第18話 借りた言葉を返す朝——“未了返却”と、片側名の蔵書印
返却ボックスに朝いちの影が落ちた。
氷水の入ったピッチャーが汗をかき、ページの端は夜露の記憶でほんのり波打っている。貸出カードの“返”には大きく——《未了》。
「“未了返却”、運用開始ですね」
「返すのは本だけ。言葉は今で返す」
僕は小さなスタンプを取り出した。新作だ。
《蔵書印:台所/片側名》
朱肉はふつうの濃さ。
押す位置は、扉の裏の余白——“名前が育つ余白”。
《片側名の蔵書印(運用)》
・押す人:借り手本人(片側名で)
・押す場所:表紙の裏の余白
・押す文言:“私は——。ここで——を読んだ”
・返却欄:未了可(次の読者への手紙が“完了”)
朝の味噌汁は、なすとおくら。夏の喉は「するする」を好む。
栞さんが《台所》の板の前で、蔵書印の試し押しをする。
《私は栞。ここで「靴のまま入る絵本」を読んだ》
文字の黒と朱の丸が、きれいに同居した。
そのとき、玄関前に背の高い影が二つ。
総代と、遠縁の叔父だ。
叔父は絵本を胸に抱き、貸出カードの“返”を**《未了》のまま差し出した。
総代が目だけで合図する。
「一行感想から、どうぞ」
叔父は喉を、いちど、飲み込んだ。
そして、朱の蔵書印の横に、ゆっくり書いた。
《私は××。ここで“看板”の章を読んで、泣いた》
“私は”が、やっと言い切り**になった。
会長が五秒の余白を置いてから、短くうなずく。
「返却、受理(未了)」
午前、未了返却の棚を作る。
返しきれていない感情や、これから戻ってくる予定の言葉が座る場所。
棚札はこうだ。
《未了返却:次の読者へ》
・“ここで泣いた”
・“ここで笑った”
・“ここで止まった”
僕らは“止まった”の札を一枚、絵本の中腹に差し込む。
止まった場所が、次の人の始まりになることは、よくある。
昼、穂積が駆け込みの紙束。
《社内図書の夜明け返却が好評。——返却ボタンに未了を追加可》
「返しづらい夜は、未了で朝へ渡せる仕様に」
仕様はだいたい、台所から始まると面白い。
午後、“片側名の蔵書印”を町内配布へ。
姪が小さなゴム版を量産し、番台のおばあちゃんが赤い糸で束ね、会長が通い帳に“印肉補充”の行を足す。
自治会回覧の挟み紙には、短い例文。
《私は陽。ここで『祖父母編』を読んで、相談の声が出た》
《私は風。ここで『夜泣きクイック』を読んで、五分休憩した》
《私は総。ここで『看板の章』に線を引いた》
“私は”の列は、見た目だけで町を軽くする。
合間に澄の昼寝。
しるこが“蔵書印の朱”を嗅いで、くしゃみゼロ。猫KPIは“朱耐性良”。
栞さんは昼の支援費を封筒で仕分け、欄外に小さく書く。
《私は栞。14:20 支援費:紙おむつ/台所タワー:未了返却棚追加》
黒は今日も乾く。
夕方、叔父がもう一度現れた。
今度は、両手が空いている。
「未了、返しに来た」
彼は“未了返却棚”から小さな札を取り、朱の横に黒で一行。
《私は××。看板は戸棚、表紙は台所》
言い切りは、短いほど強い。
総代が蔵書印を彼の手に押し戻す。
「持っていけ。——返す言葉が出たら、また押せ」
言葉は循環する資源。台所はその浄化槽だ。
小さな式を一つ。
《一行感想の焼き直し》
1) 命令語→体験語
2) 主語“私”で開始
3) 比喩より手順(どこで、どうした)
4) 未了返却可
叔父がこれを見て、鼻で笑い、少しだけ目を拭った。
「台所は、ずるいほどにやさしいな」
ずるいの定義は、だいたい成功の匂いがする。
夜、蔵書印の音を録る。
朱の「ポン」、ページの「ぱら」、昆布水の「からん」。
兄から付箋。
《“返す音”は家のリズム。——未了がある家は、長く歌える》
歌は、BPMで暮らす方法だ。
KPIの締め(未了返却・初日)。
・味噌汁率:+1(なす・おくら)
・親族アラート:+0(返却移行)
・紙進捗:未了返却棚設置/蔵書印(片側名)配布/一行感想焼き直し式運用
・生活音:朱“ポン”、ページ“ぱら”、水“からん”
・猫KPI:朱耐性“良”/箱占有“1回”
「黒字、継続」
「黒字は朱とも仲がいい」
「黒と朱で、今日が残る」
眠る前、玄関脇の“想定問答”に一枚。
《Q:返す言葉が見つからない? → A:未了返却で席を残す/蔵書印に“私は”だけ押す/朝まで置く》
扉を閉める音は、今日も家の音。
《台所》の表紙の下で、未了が小さく息をしている。
――――
【次回予告】
第19話「名の配膳——“片側名”の名刺を町に敷く日」
・名刺を配る“配膳”の手順/商店街のレシートに片側名の欄/兄の付箋は“ところてん”——押し出すと形になる、透明の論理。