第1話 代走弟、契約婚はじめます
兄が消えた日、冷蔵庫は空っぽだった。
いや、正確には「兄の分」と書かれた付箋だけが、牛乳パックの予定地に貼られていた。几帳面な人は、消え方まで几帳面らしい。
式場からの着信は三本目でようやく出た。
「真白さん、いまどちらに?」
「冷蔵庫の前です」
「式場にお願いします。新郎が——」
「冷蔵庫を閉めてからでも?」
一拍の沈黙。「急ぎで」とだけ言って通話は切れた。
僕は付箋を剥がしてポケットに入れ、扉をそっと閉める。音は小さいのに、状況は派手だ。
兄の婚約式。旧家の体面、親族の見栄、地方紙の社会面。ぜんぶ一日で片付くはずだった祝い事は、“新郎不在”という一点で空気ごと傾いた。
控室に通された僕の前で、白いワンピースの肩が少し落ちている。兄の婚約者——栞さん。
化粧は崩れていない。涙の跡もない。乾いているのに、疲れている目だ。
「真白さん」
「はい」
「お兄さんは」
「冷蔵庫の前までは確認しました」
彼女の口角が、疲れでわずかに跳ねる。冗談は、室温を一度だけ上げる。
「失踪、ということなのでしょうか」
「“消え方が几帳面”派です」
僕は椅子を引き寄せ、近すぎない距離で止める。百合の香りが、静かに抗議してくる。
「いまから、悪い提案をします」
「どうぞ」
「三か月だけ、僕と契約婚をしましょう」
空気がわずかに凍る。花瓶の水面が、きゅっと固くなる音がした気がした。
「名誉回復と違約金の処理、親族への体面維持。ぜんぶ“仮の暮らし”で上書きします。紙、作れます。条件は対等、干渉は限定、同居は必須。冷蔵庫の運用は僕が主担当で」
「冷蔵庫が主語のお話、初めてです」
「うちの家、主語を人間にすると揉めるので」
「どうして、そこまで?」
「兄が置いていった“付箋の分”を、誰かが片付けないといけないから」
ポケットから付箋を見せる。四角い紙切れが、約束に見えることがある。
「でも私、さっき“家の負債”って言われました」
「それ、経理が下手な人の言い方です。負債は投資に変えられる」
「投資?」
「生活の投資。朝の味噌汁、夜の皿洗い、あと猫の病院代」
「猫?」
「帰りに拾う予定です」
そこで初めて、彼女の笑いが音になる。乾いた部屋に、湯気が立つ。
「三か月で、何が変わるんですか」
「定義です」
「定義……」
「“家族”の定義。古いルールから冷蔵庫の付箋まで、更新のたびに少しずつ良くできます」
「あなた、変わってますね」
「うちの冷蔵庫、空っぽですから」
栞さんは、白い肩をほんの少し上げて下ろす。
「契約書、作りましょう。その前提で一つだけ」
「はい」
「“私の名前”の扱いを、私が決める条項。旧家の表札に縛られたくありません」
「第1条にします」
「そんなに大事?」
「名前は冷蔵庫より上位概念ですから」
式場の廊下は落ち着かない靴音で満ちていた。親族代表の伯父が、空気の色を変える速度で近づいてくる。
「真白。新郎はどこだ」
「冷蔵庫の——」
「冗談を言うな。お前が責任を取れ。家の看板を守るんだ」
看板。便利な名詞だ。誰かの暮らしを、雑に束ねてしまえる。
「看板より、生活を守ります」
「何だと?」
「兄の代理で、契約婚を組みます。三か月。彼女の名誉を最優先。干渉はお断りです」
「勝手なことを!」
「勝手じゃないです。紙にしますから」
紙になった瞬間、理不尽の足場は少し崩れる。伯父は唇を歪め、去り際に吐いた。「お前もその女も、家の負債だ」。
栞さんが、小さく息を吸った。
「……負債は投資に変わる、でしたっけ」
「はい。回収計画は、夕飯から始めます」
式場を出る頃には、白い空が色を取り戻していた。
駐輪場の隅、段ボール箱が鳴いた。
