第45話
「と、いうわけ。結局、波瀬さんとはあまり話せなかったから、今日言おうと思ってわざわざここまで来た」
千奈津と斉藤は現場を想像し、地獄絵図だなと血の気が引いた。
「どうやら有名なクレーマーらしくて、似たような被害にあった店が他にもあるんだと」
「へ、へえ」
「菓子折りなんて持って行くんじゃなかった」
経費を無駄使いした、と舌打ちをする。
千奈津は、波瀬が泣き喚いたと知って哀れに思った。
気が狂った女に髪を掴まれ、叩かれ、罵倒され、恐怖したことだろう。
自分が同じ立場だったらどうだ。
反撃くらいはするかもしれない。
やられっぱなしではいられない。どうでアルバイトの身分なのだから、クビにされてもダメージは少ない。
せめて相手の髪を掴み返すくらいはしたいものだ。
普段の波瀬とは違い、現場で大人しくしていたのは意外だった。
「そのあと、どうなったんですか?」
斉藤はたまらずに訊ねた。
「女がクレーム常習犯ってことと、波瀬さんに対する傷害と、前々からあった近所の人からの苦情で、どうなったんだろ。その話はもう担当者に振ってるから、俺はあんまり知らん」
「近所の人からの苦情?」
「中学生の娘と小学一年生の子供がいるらしくて、子どもの泣き声が毎日のようにするとか、素っ裸の子どもが家の前で立っていたとか、毎晩怒鳴り声がするとか」
「そ、それって虐待なんじゃ……」
「さぁな。そんなこと俺に関係ねえから、どうなろうが知ったこっちゃない。俺は会社の人間として、クレームの対応をしに行っただけだ。虐待云々は児相の仕事だろ」
冷たい社会人だな、と斉藤は白い目をしていたが、自分だったらどうするか考えて、目の前の男を否定できなかった。
虐待は可哀想だが、自分の力ではどうにもできないし、警察が介入しているので首を突っ込む必要もない。
「こんな騒動なかなかないからな、吉田は翌日から休んでる。最近は多いんだよな、すぐに病む奴」
軟弱者め、と吐き捨てる。
アルバイトでよかった、と二人は心底思った。
斉藤は大学二年生である。就職のことなんてまだ考えていないが、絶対にここには就職しないと決めた。
大人の世界に恐怖し、ぶるっと体が震える。
一通り話して満足した高橋は豪快に笑い、「まあ頑張れ」と応援の言葉を口にすると踵を返した。
高橋が去ると、斉藤と千奈津はその場に座り込んだ。
ただ話をしているところを波瀬に見られたらこってり怒られるため、意味もなく段ボールの中を漁り、作業している風を装う。
「今日、波瀬さんと話した?」
「挨拶をしただけですけど、暗かったですよ」
「そっかぁ、落ち込んでるのかもね」
「これで辞めてくれたら僕は嬉しいです」
「またそんなこと言って……」
「重森さんは嬉しくないんですか?」
「そ、そんな露骨に聞かないでよ。まあ、可哀想だと思う」
「ふうん、またお得意の偽善ですか?」
「刺々しいね。可哀想なのは本当。でも他人事だからそんなに可哀想だと思ってないのも本当」
「つまりどうでもいいってことですね」
可哀想だと思っているが、怖かったねよしよしと慰めようとは思わない。そんな仲ではない。
何を言われたの? どんなことされたの? なんて言い返したの? どうだったの? と、訊ねたかったがその回答を高橋がくれたので、千奈津は波瀬に話しかけなくて済んだ。
謝罪訪問した時のことが分かったので、もう興味は失せた。
「いい気味ですね」
「可哀想とは思わないの?」
「クソビッチ予備軍に情けはかけません」
斉藤の闇は深い。
「重森さんだって、いい気味だと思ってますよね?」
いい気味とまでは思わないが、少しスカっとした。
日々、波瀬に嫌な絡み方をしてくるので、天罰がくだったのだ。
しかしそんなことを言えるはずもなく、「斉藤くんは酷いねー」と自分のことは棚に上げる。これが斉藤のいう偽善だ。
「この話、如月さんにもしてあげようっと」
「そうやって噂は広まっていく」
「海老原と剛馬さんと井上さんに広まればバイト勢全員に知れ渡ったことになりますね。あ、そうだ、他店舗にも流しましょうか。僕は他店舗に知り合いいませんけど、如月さんなら……」
「えげつないわ」
「今後似たようなことが起きないよう、他店舗にこういうことがあったと教えてあげるべきだと思います」
「真剣な顔で正当化されても…...」
正義の旗を掲げているかのように、何一つ悪いことなど言っていないように、斉藤は真っすぐな瞳で千奈津を見つめた。
千奈津は呆れ、返す言葉はなく、「そろそろ戻ろうか」と呟き、斉藤と共に波瀬のいる店内へ踏み入れた。




