第60話
波瀬は今日出勤ではなかったよなとシフト表を見て確認した千奈津は、安心して夕方を迎えることができた。
井上は昼過ぎに帰り、数時間一人で過ごした後、斉藤と海老原が出勤した。
斉藤はにまにまと口を動かしながら千奈津の隣をキープし、海老原が二人の元から離れると、口角を上げて千奈津を見た。
何を話したいのか察した千奈津も軽い笑みを浮かべる。
「ついに他店からクレームが入ったんですね。いい気味です」
耐え切れずに、くくっと笑い声を上げる斉藤は余程面白かったようだ。
「そのクレームをぶつけられたの、私と井上さんだけどね」
「結構怒られたんですか?」
「いい加減にして、って言われた。一か月も店の傍にパン屑落とされたり、客から指摘されたら、そりゃあ怒りたくもなるよね」
「どの面下げて出勤してくるんですかね?」
「何事もなかったかのように振る舞う姿が想像できるなー」
「被害者面もしそうです」
途切れることなく波瀬トークをしていると、二人の視界に海老原が映った。海老原を認識すると、二人の会話は自然と止まる。
海老原は千奈津の横に立ち、三人並んで会話をすることになった。
「井上さんってどんな人なんすか?」
開口一番、そんなことを言うので、千奈津と斉藤は身構えた。
いきなり井上の話題を振ってきたが、この流れはきっと波瀬の話題に着地する。
「悪い人じゃないよ。仕事は真面目に取り組んでるし」
「じゃあ、波瀬さんのことが嫌いってわけじゃないんすね」
嫌いであると本人から聞いた千奈津は苦笑でごまかした。
「さすがにあれは、井上さんの言い方がよくなかったと思うんすよ。波瀬さんは女の子なんだから、傷つかないように優しく伝えるべきっす」
波瀬擁護が気に入らない斉藤は、顔を顰める。
波瀬の行いで他店からクレームが入ったのだから、波瀬が悪い。何故この男は見る目がないのだ。
波瀬ではなく、井上を非難する海老原。絶対、女に浮気されるタイプだ。
「俺、井上さんと喋ったことないし、会ったこともないすけど、直接言ってやろうかな」
「えっ、何を?」
「あの人、波瀬さんに謝ってなかったんで、謝るように言おうかなと」
「いやいや、そんなことしなくていいよ」
「でも、それだと波瀬さんが可哀想っす」
この男はどうしようもないな。
千奈津の中で海老原の好感度が下がる。
確かに井上の言い方は良いものでなかった。余計な一言どころか、二言も三言もあった。しかし、元はと言えば波瀬が呼び込んだトラブルである。井上が悪い、波瀬に謝れ、というのは違うだろう。
眉を寄せている海老原は、波瀬を非難するつもりかと言わんばかりに千奈津を見つめる。
「井上さんがもう謝ってるかもしれないし、もし謝罪をしていなかったとしても、海老原くんが介入するようなことじゃないよ」
「でも波瀬さんが可哀想じゃないっすか?」
「そう思うなら、波瀬さんを慰めるだけでいいんじゃない? 態々井上さんに直接言う必要はないよ」
「そう……っすかね」
「そうだよ。この話は、今後気を付けようって話で終わったじゃん。だから掘り返すのはよくないよ」
「……まあ、そうか」
後頭部を搔きながら納得した海老原。
斉藤は横目で見ながら、こいつ馬鹿だなと思った。
店内できょろきょろしている女子高生に気づいた海老原は、一直線にその女子高生の元へ歩み寄り、「どうかしました?」と親しみのある笑顔で対応する。
海老原が二人から距離をとると、二人は軽く息を吐いた。
「重森さんも大変ですね」
「海老原くんは割と波瀬さん側だからねー、ちょっと苦労することがある」
海老原が波瀬寄りだというのは斉藤も思っていたことだ。もしかして海老原は波瀬に気があるのか、と疑ったこともある。実際はどうかわからないが、波瀬を好意的に思っているのは間違いない。少なくとも、自分たちが波瀬に抱いている感情よりは良いものを抱いているだろう。
「明日、僕と剛馬さんとあの女の三人なんですよ」
「お、おぉ……」
「絶対やばいですよね」
「あ、やっぱりそう思うんだ」
「MOONのことがあるからあの女は機嫌が悪いだろうし、その上剛馬さんがいるからその分機嫌の悪さが増します」
「剛馬さんと波瀬さんの関係性は把握済み?」
「剛馬さんの見た目とあの女の性格を考えれば察しますよ」
はぁ、と重い溜息を吐く斉藤は心底面倒くさそうだ。
千奈津はとあることを思いつき、にやりと笑った。
「あーあ、凛ちゃんが可哀想だなぁ」
「剛馬さん?」
「機嫌がよくない波瀬さんに八つ当たりされて、斉藤くんはそれを見て見ぬ振りでしょう?」
「重森さんだってその場にいたら絶対見て見ぬ振りするタイプですよね」
「えー、私はそんなことしないよ。だって凛ちゃんだよ。助けに入るよー」
斉藤くんは見て見ぬ振りするんでしょう?と、ジト目で睨まれてしまっては、言い返す言葉がない。
面倒事には関わりたくない。
八つ当たりされている剛馬を助けようとしたところで、火に油を注ぐだけだ。
それならば何もせず見えない振りをするのが最適解だ。




