土地が痩せたら鍬をすて牛を飼おう
夜明け前、焚き火の灰がまだ赤い。
ライネルが地図を広げ、ひとつ息を吐いてから切り出した。
「――で、これからどこへ行く。目的地を決めろ」
アルは盛大な欠伸をひとつ。寝癖のまま親指を立てる。
「とりあえず、おっきな冒険者ギルドがある街? 登録して、依頼受けて、昼寝して――」
「最後の一行が余計だ」
ライネルは額を押さえた。
「街なら南東の大路を――」
「待って」
リュシエルがふいに顔を上げ、風に鼻先を向けた。黄金の瞳が細くなる。
「……土と草の匂いが変。南の丘の向こう、枯れてる」
アルはぱちぱち瞬きをして、にっこり笑った。
「じゃ、まずは寄り道だね!」
「だから計画を――」
ライネルの嘆きは、三人の足音に千切れていった。
丘を越えると、地面の色が途端に薄くなった。
畑は白っぽく乾き、風が吹くたびに粉が舞う。
井戸のまわりに村人たちが集まっていた。顔はこわばり、ひび割れた手が桶を握りしめている。
「耕しても何も実らねぇ……このまま飢えて滅びるしかねぇのか」
ライネルがしゃがみ込み、指先で土をひねる。
「腐植がない。ここを畑として戻すなら、何年もかかる」
アルはきょろきょろとあたりを見回し――やがて丘の斜面を指さして、にっこり。
「ここは、すごくいい牧草地だ!」
「「はあああ!?!?」」
村人たちとライネルの声が重なった。
「だってほら、草だけは元気だよ。草があるなら、牛とヤギと羊が食べる。乳が出る。食べられる今日ができる」
「発想が飛躍している!」
「でも現実的だよ。乳とバターとチーズで冬を越せるし、草とフンで土が太る。三年後には畑も笑う」
沈黙。乾いた風。
村長らしき男が、ごくりと喉を鳴らし、おそるおそる口を開いた。
「……そんな器用なこと、うちみたいな村にできるのかね」
「できます」
不機嫌そうな声で、リュシエルが前に出た。黄金の瞳が、草の海を細く切り取る。
「必要なぶんだけ初期投資する。無限カバンから……ほら」
地面に並べられる鍬、木杭、縄、塩の塊、乾草の束、そして巻尺。
「金は修繕と道具に限定。ばら撒きじゃないわ」
ライネルが溜息をつき、地図を裏返して棒で線を引いた。
「この一帯を四区画に分ける。輪牧だ。A→B→C→D→Aと回す。食べ尽くす前に移動して、草を休ませる。柵は木杭と縄。夜は見回り当番を増やす」
若者が二人、勢いよく手を上げた。
「見回り、やります!」
「記録は? 俺、字はちょっと書ける」
「じゃあ君は草丈係だね」
アルが笑う。
編み物の得意そうな娘が針を口に咥え、革袋と布を膝に広げた。
「搾乳袋と撹拌袋とチーズ型、縫えるだけ縫うよ」
村長がまた喉を鳴らす。
「家畜は……どこから」
「順番でいきます」
ライネルが答える。
「まずヤギ。粗い草でもいける。次に牛を一頭。余裕が出たら羊。鶏は虫取りと卵。最後に豚――廃棄物を肉に変える」
「覚えた! じゃ、昼寝――」
「覚えた直後に寝るな!」
その日の午後には、草のうねりに沿って四角い柵が立った。
夕暮れには、隣村から借りたヤギが数頭、鈴を鳴らしながらやって来る。
子どもたちが歓声を上げ、小さな鈴がちりんと鳴った。
リュシエルは塩の塊を区画の角に置き、「帰ってくる目印よ」と顎で示す。
翌朝。草丈係の若者が、板を片手に指を立てて読んだ。
「朝四指、夕方三指。明日は区画Bへ移動」
「よし」
ライネルは板に刻む。
「記録を続けろ。日付、草丈、頭数、降水」
三日目、牛が一頭やって来た。太い額、静かな目。
アルは額を撫で、低く囁く。
「ようこそ。ここはごはん天国だよ」
洗い桶と清潔な布、湯気の立つ鍋。
ライネルが手本を見せる。
「搾乳前は温湯で拭く。最初の数滴は捨てる。清潔第一だ」
初めての牛乳が桶に溜まる。白い、小さな湖。
編み娘が撹拌袋を持ってきて、アルの胸に押しつけた。
「はい、シャカシャカ役」
「えっ僕!? こういう努力は、例外的にがんばる!」
