どんぐり池に願い事
どんぐり池に
どんぐり投げて
ひとつお願い
言ってみな
森の主の眼鏡に適や
どんな願いも
叶えてくれる
でも気を付けて
それは願った言葉通りにゃ
叶わないかもしれないよ?
命の限りを告げられた時、真っ先に思い浮かんだのは、父のことだった。
大陸の辺境に、『逆さ虹の森』と呼ばれる森がある。都からはるかに遠い西の果て、『竜の背骨』と呼ばれる大山脈に抱かれた広大な森だ。『なみだ川』という名の大河が森を南北に貫き、河の西側には小動物や草食動物が、東側には大型の動物や肉食動物が多く住まう。西と東の交流は乏しく、両者をつなぐ唯一の交通路である橋も老朽化が進み、『オンボロ橋』のあだ名が定着してしまっている。正式な名称はあるはずだが、もはや誰も知る者はない。
森の西側の、オンボロ橋からはそう遠くない場所には『どんぐり池』という名の小さな池がある。ナラやブナの木に囲まれたその池には「どんぐり池にどんぐりを投げ込んで願いを言うと叶う」という、いかにも子供向けの伝説がある。そんなことで願いが叶えば誰も苦労などないのだろうが、その伝説にはさりげなく言い訳がついている。すなわち、願いの内容が『森の主のお眼鏡に適えば』という条件があるのだ。この逆さ虹の森の主は絶大な力を持つ天使とも悪魔とも言われており、主の心を動かさねば願いは叶わないと言うのだから、仕組みとしてはよくできている。願いが叶えば「伝説は本当だった」と言い、願いが叶わなければ「その願いは森の主の心に響かなかったのだ」と言えばいいのだから。
信じる者も信じない者も――信じる者は願いを叶えるために、信じない者は冷やかしで――どんぐり池は多くの動物たちが訪れる観光スポットとして人気は高い。有名スターがここで願いを叶えた、などという噂もまことしやかに流れ、観光客は近くに落ちているどんぐりを拾っては池に投げ入れ、願いなり欲望なりを池の水面にぶつけている。
ある日の早朝、とても観光客がいる時間ではないような時刻に、一人の若いヒョウの青年がどんぐり池を訪れていた。
「余命、一年、ですか?」
病院の診察室で、若いヒョウの青年がかすれた声で医者に問い返した。フクロウである医者は残念そうにうなずく。
「……病院にいらっしゃるのが遅すぎました。一年、いえ半年でも早ければ、治療の方法もあったのですが」
もはや手の施しようがないのだと医者は言った。ヒョウの青年の表情は血の気を失い、呆然と医者を見つめる。
「……家に、父がいるんです」
医者は急に父親の話が出てきたことに戸惑っているようだ。青年は急に立ち上がり、医者の両肩を掴んで強く揺さぶった。
「病気なんです! 一人で生活することはできないんです! 僕がいなくなったら、父はどうすれば――!」
「落ち着いて! 落ち着いてください!」
医者の隣に立っていたウサギの看護師が青年の腕を抑えて落ち着くよう声を掛ける。青年はハッと動きを止め、「申し訳、ありません」とうめくように言って席に着いた。
「動揺するのは分かりますが、あなたはしっかりとこれからのことを考えなければなりません。お父様のことも大切ですが、あなたの残り時間をどう過ごしていくのか、どう過ごしたいのか、まずはそれを考えていきましょう」
「はい――」
青年はポケットからハンカチを取り出し、額の冷たい汗を拭った。白地に花びらがあしらわれた上品なハンカチ。ウサギの看護師は意外な表情を浮かべる。ヒョウの男性が持ち歩くには不似合いな気がした。
「お父様のことは、お父様の主治医と話し合って今後の方針を決めてください」
「はい。ありがとうございます」
今後の治療方針の説明と同意書類の作成を終え、ヒョウの青年は医者に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
フクロウの医者は青年を力づけるように声を掛ける。
「余命はあくまで目安です。それを越えて生きていらっしゃる方もたくさんいる。絶望してはいけませんよ」
力なく微笑み、青年は再び頭を下げる。去っていく青年の姿を見ながらウサギの看護師はやりきれない口調で言った。
「あんなに、若いのに」
「若いから、だ。病気の進行が速かった。今の医学では、彼を救うことはできん」
医者はくちばしを引き結ぶ。看護師は目を伏せて唇を噛んだ。
