第14話 未了のまま名を授ける——“仮ルビなし”の母子手帳
空気は言葉より先に通る。
自治会の若い夫婦——風見さんと日向さん——が玄関で深呼吸したとき、台所は「通気を良くせよ」と小さく鳴った。
回覧板の端に走り書きで残っていた謎のメモ《通d気を》は、たぶん誰かのタイプミス。でも、今日の合図にちょうどいい。
「相談は二点です」
風見さん(妊娠九ヶ月)が、母子手帳のカバーを撫でながら言う。
「一、名字が未了のまま出産届を出せる運び方。
二、産院や役所で**“私は”から始める**手順の作り方」
日向さんが頷く。「“仮ルビなし”で行きたい。片側名のまま、でも混乱は起こしたくない」
冷蔵庫の前に“本日の段取り(産前版)”を貼る。
《1) 役所シミュレーション/2) 産院の声の置換(β)/3) 母子手帳の“台所欄”作成/4) 通気=換気の設計(言葉と空気)》
まず、役所シミュレーション。
会長が議長、記録は姪。窓口七番は“公的フォームの読み方”担当で私服参加。
僕は紙に大きく書く。
《名:赤ちゃんの“名”は決める/姓:法の欄では現行の戸籍姓を使用(未了は席として残す)》
栞さんが補足の付箋を貼る。
《台所名票:家庭内掲示の“表紙名”(片側名)を別紙で運用→役所提出書類とは混ぜない》
風見さんの目がゆるむ。「席としての未了、好きです」
次に、産院の声の置換(β)。
僕らは“声の置換・母子版”を新規で起こした。紙の上に、太字で並べる。
- 「母」「父」→ 保護者A/B(名は片側名で)
- 「本籍」「婚姻」→ 識別子(戸籍側)/暮らしの形(現在形)
- 「里帰り先」→ 台所の位置(住所ブロックまで)
- 「家族歴」→ 支援歴(誰が何を手伝えるか)
番台のおばあちゃんがうんうんと頷く。
「“声”が通れば、心拍が落ち着く。産む人の脈は、言葉で上がるからね」
**母子手帳の“台所欄”を作る作業は楽しかった。
表紙の裏に貼る小さな増設ページ。タイトルは《台所》。
項目は四つ。
1. 今日の味噌汁(具)
2. “私は”で始まる近況(保護者A/B)
3. 支援の予定(誰が、いつ、何を)
4. 未了の席(名づけ前の呼び名・仮ルビなし)
風見さんが4の欄に、ちいさく書く。
《小さな風》。
日向さんが横に、《仮ルビなし》**と小さく添えた。
“未了”が愛称に息を通す。通気が通う。
通気=換気の設計。
会長が窓を少し開け、僕は言葉の窓を少し開く。
《Q:苗字は? → A:未了です。公的書類は現行姓/ふだんは片側名で名乗ります》
《Q:ご夫婦ですか? → A:暮らしを合わせています。婚姻の有無は戸籍の識別子でご確認ください》
《Q:赤ちゃんの呼び名は? → A:小さな風。名は産後に“台所”で決め、必要な届出は手順どおりに》
言い回しの通気口を開けておけば、窓口で熱がこもらない。
昼、兄から付箋が届いた。
《だし昆布は産院にも効く。——火を入れず、急に効く》
了解。ピッチャーに昆布を沈め、産院行きのバッグのリストに**「透明ピッチャー(小)」**を足す。
午後、役所へ予行演習。
窓口の女性(本物の係の方だ)が、目だけ笑って紙を受け取る。
「“私は”から始まる説明文、読みやすいです。——“名”の欄だけ先に決めておくと手続きが滑らかですよ」
風見さんはお腹を抱えて、小さく深呼吸。
「“小さな風”は呼び名。名は未了」
係の方は頷く。
「未了は席、ですね。名づけは14日以内という“外の手順”も、紙で一緒に貼っておきましょう」
姪が即座に付箋。
《外の手順:名は14日以内/姓は戸籍に従う→“台所名票”で反復》
“外”と“台所”を並べると、風の通りが良い。
帰り、産院へ。
助産師さんは置換表(声編)を見て、胸ポケットに差した。
「“保護者A/B”、ありがたい。——陣痛室では**“私は”**から始めましょう」
