第12話 「『家族』を更新する最終話——台所から始まる姓・名・声」
“返還金”の欄は、今日から“支援費”に名前を変えた。
スペースキーを一度叩くだけの小さな改名。それでも家計簿の空気は、確かに軽くなる。
最初の支出は三つ。
① しるこのワクチンと血液検査(年間プラン)。
② 台所の断熱フィルム一式と隙間テープ(冬支度の手順書つき)。
③ 《台所》の板の防水オイル二回目(湯気対応)。
最後に、栞さんの提案で④を追加。
④ 「焦げ注意」タイマー(大音量・猫に優しい周波数)。
「KPIに“焦げ注意無視回数”?」
「入れません」
でも、タイマーは冷蔵庫の横に貼る。クールな禁止ほど、台所で笑いになる。
朝の味噌汁は、昆布二番+かつおを少しだけ。具は小松菜と油揚げ。
湯気の上で、栞さんが名刺を一枚差し出す。表は**《栞》、裏に小さく《台所》**。
「町内の“支援窓口”に、これで行ってきます。『苗字の欄は空白で』と書かれた紙を持って」
「“未了”のまま提出、ですね」
「はい。“名字(仮)にルビ《なし》”。それを“仮ルビ”と呼ぶことにしました」
ルビがないことに名前を付ける。未了に椅子を与えるやり方だ。
午前。商店街に小さな行列ができた。
自治会長の掲示を見た近所の人たちが、置換表の束をもらいに来て、ついでに《台所》の表紙を見に来る。
行列は三人ずつ。パン屋の奥さんが差し入れのラスクを持ってきて、番台のおばあちゃんが湯気を配る。
扉は開けたまま、でも敷居に小さな札。
《靴のままでOK(台所式)》
座敷じゃないから、靴のままでいい。生活は、土を連れて入る。
昼前、総代がそっと来た。背中の棒はまだあるが、今日は短い。
《置換表(座敷語版)》の刷り上がりを一部手に持って、板の前で立ち止まる。
「——《台所》、か」
「表紙です。看板ではなく」
総代はゆっくり頷いて、ポケットから小さな紙片を出した。
《座敷→台所 引っ越し手順(暫定)》
1) 靴を脱がずに入る許可
2) いきなり“私は”で話す
3) 花は冷蔵庫ではなく水屋へ
4) 置換表を柱ではなく冷蔵庫へ
5) 議事は味噌汁の湯気が出ている間に
「“王様は手順”に従って、座敷も引っ越す。ゆっくりだが」
「ゆっくりで、急に効きます」
昆布の法則は、ここでも強い。
午後。最後の“制度ざまぁ会議”——最終回は、会場が座敷ではなく台所になった。
参加者はいつもの面々+親族会の若手数名。議長は会長、記録は姪。
議題は四本。
1. 支援費の初期運用(猫・断熱・板)
2. 置換表の町内配布状況
3. 名字の未了を公認する仮ルビの扱い
4. 座敷→台所引っ越し手順の採択
入口すぐの台に昆布水。生活音卓はいつも通り。
ケトルの息が一定のBPMで会議の拍を刻む。
一つめ。
窓口七番が“生活証言セット・決算版”を読み上げる。
〈返還→支援へ:猫医療/断熱/板〉
「数字は小さいですが“生活の温度”が上がっているのが、カード履歴でも分かります。暖房のピークが下がってますから」
会長がうなずく。「効く支出は、台所が早く覚える」
二つめ。
自治会長が配布表を掲げる。
〈置換表:回覧板経由で配布/回収不要〉
「“負債→支援”の行は、赤線で囲んでほしいと三件要望がありました」
姪が即座にメモ。「赤線は“支援の合図”。了解」
三つめ。
名字の未了。
栞さんが立ち、名刺を胸の前に掲げた。
「私は栞。名字は未了。公的手続きを遅らせて混乱させる意図はありません。必要な場面では、今の戸籍名を用います。ただ、日常の掲示・名乗り・署名において、片側名を許容してください。これを**“仮ルビなし”と呼びます」
総代が問う。「家系の記録は?」
「黒で残します。生活は声で、記録は黒で」
配達員——いや、立会人になった彼が黒インクで署名する。
会長が宣言する。
「採択(暫定→運用)。未了は席**である。席がある未了は、争いにならない」
四つめ。
座敷→台所引っ越し手順。
総代の紙を会議用に整形し、置換表の下に差し込む。
姪が読み上げる。
「一、靴で入る。二、“私は”から始める。三、花は冷蔵庫に入れない。四、置換表は冷蔵庫。五、湯気の間に決める」
番台のおばあちゃんが笑いながら付け足す。
「六、焦げそうになったら休憩。昆布水」
全会一致。
議事録の最後に、会長が一行だけ書き足す。
《議場:台所》。
これで、座敷は“分館”になった。
会議の終盤、兄から付箋が届く。
《“旅の未了”は続く。——終わり方が手順に入ったら、いつでも始まり方で戻れる》
終わり方が手順に入った。だから、始まりは自由だ。
閉会後、表紙《台所》の前で、町内の人が小さな列を作った。
列の先頭、耳の遠いおじいさんが言う。
「“支援”の字を、もう一枚くれるかい。孫に貼ってやる」
「孫?」
「受験だよ。『負債』なんて言わせない。支援だ」
紙のことばが、受験にまで届く。置換は、生活を跨ぐ。
夕方。
兄がリュックを背負って立っていた。
「出るよ」
「旅の未了、承認」
栞さんは《台所》の板を指でなぞって、兄の目をまっすぐ見た。
「私は栞。ここで暮らす」
兄は頷く。
「私は兄。旅で暮らす。——家は、台所の真ん中にある」
玄関で短い抱擁。
彼が階段を降りる足音は、以前より少しだけ重かった。居座らないと決めた人の、ちゃんとした重さ。
夜。
“最終話”のKPIを更新する。
・味噌汁率(週):+1(小松菜)
・親族アラート:+0(運用化)
・紙進捗:仮ルビなし採択/引っ越し手順採択/置換表配布拡張
・生活音:湯気“良”、箸“澄”、冷蔵庫“家”
黒字は静かに続く。黒いインクの字は、今日も乾いて、明日も読める。
寝る前、玄関脇の“想定問答”に最後の一枚。
《Q:『家族』って何? → A:台所で名を呼び、手順で支え、未了に席を置く人たち》
扉を閉める音は、やっぱり家の音。
《台所》の板が、薄く光って見えた。
“第1条”は、板の下で呼吸を続ける。
そして——
翌朝、パンはダイヤル“2”。焦げは来ない。
冷蔵庫には、未了の席がひとつ。
そこにいつか、**新しい“名前”**が座るかもしれないし、座らないかもしれない。
どちらでも、家は家だ。
湯気が上がり、箸が鳴り、冷蔵庫の灯りがつくたび、家は今日に更新される。
――――
【あとがき(台所より)】
ここから先は“連載外”。けれど、台所は連載中。
困ったら、置換表を一枚。焦げそうなら、昆布水を一口。
“私は”で始めて、“未了”に席を。
それでだいたい、暮らしは黒字になる。