勤務を終え、ウサギの看護師は帰路に就く。すでに日は落ち、病院前の道は帰宅者でちょうど混雑していた。この病院は『逆さ虹の森』唯一の総合病院であり、西側からも東側からもアクセスしやすいようメインストリート沿いにある。必然的に朝夕は自宅と職場を行き交う動物たちでごった返すことになる。この波の中に身を投じることに若干のためらいを覚えるほどには彼女は疲れていた。
(あのひと、だいじょうぶかな)
ぼんやりと、今日余命宣告の場に立ち会った青年のことを思い出す。同居する父親以外に縁者がないというあの青年は、余命宣告にひどく動揺していた。それは当然と言えば当然なのだろうが、気になるのは動揺している内容だった。彼は自分の余命がわずかしかないことに動揺していたというよりは、自分が死んだ後に残される父親の境遇に動揺しているようだった。治療方針は、とにかく痛みを抑えて動ける状態をできる限り長くすること。入院による緩和ケアも進めたが、まるで論外だと言わんばかりに拒否された。自分のことなどどうでもいいと、そう言わんばかりに。
「落としましたよ」
急に後ろから声を掛けられ、びっくりとして振り返る。声の主はどこかおっとりとした、金の毛並みにふわふわのシッポを持つキツネの女性だった。差し出されたハンカチを受け取って礼を言う。柔らかく微笑み、キツネの女性は去っていった。
「すっごい美人」
今まで見た中で一番と言っていい美しい毛並みにしばし見惚れた後、手許に目を落とし、彼女は「あっ」と声を上げる。渡されたハンカチは彼女の物ではなかった。慌てて周囲を見渡すが、キツネの女性の姿はどこにもない。毛並みに見惚れる前にハンカチを確認すべきだったと彼女はうなだれる。
「あ、でも、これ――」
彼女にはそのハンカチに見覚えがあった。ヒョウの青年が使っていた、肉食獣の男性には不似合いな可愛らしいハンカチ。これは彼のハンカチではないか。何か手掛かりがないかと彼女はハンカチを広げる。すると、中から一粒の小さな光がふわりと現れた。
「これは、灯り蛍?」
灯り蛍は別名『太陽虫』と呼ばれ、ランプよりもはるかに強い光を放つこともある蛍だ。夜を照らすその姿から神聖な虫とされ、迷えるものを正しき道に導くという言い伝えがある。彼女は表情を引き締め、灯り蛍に話しかけた。
「私を、導いてくれる?」
あの青年の表情が、態度が、気になっていた。その彼のハンカチを渡され、中から灯り蛍が現れたなら、きっとこれは天命なのだ。彼女はじっと灯り蛍を見つめる。灯り蛍は彼女の真意を測るように光を明滅させると、了承の証のようにくるりと輪を描き、滑るように移動を始める。彼女はそれを追いかけ、雑踏の中に身を投じた。
自宅へと戻り、ヒョウの青年は「ただいま」と声を掛ける。すると奥の部屋からきしむ音を鳴らしながら、車いすに乗ったひとりの年老いたヒョウが姿を現す。年齢にそぐわず、まるで幼児のような屈託のない笑顔で青年を迎える老豹の頭を撫で、青年もまた笑顔を浮かべた。
「お留守番ありがとう。お腹がすいたでしょ? すぐにご飯にするね、父さん」
父さんと呼ばれた老豹はこくこくとうなずく。もう一度父の頭を撫で、青年は台所に向かった。
父はかつて大学で教鞭を執っていた優秀な学者だった。周囲から尊敬を集め、教え子から慕われる立派な紳士であり、青年も、母も、そんな父を自慢に思っていた。穏やかで、しかし芯が強く、常に理知的だがユーモアもある。父は青年の憧れであり、目標でもあった。
ところが十年ほど前、父の様子が少しずつおかしくなった。同じ話を何度も繰り返し、繰り返していることに自分で気づかない。約束を忘れる、どころか約束したことそのものを忘れる。言葉遣いが乱暴になり、感情の起伏も激しくなった。かと思えば、突然表情を失ってぼんやりとしている。ついには仕事にも支障をきたし、勤めていた大学を辞めざるを得なくなった。しかし、そんな状態になっても、父は頑なに病院での検査を拒んだ。何もおかしくはない、年を取ってちょっと物忘れが激しくなっただけ。そう言い張り、父は病気の可能性を否定し続けた。母もまた、父が病気である可能性を受け入れることができず、父の今の状態を世間から隠すことを望んだ。
症状は進行の一途をたどり、やがて父は世話をする母や青年に暴言を吐いたり、突然かんしゃくを起こして暴力を振るうようになった。もはやふたりで抱えきれる問題ではないと青年は何度も母を説得したが、母は頑として外部に協力を求めることを許してくれなかった。自慢だった父の今の姿を世間に知られてしまうことをひどく恐れているようだった。