“台所欄”のコピーを二枚渡す。
「ひとつは病棟に、ひとつは陣痛室に。味噌汁の欄も埋めていい?」
「ぜひ。今日の具は?」
「さつまいも。力になる」
湯気のない台所ピッチャーが、白い廊下で涼しく光る。
夜。
台所で名のワークショップ。
カードに音の粒を置いていく。
——風、灯、縁、織、澄、芽。
“未了”の席に何を座らせるかを、湯気の長さで試す。
栞さんが言う。
「片側名は、音がよく通る。苗字の壁がないぶん、呼び声がまっすぐ飛ぶ」
日向さんが頷く。
「“名字は未了”って言ってから“私は”で名乗ると、相手の目がこちらの現在を見る」
会長は昆布水を一口。
「現在形で呼び合えば、家は未来形になる」
KPIの更新(産前版)。
・味噌汁率:+1(さつまいも)
・親族アラート:+0(台所運用)
・紙進捗:台所欄完成/声の置換(母子版)配布/役所外の手順付箋化
・通気:窓“1/4”開/言葉“1/3”開
「黒字、継続」
「黒字は、赤ちゃんの寝息に寄せます」
「寝息KPIは数えません」
でも、数えたくなるくらい静かで優しい夜だった。
——そして、翌朝。
風見さんの破水。
台所の空気が一段クリアになる。
バッグ、母子手帳、《台所欄》、置換表(声編)、透明ピッチャー。
廊下の角で、兄からの付箋が一枚、落ちていた。
《呼吸は“私は”で始める。——四拍で吸って、六拍で出す》
呼吸は、名乗りだ。
産院。
助産師さんが**“私は栞。ここで暮らす”**の板の写真を見て微笑む。
「暮らしの板を陣痛室にも」
陣痛の波の合間に、風見さんが短く言う。
「私は風見。名字は未了。——小さな風、会おう」
声が通る。通気は、言葉と肺の共同作業だ。
十時間後、産声。
小さな風が、台所の方角に鳴った気がした。
“名”は、まだ未了。
でも、呼び名は部屋の温度を上げる。
助産師さんが“声の置換”に沿って記録を取り、母子手帳の《台所欄》に今日の味噌汁を書き込む。
《さつまいも》。
日向さんが泣き笑いで、片側名でサインをする。
黒いインク。黒字は残る。
退院の日までのあいだ、僕らは名の試し読みを続けた。
寝息のリズム、泣き声の高さ、抱っこのときの指の丸み。
“未了”は焦らない。焼き目の濃さを見極めるみたいに、ちょうどいい瞬間を待つ。
退院の朝、台所で名の通気を最後にもう一度。
窓をすこし開け、昆布水を一口、置換表を胸の高さに。
風見さんが“私は”で吸って吐いて——言った。
「私は風見。名字は未了。——あなたの名は『澄』」
日向さんが重ねる。
「私は日向。名字は未了。——澄、ようこそ」
澄。
湯気の中で通る音。
通気がいい名だ。
役所。
“外の手順”に従って、名は澄、姓は当座の戸籍姓で。
窓口の女性は、黒インクの乾きを待ってから言った。
「“未了”は席。——“台所名票”で、ふだんを続けてください」
母子手帳の《台所欄》には、新しい一行が増えた。
《今日は澄/味噌汁:豆腐と三つ葉》
帰路、ベビーカーのひさしを少し上げる。通気を良くする。
言葉も、同じだ。
夜。
KPIの締め(産後初日)。
・味噌汁率:+1(豆腐と三つ葉)
・親族アラート:+0(祝電のみ)
・紙進捗:名・届出完了/片側名の運用継続/母子手帳《台所欄》稼働
・生活音:寝息“すう”、湯気“ふう”、冷蔵庫“家”
「黒字、続行」
「黒字は、澄の将来に繰り越し」
栞さんが笑って《台所》の板を指でなぞる。
**《私は栞。ここで暮らす》**の下に、短い紙片が増えた。
《澄、ここで眠る》。
未了に席があって、席に名が座った。
家は、通気が良い。
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【次回予告】
第15話「名の焼き目——“澄”のはじめての回覧板」
・回覧板の“片側名”欄を作る/夜泣きと昆布水の相性/総代が“声の置換・祖父母編”を持ってくる。