アルは袋を振り、振り、振り――腕が悲鳴を上げるころ、袋の中で黄色い塊が生まれた。
「バターだ」
ライネルがほっと笑う。
「残ったバターミルクはパン種か、豚の餌に」
四日目、鶏の可動小屋が完成した。車輪付きの箱から、赤い冠が次々と飛び出す。
「家畜の後を追わせるの。虫を食べて、糞を散らす。卵も出る」
朝の炭火に卵が乗せられ、じゅっと音を立てた。
誰かが泣き、誰かが笑う。
◇
数日して、羊が加わる。羊乳は少ないが、香りが豊かだ。
「これでセミハードが狙える」
編み娘がチーズ型を撫でる。
「魔法で酵素の代用は?」とリュシエル。
「ダメだ。レンネットは少量でいい」
ライネルが即答する。
「魔法で固めると、風味が飛ぶ」
「……ケチ」
「風味に対して誠実なんだ」
やがて豚が入り、日陰の泥にごろりと転がった。
ヨーグルトの瓶を抱えたライネルが、遠い目で言う。
「俺の胃の平和は保たれた」
「それ、僕のために作ったやつ」
「黙れ」
夜。
焚き火の輪の中で、フレッシュチーズが型から抜かれる。塩がぱらりと落ちた。
村長は恐る恐る一切れを口に運び――目を見開く。
「……うまい」
「今日から、うまいです」
アルが胸を張る。
「畜産は速い。明日はヨーグルト。来週はバター。来月は、羊と牛の混ぜチーズを寝かせよう」
「寝かせるのはチーズであってお前じゃ――」
「寝るのも大事!」
ライネルのツッコミは星に吸い込まれ、村の若者たちは畦道に小さな焚き火を点して回る。
草丈板には今日の数字。搾乳袋の縫い目は、夜のうちに点検される。
リュシエルが袖を引いた。
「……褒めなさい」
「今日のミルク、月の色してた。君に似て、綺麗だったよ」
黄金の瞳が、わずかに潤む。見えない尾が、ぶん、と振れた気配。
「ま、まぁ当然ね」
一週間。
飲むヨーグルトは瓶に詰められ、バターは冷えた井戸の側で固まり、フレッシュチーズは市場行きの籠に収まった。
村の男衆が護衛代わりに棍を持ち、街道へ向かう荷車を押す。
夕暮れ、荷車が戻り、銅貨と銀貨がざらざらと音を立てた。
「売れたぞ! 勇者印のヨーグルトって呼ばれてた!」
「名前を勝手に付けるな」
ライネルは呆れながらも、口元が緩む。
村長は木札を取り出し、炭で大きく書いた。
――アル牧場。
「え、僕の名前!? やだなぁ、照れるよ」
「当然よ」
リュシエルが言う。
「褒められるべきものから、世界は変わっていくの」
「……俺の胃だけは変わらんがな」
ライネルがヨーグルトを一口すすった。
アルは看板の影に腰を下ろし、欠伸をひとつ。
「やっぱり、寝ながら草原を見てたのが正解だったな!」
「寝てただけで畜産革命を起こすな!」
笑い声。草の匂い。遠くで鶏が木に登り、塩の角でヤギが鈴を鳴らす。
草は嘘をつかない。踏まれ、食われ、やがて土になる。
努力は最小限。だが、仕組みと人と、少しの魔法で――村は今日から、少しふっくらと生きていく。
牧場の看板が立った日の夕方。
村長が深々と頭を下げた。
「勇者様、本当に……ありがとう。あんたのおかげで、うちは冬を越せる」
「いやいや、みんなが動いたからだよ」
アルは笑って、湯を注ぎ足す。
「ところで村長さん、この辺に、面白そうなことない?」
「お、面白そう……?」
村長はきょとんとし、それから困ったように首をひねった。
「なにも特には……ああ、街道沿いに盗賊が出る噂を聞きます。そのせいで皆、乗り合い馬車で目的地に向かってましてな。単独は危険で」
「へぇ~」
アルはにんまりした。嫌な笑顔ではない。だが、ライネルの胃には悪い。
「盗賊って、いつぐらいが一番出るの?」
「日が落ちる前後ですな。夕焼けに紛れて……って、勇者様?」
「うんうん、夕方ね。ありがとう、村長さん」
アルは立ち上がり、背伸びをした。
「じゃ、夕方の街道にお散歩だ」
「……あぁ~、俺の胃が……」
ライネルは額を押さえ、遠い目で空を見上げるのだった。




