瓶の中で
昭和五十六年、夏。茹だるような暑さの中、その年に高校に入ったばかりの私は学校の友人と解体作業のアルバイトをした。これはそのとき体験した出来事である。
解体作業の現場は広尾にある大型病院の廃墟だった。バリケードで封鎖された広い敷地内には幾つもの廃病棟が建ち並んでいる。建物はどれも汚く、中は気味が悪いほど薄暗かった。当然のことだが、人の気配は感じられない。
そこでは数社の解体業者が仕事を請け負い、各々の作業に勤しんでいた。重機で建物を壊す者がいれば、コンクリートの残骸を運び出す者もいる。私たちに与えられた仕事は、まだ破壊されていない病棟内で出た木材を撤去することだった。
廃病棟の中は湿気でじめじめしていて、黴のキツイ臭いが鼻をつく。仕切りこそなかったが、そこがかつて病室だったことは、汚いシーツで包まれた四つのベッドが証明している。
よく見るとシーツには所々に黒い染みが付いていた。それが血の痕であることは容易に察しがつく。
ベッドのそばの壁を見る。そこには雑誌から切り抜かれた当時のアイドルらしき男性の色褪せた写真が貼られていた。このベッドに寝ていたであろう患者は若い女性だったのではないだろうか。
歩けば軋む木の床の片隅には古ぼけた新聞紙が捨てられている。それは昭和四十年代前半のもので、テレビの番組欄を見たが知っているような番組はなかった。それもそのはずだ。当時、私はまだ二歳か三歳だったのだから記憶に残っているわけがない。
それから現場監督の号令で解体作業が始められた。作業員たちは一斉に床を剥がし始めた。その剥がされた木片を外に止まっているトラックの荷台へ運ぶのが、私たちバイトの役割だった。単純な作業だが、長い時間続けるとさすがに足に気怠さを感じる。
午前十時の小休憩には一人一人に配られたコーラを喉に流し込む。頭の毛穴なら滝のように汗が流れ落ちた。首に巻き付けたタオルは既に大量の汗を吸い、もはやその役目をなしていない。
昼休みには友人とまだ壊されていない廃病棟の中で弁当を広げた。建物自体は破壊されてはいなかったが、その中は仕切りも撤去され、そこがかつて何の部屋だったのかさえ分からない。確かに廃病棟の中は涼しかったが、薄暗く、やはり黴の臭いが鼻について食欲も失せる。
昼休みが終わればあとは三時の小休憩を待つばかりだった。このような作業行程を繰り返す日々である。
バイトは二週間の契約だったが、そこでの作業が早めに片付き、契約期日の一日前に最終日を迎えた。
その日は朝からどんよりと曇り、気分的にも清々しいとは言えない日だった。私たちはいつも通り解体された木材を運び出していた。
「今日は昼までに仕事が終わるから早く帰れるぞ」
現場監督が微笑みながらそう言う。午後からパチンコへ行くのだそうだ。
一通り現場が片付き、そろそろ帰る準備を始めようとしたときだった。
「瓶詰めの赤ん坊が出たぞ」
どこかで他の業者の作業員の声が轟いた。私たちは慌ててその声のする方へ向かう。
赤ん坊は小さな瓶の中でまだ臍の緒が切られていない状態でホルマリン漬けにされていた。
それを発見した作業員は瓶に顔を近づけ、そこに貼られたラベルを読む。
「昭和四十年生って書いてあるぞ」
私と同じだ。
これまで人の運命に関して考えを巡らせたことなど一度もない。だが、その瓶詰めの赤ん坊を目の当たりにして初めて人の生死を別けるものはいったい何なのか、という疑問にぶち当たった。
その赤ん坊は私と同じ年に生まれた。当然のことであるが、生きていれば私と同年代である。しかし、私はこの十六年の間、何不自由なく育てられ、学校へ通い、夏休みを精一杯楽しもうと、その資金を稼ぐためにバイトをしている。一方、その赤ん坊は母親の胎内から出るや否や何らかの理由で瓶の中に閉じ込められた。荼毘に付されることもなく、十六年もの間、そこで容姿を維持し続けた。そして、人々の記憶から消え失せたのだ。この違いはいったい何なのだろう。
そのとき私の頭にふと浮かんだ一つの仮説があった。それはもしもその赤ん坊と私が入れ替わっていたら、というものである。私は狭いビンの中でこの黴の臭いと共に、長い時間を過ごさなければならない。そして、いつしか誰からも忘れられてしまう。
たとえようのない惨めさが私の胸に迫ってきた。
昼を知らせるベルが鳴り響く。
「飯前にとんでもねえもの見ちゃったな」
作業員はそう言うと、持っていた瓶を地面に置いた。