「ほんとに拾うんですか」
「契約に“生活の投資”と書きましたので」
箱を覗くと、黒い耳と金色の目。小さい。震えている。
「仮の名前、どうします?」
「“しるこ”」
「渋い」
「冷蔵庫に入れちゃいけないものリスト、一番上に追加です」
僕のアパートは、旧家の別宅扱いの古い二階建て。階段がギシギシ言う。
台所のテーブルにノートPCを開き、契約書のひな型を打ち始める。
《家族の定義更新契約(仮)》
タイトルを打っただけで、部屋の密度が変わる。
条文は短く、しかし抜け目なく。
・第1条(名前)当事者A(栞)は、自らの姓名・表記・呼称を決定し、第三者の干渉を拒む。
・第2条(同居)同居の範囲は台所とリビングと寝室(別)。合鍵は双方。寝室の侵入は明示合意。
・第3条(家計)支出は“見える化”。買い物は付箋に記入、レシートは冷蔵庫の下段ファイルへ。
・第4条(緊急時)病気・事故・親族介入の際、どちらかが“合意語”を言えば、それを最優先とする。
「合意語?」
「『冷蔵庫、満杯』で」
「それ、かわいいですね」
「“いっぱいだから、これ以上入れないで”の合図です」
しるこがくしゃみをして、キーボードを一度占有する。
「猫条項、追加しますね」
・第5条(猫)猫は家族。病院代は家計から。冷蔵庫に入れない。
笑いながら打っていると、扉がコン、コンと鳴った。
覗き穴越しに、黒いスーツ。さっきの伯父だ。横には知らない男が立っている。
扉越しに声が落ちてきた。
「真白、いるか。話がある」
「合意語、発動ですか」小声で栞さん。
「まだ早いです」僕は答え、扉のチェーンを外さずに返す。
「今は来客中です」
「その女か。いいか、契約だの何だの、家に逆らうなら——」
その時、しるこがタイミング良く「ニャ」と鳴いた。
伯父は一瞬だけ黙り、舌打ちして踵を返した。足音が遠ざかる。
静けさが戻る。戻りすぎるほどに。
僕は呼吸を整え、続きを打つ。
・第6条(干渉拒否)親族の無断入室禁止。連絡は双方の同意ある窓口のみ。違反時の法的措置については別紙。
・第7条(終了)三か月後、双方の合意により自動終了。ただし“生活の継続”を妨げない。
「終了条項、怖くないですか?」
「終わり方が先にあると、今日が安心になります」
栞さんは黙って頷いた。うなじの髪が揺れる。その仕草に、式場では見えなかった体温が宿っている。
「夕飯、何が食べたいですか」
「味噌汁」
「具は」
「わかめと豆腐。あと、しるこに危なくないもの」
「了解。家計の可視化、初日から黒字めざしましょう」
買い物メモを付箋に書いて貼る。冷蔵庫の扉が、さっきより“家”の音で閉まる。
鍋が湧くまでのあいだに、栞さんがひとつだけ尋ねた。
「真白さん。もし、お兄さんが戻ってきたら?」
火の音が静かに言う。
「そのときは、“暮らし”のほうを優先します」
「血より?」
「はい。僕は、冷蔵庫係なので」
味噌汁の湯気が立ち上る。二人で椀を持ち上げる瞬間、テーブルのスマホが震えた。
知らない番号。画面の上に、短いメッセージだけが載る。
《冷蔵庫の付箋、見た? ——兄》
心臓が、椀と同じ熱で跳ねた。
続けて、画像が送られてくる。薄暗い部屋、壁に貼られた付箋がいくつも写っている。
真ん中の一枚だけ、見覚えのある字でこう書かれていた。
《後は頼む》
僕は味噌汁を置き、栞さんと顔を見合わせた。
契約書のカーソルが、タイトルの隣で点滅している。
仮の暮らしは、仮にしてはずいぶんと、鼓動が早い。
――――
【次回予告】
第2話「冷蔵庫会議は月曜夜。家事のKPI、可視化します」
・“合意語”初運用/親族の干渉を紙で弾く/兄の付箋が示す次の場所へ。