第13話(番外) 停電シミュレーション——電気のない台所で会議する
台所は電気が落ちても、家の音をやめない。
自治会から「停電訓練」の回覧が回ってきた朝、僕らは冷蔵庫の前で“非常時KPI”の欄を作った。
・水:ポリタンク×2(満杯)
・火:固形燃料(12個)+カセットコンロ
・紙:手順書(停電版)・置換表(耐水)
・音:ホイッスル×2・手回しラジオ×1
・猫:しるこ用カリカリ&水(3日分)
栞さんが、懐中電灯の光を壁に丸く当てる。
「停電版“生活の音”って、何でしょう」
「紙が擦れる音。器の触れる音。火の“コッ”」
「あと、人の“声”。タイトル通り」
停電開始、午前10時。
ブレーカーを落とすと、冷蔵庫の灯りがふっと消えて、家の重心が耳に移る。
会長・番台・姪・窓口七番(今日は私服)・穂積が、靴のまま入室。
議長は会長、記録は姪の“鉛筆”。今日は紙の会議だ。
「本日のアジェンダ」僕は厚手の用紙に大きく書く。
火なし味噌汁(水出し+味噌)の可否
“支援費”の停電モード(氷・水・燃料の優先度)
“台所→近所”の音伝達手順
“名字の未了”非常時の名乗り方
まず一。
昆布水ストックをボウルに張り、味噌を溶く。具は乾燥わかめと砕いた油揚げ。
番台のおばあちゃんが味見して笑う。
「湯気は出ないけど、舌が湯気を思い出すね」
会長が“火なし味噌汁”の評価を○△×でつける欄を作り、全員○。
※備考:冷や汁として夏◎、冬△(毛布とセット)
二。
“支援費”の優先度を停電用に置換。
〈氷=冷蔵庫の延命/水=調理と衛生/燃料=温かさの確保〉
窓口七番が黒インクで付け足す。
「電子マネー不可時の支払い手段も“黒”で残しましょう」
姪が“封筒仕分け”を三つ作る。
《氷》《水》《燃料》——封筒の口に紙クリップ。音が「カチン」と鳴るたび、安心が増える。
三。
音伝達手順。
家の前——会長がホイッスルを一回、隣の家が二回、向かいが三回。
**「1-2-3(無事)」**を町内一周。
しるこがホイッスルに耳を伏せたので、猫条項を追加。
《猫のいる家は“1-1-3”の変則(音を減らす)》
自治会長から承認マークの朱。ふつうの濃さで座る。
四。
非常時の名乗り方。
栞さんが紙に太字で書く。
《私は栞。ここで暮らす》
名字は未了でも、居場所と主語で通じる。
総代から預かった“座敷→台所 引っ越し手順(暫定)”にも追記。
〈非常時:私は+住所ブロック(町名まで)〉
穂積がうなずく。「名簿より早いです」
訓練の中盤、外でドンと遠い音。電柱の工事音らしい。
その瞬間、玄関に影。配達員——今は立会人——が顔を出す。
「非常時の“青→黒”は、全件黒で」
「了解。黒字で残します」
彼は無言でカセットボンベを二本置き、手で“OK”。
音だけで済む合図が増えるのは、成熟の証明だ。
昼、停電のまま“冷や汁定食”。
小さな紙皿、木の箸、昆布水。
会長が鉛筆の尻で机をコツコツ叩いてから言う。
「“声”の議題、やろう。——『家族』の呼び方」
姪が新しい紙を出す。
《置換・声編(β)》
- 「嫁」「婿」→ 同居人/相棒
「長男・長女」→ 上の子/下の子
「本家・分家」→ 住所
「嫁に行く/取る」→ 一緒に暮らす/暮らしを合わせる
番台のおばあちゃんが指でトントン。
「声に置換がいるんだよ。座敷は声で傷つくからね」
紙の議事は、鉛筆の“サリサリ”と、器の“コトン”で進む。
停電終了の予定時刻が過ぎても、ブレーカーは上げない。
自分で終わらせないのが、訓練。
午後三時。
兄から、ポストカード。切手の絵は古い電車。
《電気のない町に来てる。——声が太い。
“私は”で名乗る人が多い。
台所、停電しても回せ。終わり方を先に貼れ。》
“終わり方”。
僕は新しい付箋を一枚、冷蔵庫(今日は沈黙)に貼る。
《停電の終わり方》
・ブレーカー上げは合図の後(1-2-3)
・冷蔵庫:先に中身点検、整理→電源
・支援費:封筒の残高を記録(黒)
・録音:鉛筆議事を読み上げ保存(声→データ)
合図——隣から「ピッ」とホイッスルが一回、向かいが二回、商店街側が三回。
「1-2-3」。
ブレーカーを上げると、冷蔵庫の灯りが戻って、家の重心が少しだけ“光”へ戻る。
でも、不思議なことに、耳の居場所はそのままだった。
停電前より、音が澄んで聞こえる。
片付け。
“火なし味噌汁”はレシピにして配布、封筒は冷凍庫の上段に立てて保管。
KPIを締める。
・味噌汁率(週):+1(冷や汁)
・親族アラート:+0(非常時モード)
・紙進捗:停電手順採択/声の置換(β)
・生活音:鉛筆“サリサリ”/器“コトン”/ホイッスル“1-2-3”
「黒字、継続」
「停電でも黒インクは乾きます」
「声も、乾く前に録りました」
夜、栞さんが《台所》の板の前で小さく声を出す。
「私は栞。ここで暮らす」
照明の下でも、暗がりでも、その文は同じ音で立った。
しるこが机の角で尻尾をふいっと動かし、くしゃみはゼロ。猫KPIも、黒字。
——そして、扉の向こうに新しい気配。
自治会の若い夫婦が立っていた。
「名字が未了のまま、出産届を出したい相談、いいですか」
栞さんと目が合う。
第2章の見出しが、静かに台所の空気に浮かぶ。
――――
【次回予告(新章)】
第14話「未了のまま名を授ける——“仮ルビなし”の母子手帳」
・役所の窓口で“私は”から始める手順/声の置換を産院に/“台所”の名が、ゆっくり外ににじむ。