父の世話の困難は増すばかりで、母と青年の身体的、精神的疲労は覆うべくもないほどに降り積もる。父は自ら歩くことができなくなり、排せつも入浴も、日常のほとんどすべてに介助が必要な状態になっていた。周囲に気付かれぬよう車いすを手配し、家の段差を改修し、母と青年は互いに支え合いながら辛うじて父の世話を続け――ある日、母が倒れた。
「父さんを、お願い」
もはや限界をとうに超えていたのだろう、倒れた母はその言葉を青年に残してあっけなく天に召された。父は母がいなくなったことを理解しているのか、青年にはよくわからない。もはや父は、意味のある言葉さえ発することがなくなり、何かあればうなり声を上げるだけだ。時折誰かを探すように家じゅうを車いすで回り、寂しげに泣いている。その声を聴くたびに、青年は胸が締め付けられるような思いがする。
エプロン姿で包丁を手に、青年はじっとその刃をじっと見つめる。もし、今の状態の父を残して自分が死んだら、父はいったいどうなるだろう? 父のことを知っている者は自分の他に誰もいない。父も母も、外部の者にこの状態を知らせることを望まなかった。その思いを無視して、今さら父を他者に委ねることなどどうしてできるだろう。
「……そうであれば、いっそ――」
置いていくくらいなら、残されて寂しい思いをするなら、共に――青年は包丁を持ったまま、ダイニングで食事を待っている父のもとに向かった。青年が入ってきたことに気付き、父は嬉しそうに笑って手を伸ばす。
「あー」
青年がエプロンを付けて包丁を持っていれば、もう少し待つとおいしい食事が食べられる。それを知っている父は、包丁を持つ青年を恐れる素振りもない。何の計算も打算もない、全面的な信頼がそこにある。青年はハッと我に返る。何をしようとしていた? 今、自分は何を――
「できるわけ、ないよなぁ」
青年は座り込み、膝を抱えて泣いた。父はもう、暴言を吐くことも暴力を振るうこともない。ただ幼児のように、にこにこと笑い、食べ、眠っている。そのことが青年には何よりも辛かった。
「あー、あー」
泣く青年を見て不安になったのだろう、父も釣られたように泣き始める。青年は慌てて立ち上がり、涙を拭うと、
「ごめん、父さん。ごめん――」
包丁を置き、泣く父をあやし始めた。
灯り蛍に導かれ、ウサギの看護師はあまり訪れることのない東側の居住区域に足を踏み入れていた。草食動物である彼女がこの辺りにいること自体が場違いなのだろう、住民からはしばしば不審の視線を向けられているようだ。居心地の悪さを感じながら、彼女は灯り蛍を追う。灯り蛍は住宅密集地を抜け、あまり動物たちの気配のない郊外まで飛んでいく。
やがて彼女の前に、質素な木造の一軒家が現れる。灯り蛍はその家の玄関の前でくるりと円を描き、役目は終わったとばかりに天に帰っていった。彼女は小さくお礼の言葉をつぶやくと、緊張をほぐすように大きく息を吸った。
――コンコン
樫で作られた頑丈な扉は質実な印象を与え、家主の性格を伝える。一見するとシンプルな家だが、使っている建材は上質の物のようだ。もっとも彼女に建築の知識はないため「そう見える」程度の話に過ぎないが。「はい」と中からやや硬い声が聞こえ、玄関扉がかすかな軋みを上げて開く。半分ほど開かれた扉の隙間から顔をのぞかせたのはヒョウの青年だった。
「急に申し訳ありません。こちらのハンカチ、あなたのものではありませんか?」
彼女は青年にハンカチを差し出す。驚きを示し、青年はハンカチを受け取るとまじまじと見つめた。
「確かに、私のものです。わざわざ届けてくださったのですね。ありがとうございます」
にこやかに笑い、青年は頭を下げた。しかしその態度は明らかな警戒を滲ませている。なぜ住所を知っていたのか、ハンカチ一つのためにここまで来た意図は何なのか、そういう不審がはっきりと見て取れた。何かを隠しているひとの目――笑顔を浮かべても、お礼を言うときも、青年は常に周囲を拒絶するような目をしている。
「あの――」
ハンカチを渡して目的を遂げたはずの彼女が帰ろうとしないことに、青年は訝しげな表情を浮かべる。彼女は軽く息を吸い、勇気を振り絞るように言葉を口にした。
「私は総合病院で看護師をしている者です。今朝、あなたの診察にも立ち会っていました」
