第16話 台所タワー・保育仕様——“支援”の時間割と、靴のまま入る絵本
朝の台所は、学校の始業ベルみたいに規則正しい。
澄の寝息は“ド”と“レ”の間、しるこの肉球は“スタンプ”の役。
冷蔵庫の前に、新しい欄を増やした。時間版KPIだ。
《時間版KPI(保育・試行)》
6:00〜9:00 起床/授乳/味噌汁(朝)
9:00〜12:00 外気浴/回覧板/来客“相談の声”対応
12:00〜15:00 昼寝/支援費の仕分け(封筒)
15:00〜18:00 買い物/台所タワー保育仕様の整備
18:00〜21:00 夕食/入浴/記録(黒)
21:00〜6:00 夜泣きプロトコル(昆布水五分)
「授業のコマみたいですね」
「コマがあると“焦げ注意”のタイミングが見える」
栞さんは“焦げタイマー”を冷蔵庫横に吸盤で固定し、五分のボタンだけ磨いた。緊急用は、磨いておくと押したくなる。
味噌汁は、小松菜としめじ。
湯気の向こうで、回覧板が二冊同時に届く。自治会からと、親族会の若手連絡網から。
自治会の紙には、新しい見出し。
《相談の声》——“命令の声→相談の声”に置換した例文の投書欄が生まれていた。
・「ベビーカー置かせて?」→置ける場所、一緒に探そうか
・「泣き声が響く」→響く時間、教えてもらえる?(対策考える)
・「ゴミの分別!」→分け方、今度台所で実演するね
良い感染は紙から増える。声は置換で、町は軽くなる。
一方、若手連絡網。
穂積のメモが挟んである。
《“焦げ直し手順”の保育版を作りたい。子ども絡みのSNS誤爆、増加中》
つまり、夜中の勢いで書いた“育児論”を朝に削るやつだ。
僕らは即席で、**焦げ直し・保育版(β)**を作って差し戻す。
《焦げ直し手順(保育版・β)》
認める:眠かった(状態)、焦ってた(感情)
削る:断定語・比較語・“うちが正しい”を削除
焼き直す:私はで始める体験記に置換(事実+手順)
換気:写真は台所か外気浴の空(匂いのない画)
保存:下段ファイルと“夜明けボタン”(朝まで公開保留)
送信した直後、玄関が軽く鳴る。
総代が、布袋を抱えて立っていた。
「座敷の絵本を持ってきた。——靴のまま入る版に翻訳してくれ」
布袋の中には、昔ながらの“家のしつけ絵本”。表紙には、畳と正座と巨大な家紋。
会長が横から顔を出す。
「図書館の寄贈棚に並べる前に“台所語訳”だな」
翻訳作業は、靴のまま入る絵本を作ることだった。
姪がページをスキャン(今日は“黒”多め)。僕は赤鉛筆で“座敷語”に斜線を引き、横に“台所語”を書き込む。
- 「お家の人の言うことを聞きましょう」→ “相談の声”で決めよう
「女の子は台所、男の子は外」→ 誰でも台所、誰でも外
「名字を大切に」→ 名前を大切に/名字は手順で扱う
「家の看板を守れ」→ 表紙《台所》を育てよう
番台のおばあちゃんが、ひとつだけ付け足した。
- 「泣くのはわがまま」→ 泣くのは手順の合図
総代はしばらく黙ってから、赤い斜線を見て小さく頷いた。
「線は切るためじゃなく、置き換えるために引くんだな」
午後のコマは、台所タワー・保育仕様の整備。
従来の段に、保育の小札を差し込む。
〈支援費:猫・断熱・板→+紙おむつまでの距離短縮〉
〈置換表:母子版・祖父母編→+“保育園への声”〉
〈生活記録:寝息・泣き声→+“昼夜のBPM”〉
〈焼き直し:SNS版→+“夜明けボタン”〉
小札が増えるたび、塔は高くならずに密度が出る。
塔は高さではなく、隙間の少なさで立つ。
合間に、澄の初・絵本。
完成途中の“靴のまま入る絵本”のダミーを、ラミネートせず触れるままに。
ページに、こう書き直してある。
《台所に来たら、靴のままで「こんにちは」》
澄の小さな指が、靴のままの絵をつつく。
「靴」という語を、まだ知らない。けれど、ままの音は知っている。
“まま”は、暮らしの許可の音だ。
夕刻、“相談の声”が増えた回覧板が二巡目で戻る。
欄外に手書きのやり取りが並んでいる。
〈ベビーカー置くとき、玄関前すみません→置き場のテープ作ります(青)〉
〈夜泣きの音、1時半と4時に聞こえる→その時間、うちの洗濯機止めます〉
紙面の上で、合意語が育っている。
合意は、判子より早く、湯気より静かに効く。
その時、兄から付箋。
《時間は“味”になる。——“コマ”を詰めるな、“余白”に昆布水》
了解。時間版KPIの各コマの境目に、五分の空白を入れる。
空白は、焦げを寄せつけない防火帯だ。
夜の前のコマ、穂積から返信。
《焦げ直し・保育版、採択(社内)。夜明けボタン、みんな救われる》
会長が親指を立てる。
「投稿は夜明けの味だ」
総代は“靴のまま入る絵本”のゲラに、朱で一行。
《採択(暫定)——図書室配架可》
座敷の本棚に、台所語の本が入る。
言葉の引っ越しは、百科事典より絵本が速い。
夕食は、豆腐と長ねぎ。
時間版KPIに“入浴→記録(黒)”の矢印を描き足す。
栞さんが黒で短く書く。
《私は栞。19:40 入浴、20:10 眠い》
黒字の現在形は、日記より軽く、レシートより温かい。
——夜。
夜泣きプロトコルの発動は一度。
タイマーは五分。昆布水は一口。
“夜泣きクイック・置換表”どおり、言葉を事実→状況→手順に置換して、夜明けボタンを思い出す。
澄は二巡目で眠り、台所の灯りは低く、長く。
黒インクは今日も乾く。
KPIの締め(保育・一日目)。
・味噌汁率:+1(小松菜としめじ→夕:豆腐と長ねぎ)
・親族アラート:+0(運用化)
・紙進捗:時間版KPI稼働/焦げ直し・保育版採択/靴のまま入る絵本翻訳完了(配架待ち)
・生活音:寝息“すう”、ページ“ぱら”、タイマー“ピッ”
・猫KPI:しるこ、見守り“良”
「黒字、継続」
「黒字は、余白にも滲みます」
「滲んだところに、名前が育つ」
眠る前、玄関脇の“想定問答”に一枚。
《Q:時間割どおりにいかない日は? → A:余白を五分置く/“事実→状況→手順”に置換/夜明けボタン》
扉を閉める音は、今日も家の音。
《台所》の表紙は、保育仕様で少しだけ厚くなった。
厚みは、“支援”の手触りだ。
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【次回予告】
第17話「台所の図書室——“靴のまま”で読む夜、座敷が借りに来る朝」
・絵本の配架と貸出カード(片側名)/“相談の声”が栞の母へ届く・祖父母編が本番に/兄の付箋は“水ようかん”——冷たいまま甘い、夏の黒字。