第15話 名の焼き目——“澄”のはじめての回覧板
名は、焼き目が付くと急に家らしくなる。
澄が退院して三日。ベビーカーの影は薄く、泣き声は濃い。夜は短い小川みたいに切れ切れで、昆布水のピッチャーは昼夜の区別を忘れたふりをしている。
朝、回覧板が回ってきた。
自治会の紙は、今日から片側名欄が増設されている。
《受領者:名(片側名可)/時間》
会長の字で小さく注釈が入る。
〈名字が未了の人は片側名でどうぞ。黒字で〉
“黒字”はインクの色でもあるし、家計の色でもある。ややこしいが、だいたい良い。
「澄の“はじめての回覧板”、記念撮影します?」
「泣かないうちに」
僕はボールペンを黒にカチンと切り替え、欄にゆっくり書く。
《真白・栞・澄》
名字は入れない。入れる欄じゃない。
“焼き目”みたいな濃さで、三つの音が紙に座った。
朝の味噌汁は、かぼちゃ。甘みは眠気の親戚だ。
澄がふいに泣きそうな顔をする。空気がピンと張る前に、栞さんが“声の置換・母子版(β)”のカードを読み上げる。
「私は栞。ここで暮らす。澄、いまから抱っこ」
“私は”で始めると、呼吸の導線が通る。泣き声は泣くまでもなく、あくびに置換された。
午前、総代が来た。背中の棒はさらに短く、今日は紙袋を提げている。
「声の置換・祖父母編、持ってきた」
封筒から出てきた紙は、座敷語の“古傷”を避けるための言い回しが並ぶ。
《声の置換・祖父母編(β)》
- 「抱かせろ」→ 抱っこしてもいい?(今いける?)
「昔はこうだった」→ うちではこうだった(参考までに)
「おっぱい足りてる?」→ 眠りのリズムどう?(助けが要る?)
「つけなさい/やめなさい」→ 試してみる?(一緒に)
「家に入れる子だ」→ ここで育つ子
総代は小声で付け足す。
「**“命令の声→相談の声”**に置換する。座敷は声が古いからな」
番台のおばあちゃんが台所の椅子に座って、紙を指でトントン。
「“相談の声”は、台所が一番似合う」
昼、澄の回覧板デビュー。
ベビーカーを玄関に寄せ、回覧板を小脇に抱え、僕らは三軒先の角まで歩く。
空は晴れ、洗濯物の線が町の譜面みたいだ。
お向かいのパン屋の奥さんが出てきて、欄を指さす。
「片側名、いいわね。焼き目ちょうどだ」
パン屋に褒められると、だいたい正しい。
戻ると、ドアの前に小さな茶封筒。
中には**「夜泣きクイック・置換表」**。差出人は窓口七番。
- 「泣いた(事実)」→「起きた(状況)」
「寝ない(評価)」→「まどろむ(観察)」
「だめだ(自己否定)」→「一回休憩(手順)」
最後に朱のはんこ(ふつうの濃さ)で一行。
〈休憩=昆布水/五分〉
紙の手順は、夜に効く。
夕方、祖父母編の実地テストが突然やってきた。
栞さんの母が、差し入れの煮物を抱えて訪ねてくる。
「抱かせ——」と出しかかった言葉を、彼女は一拍で飲み込み、紙を思い出す顔で言い直した。
「抱っこしてもいい? 今、いける?」
栞さんは笑って、「今、いける」。
抱っこは、手順に入ると儀式じゃなくなる。自然は、いつも手順にやさしい。
夜。
澄の最初の長泣き。
時計は二時。昆布水は冷蔵庫の前。
“夜泣きクイック・置換表”の順で、声を置換する。
「起きたね」「まどろむね」「一回休憩しよう」
五分で、泣き声の高さが半音下がる。
さらに五分で、息が“すう”に戻る。
昆布水は、湯気のない湯気を台所に戻す。
眠り直しの前、名の焼き目の確認。
冷蔵庫の白、名刺の黒、回覧板の欄外。
紙はどこでも澄を受け入れる。
栞さんが《台所》の板の下に小さなラベルを一枚。
《澄、ここで泣く(ときどき)》
泣くことを貼る。貼っておくと、驚かない。驚かないと、眠れる。
――翌朝。
自治会から小さな通信が届く。
《回覧板の片側名欄、好評。——高齢者会より「字が大きいと嬉しい」との声。》
会長が通い帳に一行足して持ってくる。
《置換:好評→継続/字大きく→次号》
“声の置換・祖父母編”も、回覧板に差し込めるように整える。
総代が朱で**「採択(暫定)」**。座敷は、少しずつ台所へ近づく。
午後、穂積がふと現れて、肩の力の抜けた笑顔を見せる。
「上(親族会の若手)で**“焦げ直し手順”が定例化しました。『SNSの損傷』だけじゃなく、“うっかり失言”**にも適用」
会長が昆布水を差し出す。
「焦げは運用。焼き直せば、パンは出せる」
澄はあくびを一つして、手の中の空を握る。空は、どの家にも配達される。
夕方の味噌汁は、豆腐とにら。
KPIの更新。
・味噌汁率(週):+1(にら)
・親族アラート:+0(運用のみ)
・紙進捗:片側名欄稼働/祖父母編採択(暫定)/夜泣きクイック導入
・生活音:寝息“すう”、箸“澄”、冷蔵庫“家”
・猫KPI:くしゃみ“0”(しるこ優秀)
「黒字、継続」
「黒字は回覧板に押さないでください」
「押しません。黒は字だけ」
夜、栞さんが《台所》の板に指先を置いて、短く言う。
「私は栞。ここで暮らす」
その下で、澄が小さく寝返りをして、かすかな“ふ”の音を出す。
名の焼き目が、家の温度に溶けていく。
玄関のポストが、ふっと鳴る。
差出人は、座敷側の遠い親戚。
封筒の中身は一枚のハガキ。
《回覧板、片側名で回りました。——“私は××。ここで暮らす”》
“私は”は伝染する。良い伝染は、町をゆっくり黒字にする。
眠る前、玄関脇の“想定問答”に一枚。
《Q:夜泣きで弱音が出たら? → A:声を置換(事実→状況→手順)/五分の昆布水/未了の席で休む》
扉を閉める音は、今日も家の音。
名の焼き目は、焦げない。焼き直しも、たぶんいらない。
――――
【次回予告】
第16話「台所タワー・保育仕様——“支援”の時間割と、靴のまま入る絵本」
・支援費の“時間版KPI”/回覧板に“相談の声”が増える朝/総代が持ってくる“座敷の絵本”を台所語に翻訳する回。