第17話 台所の図書室——“靴のまま”で読む夜、座敷が借りに来る朝
夏の台所は、冷蔵庫と同盟を結ぶ。
兄からの付箋は、きっちり冷えていた。
《水ようかん:冷たいまま甘い。——夏の黒字。
図書室の“貸出”は、片側名で回せ。判はふつうの濃さで。》
朝、僕らは《台所》の板の隣に小さな本棚を置いた。
段ボールを白い布でくるみ、上段に「靴のまま入る絵本」、中段に「声の置換(祖父母編・母子版)」、下段に「置換表(耐水)」。
札には、《台所図書室》。貸出カードの欄はこうだ。
《貸出カード(片側名)》
名:____(片側名でOK)
日:____
返:____(“未了”可)
連絡:____(回覧板の家まで)
「返却“未了”って書けるの、最高ですね」
「期限に追われるより、席を残す」
しるこがカード箱に座ろうとして、すぐ止められる。猫のKPIは“閲覧だけ良”。
午前、配架式。
会長が胡座で手順を読み上げ、番台のおばあちゃんが赤い糸で貸出カードを束ねる。
姪はスタンプ台を準備。ふつうの濃さの朱肉だ。
栞さんが拍子木代わりに箸を「コツン」。
台所図書室、開室。
最初の借り手は、お向かいのパン屋の奥さん。
片側名欄に**《陽》と書き、返却欄に小さく《未了》**。
「期限を“未了”って書くと、返す気になるわね」
心理は、見た目に弱い。台所は、見た目を味方にする。
二番目は、総代。
スーツの上着を脱ぎ、背中の棒がさらに短くなっている。
「座敷が借りに来た」
彼は“靴のまま入る絵本”を手に取り、ページをゆっくりめくる。
- 「名字を大切に」→ 名前を大切に/名字は手順で扱う
- 「家の看板を守れ」→ 表紙《台所》を育てよう
閉じたあと、貸出カードに、小さく**《総》**とだけ書いた。
片側名の一画が、今朝の冷気みたいに軽い。
三番目は、自治会の若い夫婦。
「祖父母編、正式に採択されたって聞いて。母に渡したい」
カードに**《風見》と書きかけて、ふっと笑って《風》**に直す。
「片側名は“現在地”だから」
“現在地”で管理する図書室。GPSのない紙の、確かな位置情報。
昼前、“相談の声”が栞の母へ届く。
回覧板に差し込んだ「祖父母編」が本番だ。
玄関のベルが短く鳴り、栞の母が紙袋を抱えて立っている。
「相談なんだけど、台所の置き場増やせる?」
命令じゃない。相談だ。
僕らは笑って、棚の下段を空ける。
「ここに“里の味コーナー”。水ようかんは常設で」
「常設の甘味は、家の黒字」と会長。
冷えた水ようかんを切る音は、夏だけのメトロノームだ。
午後、台所図書室の貸出が回り始める。
貸出カードの返却欄には“未了”が並ぶ。
未了は不安ではなく、余白だ。
姪が余白KPIを作って貼る。
《余白KPI:貸出“未了”→席あり(◎)/期限日付→急ぎ(△)》
焦げは急ぎで生まれる。余白は焦げの防火帯。兄の付箋と同じ理屈だ。
夕方、座敷が借りに来る朝の予習として、総代が一枚の紙を出す。
《座敷→図書室 借用手順(案)》
1) 靴のまま入る
2) 片側名で書く(苗字は手順に残す)
3) 「返」は未了可(次回会議で進捗報告)
4) “私は〜を読む”で宣言してから持ち出す
5) 返すときは台所で一行、感想を書く
番台のおばあちゃんが付け足す。
「6) 困ったら昆布水」
どこにでも効く。だしは万能薬ではないが、万能の余白ではある。
合間に澄の昼寝。
しるこが寝息のBPMを計るふりをして、ただ横で丸くなる。
栞さんは絵本のゲラに朱で一行。
《泣くのは手順の合図》
その文は、祖父母の胸に“冷たい甘さ”で入るはずだ。水ようかんの戦術。
夕暮れ、座敷の訪問。
遠縁の叔父が門の前で躊躇し、総代に押されるように一歩。
「……借りに来た」
僕は手順どおりに案内する。
「靴のままでどうぞ。片側名でカードに。“私は〜を読む”を一言、録音します」
叔父はごく小さく言った。
「私は……××。ここで暮らせればよかった」
“読む”じゃなくて、こぼれた。
会長が間を五秒。
「未了でOK」
叔父は、絵本を一冊、胸に抱く。
返却欄に**《未了》と書き、朱の判をふつうの濃さ**で押した。
“ふつう”は、最高の達成だ。
夜。靴のまま読書会。
照明は低く、昆布水は冷たく、ページはしっとり乾く。
“靴のまま入る絵本”の一頁に、栞さんの母が小さく感想を書く。
《相談の声、孫にも効く》
総代は短く。
《看板の章、泣いた》
泣ける絵本は、だいたい正しい置換に成功している。
会の終わりに、穂積が“保育版・焦げ直し”の続報を持ってくる。
《社内掲示板に“夜明けボタン”実装。投稿は夜明けまで保留にできる》
会長がうなずく。
「夜明けは、味の名前だ」
図書室の貸出カードにも、小さく**《夜明け返却》**のチェック欄を足しておく。
返すのに、朝の空気はちょうどいい。
片付け前、兄から最後の付箋。
《図書室の音を保存しろ。——ページ“ぱら”、朱“ポン”、水ようかん“つるん”》
録音機を回し、台所の黒字な音を束ねる。
冷たいまま甘い音が、夏の記憶を作る。
KPIの締め(図書室初日)。
・味噌汁率:+1(なすとみょうが)
・親族アラート:+0(借用化)
・紙進捗:台所図書室 開室/**貸出カード(片側名)**稼働/**借用手順(案)**確立
・声進捗:祖父母編 本番/“相談の声”欄 回覧面で活況
・生活音:ページ“ぱら”、判“ポン”、冷菓“つるん”
・猫KPI:しるこ=監視“良”、爪あと“0”
「黒字、継続」
「夏の黒字は、冷たいのが似合う」
「温度が低いと、言葉の温度が見える」
眠る前、玄関脇の“想定問答”に一枚。
《Q:返却が遅れたら? → A:未了の席を明示/一行感想で現在地を残す/夜明け返却を提案》
扉を閉める音は、今日も家の音。
《台所》の表紙は、薄い水ようかんみたいに、冷たいまま甘かった。
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【次回予告】
第18話「借りた言葉を返す朝——“未了返却”と、片側名の蔵書印」
・未了返却の運用開始/“片側名の蔵書印”を作る回/座敷の叔父が返しに来て、一行感想で初めて“私は”を言い切る。