依頼も全部、終わっていませんし」

「十時間もなんですよ、それ」

 アルはさらっと言い切った。

「リグラード標準では、とっくに『働きすぎ』ラインです。それに、依頼が全部終わる日なんて――たぶん世界が滅ぶ前日くらいですよ」

「そんなことは……」

 ユノは口ごもる。

 そう言われてみれば、たしかにこれまでの日々も、どこかに「明日回し」の案件は必ず残っていた。

 でも、自分が手を出せば、もう少し減る。

 自分が走れば、今日助かる人が増える。

 ずっと、そう信じてきた。

「こ、この分なら、あと数時間あれば――」

「だからダメなんですってば」

 アルは、ユノの言葉をやわらかく、しかし容赦なく遮った。

「あなたは大丈夫かもしれません。十六時間働いても、たぶん笑っていられるくらいには、丈夫で、真面目で、変人です」

「へ、変人……」

「褒め言葉ですよ」

 アルは笑ってから、すっと表情を引き締めた。

「でも、その『大丈夫』を基準にしたら――他の人間は、確実に潰れます」

 ユノの胸の奥で、何かがひくりと動く。

「森の警備隊も、洞窟の坑夫も。新人冒険者も、治療師も、鍛冶師も。『ユノ様はこれくらい平気だから』って感覚で働き始めたら、あっという間に、あなた以外が先に壊れますよ」

「そんなこと……」

「ありますよ」

 いつの間にか、セリアが横に立っていた。

 湯気の立つポットを抱えたまま、静かな声で続ける。

「兄さまが、数字で見せてくれました。翠霧の森と鉄山洞窟群の、この一年の徹夜回数、突発呼び出し件数、怪我人の割合……」

 セリアは小さく首を振った。

「あなた一人の『まだ大丈夫』の裏で、もう限界だった人は、たくさんいました」

 ユノは、返す言葉を失う。

 そこへ、別の扉が勢いよく開いた。

「おーい、終わったわよ!」

 リュシエルが、片手をひらひら振りながら入ってくる。

 少し遅れて、ライネルも肩を回しながら続いた。

「こっちのA・B案件は片付いた。森側の急ぎは全部、今夜分までは消したぞ」

「C以下はフェルンたちが回してる。崩落危険箇所も、ドルンが『今日は止め』の印鑑押した。

 ……つまり、お前が今すぐ走らなきゃいけない現場は、ない」

 ライネルが、ユノをまっすぐ見据える。

「だから――今日は、終わりだ」

 ユノは、自分の手元を見る。

 机の上に残っているのは、「明日以降でも対応可能」と赤い印が押された案件だけ。

 誰かの命に、今この瞬間、直接関わる紙はない。

「……本当に、いいんでしょうか」

 気づけば、その言葉が口をついていた。

「仕事を残したまま、帰ってしまって」

「いい悪いで言えば」

 アルがくるりと身を翻し、出口の方を指さす。

「帰る方が正しいです。ユノさんが今日、ここで無理にもう四時間働くより、明日ちゃんと頭が回る状態で八時間働いた方が、この街は助かります」

「頭が……回る……」

「はい」

 アルは、にこりと笑った。

「休んでいないと、頭が回りませんからね。あなたはがんばりで全部ごまかせちゃうから、気づいてないだけで」

 その言い方が、妙に胸に刺さる。

 ユノはこれまで何度も、「眠くても、まだ走れる」「疲れていても、まだ剣は振れる」と自分に言い聞かせてきた。

 だが、「頭が回っているか」と問われたことは、一度もなかった。

「……私は」

 ユノは、小さく息を吸う。

「私は、休んでいい勇者なんでしょうか」

 それは、自分でも驚くほど弱い声だった。

 アルは、その問いを笑わなかった。

 からかいもせず、まっすぐその目を見返す。

「休んでいい勇者かどうかじゃなくて」

 ゆっくりと言葉を選ぶように、続けた。

「休まないと、この街が困る勇者なんですよ、ユノさんは」

 ユノの目が、わずかに見開かれる。

「あなたが休まないと、みんながユノならもっと出来るはずだって基準で動き続ける。

 その基準を、今日ここで終わらせるために――あなたが最初に、ちゃんと帰る必要がある」

 アルは、まるで当たり前のことを告げるみたいに言った。

「だから今は、『休んでいいかどうか』じゃなくて」

 にっと笑う。

「『晩ごはん食べるかどうか』で迷ってください。お腹すいてません?」

「……すいてます」

 素直に認めてしまってから、ユノは少しだけ顔を赤くする。

 リュシエルが、満足げに手を打った。

「よし決まり。今日はみんなで食堂ね。ユノ、あんたが座ってる間に、明日の仕事の段取りはこっちで聞くから」

「楽そうな椅子を見つけておきましたよ」

 セリアが微笑む。

「勇者専用。座っていても怒られない席です」

 ライネルも肩をすくめた。

「まあ、たまには勇者がいるだけで安心ってやつも、やってみろ。

 立って剣振らなくても、飯食って座ってるだけで助かる奴だっている」

 ユノは、三人の顔を順に見た。

 そして、最後にアルを見る。

 怠惰な勇者志望は、相変わらずのんきな笑顔だ。

「……分かりました。今日は、その勇者専用席とやらを、試してみます」

 ユノは立ち上がり、そっとペンを置いた。

 日が、ほとんど沈みかけている。

 夕暮れの光が差し込む事務室で、彼女は、勇者になってから初めて――。

「今日は、ここまでにします」

 そう口にした。

 その一言が、胸の奥で、驚くほど重く、そして少しだけ温かかった。

 アルは満足そうに頷く。

「はい、終業おつかれさまでした。ようこそ、ちゃんとサボる側へ」

 ユノは思わず、くすりと笑ってしまう。

(……休んでいいのかどうかじゃなくて。休まないと、みんなが困る――)

 その矛盾に、まだ完全には慣れない。

 けれど、その夜の食堂で、湯気の立つスープを前に座ったとき。

 ユノは、生まれて初めて、「仕事を残したまま迎える夕食」の味を、

 ゆっくりと噛みしめることになった。

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