ああ、と思い出したように青年はうなずく。どうやら気付いていなかったようだ。もっとも、こちらの正体を知ったからと言って警戒が緩むものでもないらしい。
「看護師さんが、私に何か?」
言外に「こちらには用はない」ということを強く滲ませ、青年は彼女を冷たく見つめる。口の中が乾くのを感じながら彼女は答えた。
「我々医療者の仕事は単に病気を治療することだけではありません。患者様の周辺環境も把握し、病気に影響する様々な要因を分析してケアを行うことも、我々の業務の一環です」
彼女の持って回ったような言い方に、青年の表情に苛立ちが混じる。何が言いたいのかはっきり言え、とその目が語っていた。彼女は再び息を吸う。緊張が全身を駆け巡った。
青年の態度が、ずっと気になっていた。自分の余命が宣告されたというのに、彼が心配しているのは父のことばかりのようだった。にもかかわらず、彼は父のことをこちらに相談しようともしない。「父のことは父の主治医に相談します」と言って何も教えてはくれない。そのちぐはぐさが気になっていたのだ。なぜならそれは、身内に認知症患者がいることを隠してひとりで解決しようとしているひとに見られる態度だったから。
「お父様に、会わせていただけませんか?」
青年の顔の険しさが一気に増す。閉まろうとする扉に彼女は手を掛けて阻止する。青年が明確な憎しみを込めて彼女を見た。彼女の背を冷たい汗が伝う。
「帰ってください」
短い言葉が青年の怒りを伝える。彼女は勇気を振り絞って青年を正面から見つめ返した。
「お父様は本当に医師の診断を受けていますか? 日常動作の中で介助が必要な割合はどの程度ですか? 持病などお持ちではありませんか?」
「あなたにそんなことを教える必要はない!」
青年が扉を閉めようとする力を強める。手が挟まりそうになっても彼女は扉から手を離さない。青年は隙間から手を伸ばし、彼女を突き飛ばした。「きゃ」と小さく悲鳴を上げ彼女は尻もちをついた。
「帰れ!」
乱暴な音と共に扉が閉じる。彼女はすぐさま立ち上がり、閉ざされた扉に縋って叫んだ。
「あなたはどうですか? どうやって生計を立てていますか? 眠れていますか? 自分の時間を取れていますか? 何もかもをすべて家族が抱え込むような時代じゃない。公的な支援も昔に比べれば遥かに充実しています。頼っていいんです。頼ってください!」
彼女は強く扉を拳で叩いた。
「独りで苦しまなければならない時間は、もう、終わったんです!」
扉の向こうから返答はない。彼女はうつむき、唇を噛むと、「また来ます」とつぶやいて帰路に就いた。
閉めた玄関扉に背を預け、ずるずると崩れるように座りこむ。突然現れたウサギの看護師は、言いたいことだけを言って帰っていった。抱えるな? 頼れ? 今日会ったばかりであの女は何を言っている?
「……今さら、偉そうに」
助けるというのなら最初から助けろよ。そうすればきっと、母はもっと長生きできていた。自分も将来を諦めずに済んだ。それを今さら、頼ることが正しいなんて言われてももう遅いのだ。それは家族で戦ってきた時間を否定するただの傲慢にすぎないのだ。
「……今さらだ。今さら――!」
玄関先で身体を丸めたまま、青年はずっと、泣き続けた。
朝靄の中に眠るどんぐり池は、願いを叶えるという伝説を生んでもおかしくないほどに神秘的な光景だった。ヒョウの青年は水面を見つめる。透明度が高く、ずっと奥まで見通せるはずなのに、その果てを見通すことはできない。伝説によれば、この池の奥は『逆さ虹の森の主』の館につながっており、森の主は願いを掛けに来る者を監視しているのだという。叶えるにふさわしい願いかどうかを判定するために。
「バカらしい」
自虐的につぶやき、青年は足元に落ちていたどんぐりを拾った。バカらしいと言いながら伝説に沿って願いを掛けようとしている自分自身が滑稽だった。こんなことで願いが叶うならこの世から不幸などとうに消えてなくなっている。どう考えたってこんなものは観光客向けの作り話だ。
青年はどんぐりを一粒、池に投げ入れると、両手を合わせて祈った。
「……どうか、僕が死んでも、父が幸せでありますように」
静謐の中、静かな祈りだけが池に広がる。いつの間にか木の枝に止まっていたカナリアだけがその祈りを聞いていた。
余命宣告から一週間が経ち、経過を見るための検査を行った青年は、その結果に拍子抜けしたような顔でつぶやいた。
「病気が、消えた?」
驚くべきことに、先週まで青年の全身を蝕んでいた病の影は、今日になってどこにもなくなっていた。まったくの健康体、むしろ平均的なヒョウよりも健康と言っていい。
「誤診?」
「いやいやいや」
フクロウの医者はぐるぐると首を回して青年の言葉を否定する。
「先週の段階では確かに影はあった。それは間違いない。だが今日には消えている。奇跡か魔法かわからないが、とにかくそういうことだ」
健康体である以上、もはや病院に用はない。何か言いたげなウサギの看護師の視線を振り払うように立ち上がり、青年は診察室を後にした。
森の東側、主に肉食獣が住まう住宅街を抜け、青年は自宅への道を歩いている。余命を宣告され、残りの時間をどうすべきか、何も結論は出ていなかった。残された父をどうすればいいのか、その答えを出す必要がなくなったことに安堵する。しかしそれは、これからもずっと彼が父の面倒を見続けるということに他ならない。ふと、自分の病が消えた奇跡の原因に思い至り、青年は思わず苦笑いを浮かべた。
「自分でやれってことかよ」
どんぐり池で願ったのは、自分がいなくなっても父が幸せであること。しかし森の主はその願いをそのまま叶えず、青年の病を消した。それが意味するとこはつまり、父の幸せの責任を負うのはお前だと、森の主が判断したということなのだ。歩く青年の視界に自宅が映る。あの中で父が待っている。今までと変わらない日常が続く。これからも、ずっと。
――パタパタパタッ
羽音を立てて青年の前をカナリアが横切る。驚いて足を止めた青年を見下ろす位置にカナリアは止まり、感情のない瞳で青年を見る。
「ココロセヨ! ココロセヨ!」
カナリアは鋭い声で警告する。
「汝ナクシテ父ノ幸セハアラズ!」
警告するその声にも、瞳と同様感情はない。カナリアは機械的に言葉を繰り返す。
「汝ナクシテ父ノ幸セハアラズ!」
伝説によれば、カナリアは森の主の『声』なのだという。つまり、やはりそうなのだ。森の主は父の幸せの責任は青年にあると断じたのだ。青年は虚ろに笑った。カナリアの瞳にわずかな熱がこもる。
「汝ノ幸セナクシテ父ノ幸セハアラズ!」
青年はハッと目を見開いた。汝の幸せなくして? 青年自身が幸せでなければ父の幸せもないと、カナリアはそう言っている?
「あなたは考えなければならない」
いつの間にか、カナリアが止まる木の下に、黄金色の毛並みの美しいキツネの女性が立っている。いつ来たのかまるで分からない。さっきまでは確かに、そこには誰もいなかったのに。青年はキツネの女性を見る。
「あなたが生かされた理由を。あなた自身の未来を」
びゅう、と強い風が吹き、砂埃が舞う。青年は思わず腕で顔を覆った。風が止み、キツネの女性もカナリアも、すでにそこに姿はない。青年は呆然と彼女らがいた木を見つめる。
「僕の、未来――」
そんなものがあるということを初めて知ったように、青年はそうつぶやいた。
――コンコン
樫の扉を叩き、ウサギの看護師は緊張をほぐすように息を整えた。あれから仕事の合間を縫って調べたが、やはりあの青年の父親をケアしている医療関係者は見つからなかった。彼女がフクロウの医者に相談すると、返ってきた一声は叱責だった。
「抱え込もうとしているひとをさらに追い込むような言い方をしてはいかん!」
彼らの今までの時間を否定するような物言いは、彼らを頑なにするばかりだ。彼らにまず必要なのは共感と労りなのだと、フクロウの医者は彼女を諭した。そして知り合いのケアマネージャーを紹介してくれた。医療面でのサポートは彼女にもできるが、介護や福祉に繋げるにはケアマネージャーの専門知識が必要なのだ。今日はケアマネージャーとふたりでここを訪れている。
「はい」
以前よりもほんの少しだけ角が取れた印象の声で、ヒョウの青年が玄関扉を開ける。
「あ、あの……!」
青年を目の前にして、彼女はうまく言葉を発せられない。無関係だろうと言われればその通りだ。何の関係もない。言いよどむ彼女を青年は驚いたように見つめ、そして、わずかに微笑んだ。
「……私たちを、助けていただけますか?」
青年はまだためらいを含んだ声で彼女に言った。
「もちろん!」
彼女は即答する。そして、胸に手を当て、その言葉が本物であると示すように真摯な表情を青年に向けた。
「私たちは、そのためにここに来ました」
中へどうぞ、と青年は促す。彼女は小さく頭を下げ、ケアマネージャーと共に家の中へと入っていった。