Episode:89
そんなことを思いながら、どのくらい見ていたのだろう? シルファが刃を下ろした。置いてあったタオルでも取ろうとしたのか、こちらに背を向ける。
息を弾ませる姿を綺麗だと思いながら、近づいた。
彼女のほうは、気づいた様子はなかった。タシュアがいつものように気配を消しているのと、まさか誰かいるとは思っていないのとの、両方だろう。
その彼女が、振り向いた。
驚きに声が出ない、そんな表情。
「今日はもう、終わりですか?」
なんと言ったらいいか分からなくて、そんなことを言ってみる。
「ああ。いつから……そこに?」
また怒るかと思ったが、意外にもシルファはごくふつうに反応した。暴れるだけ暴れて、すこし落ち着いたのかもしれない。
「先ほどから」
言ってから、夕方のカレアナの言葉を思い出して、付け加える。
「強くなりましたね」
シルファが先程とは違う驚きを見せた後、下を向いた。
――心配しているとおりかもしれない。
彼女の反応を見て、そう思う。
ただ褒められて喜んでいるのなら、いい。素直な反応をそのまま見ていられる。
けれどシルファの場合、やはりトラウマの穴埋めという意味合いが大きくて、自身の意思や感情と乖離している気がするのだ。
これを、放っておくわけにはいかない。
「シルファ、話があります」
意を決して言う。
この話をしたら……彼女を傷つける結果になるかもしれない。少なくとも、過去の傷口をえぐる可能性は高い。
だがこのままにしておけば、いつかシルファは、もっとひどく傷つくだろう。
「話……?」
何かを察したのか、不安そうな彼女にタシュアは言った。
「夏の終わりとは言え、汗に濡れた服では風邪をひきます。屋敷に戻ってからに」
「あ、ああ……」
彼女がざっと汗を拭き、サイズ(大鎌)をブレスレットに戻すのを待ってから、歩き出す。
砂浜に響く、砂を踏む音を聞きながら思った。
出会った頃は、いつも自信なさそうにしていたシルファ。たが少しずつ、着実に変わっていった。
上級傭兵になってからは、いくつも任務をこなし、後輩たちの指揮も執るようになったせいか、急速に伸びていると思う。
話を聞く限りでは、友人も増えつつあるようだ。
だとすればトラウマの克服は、もう一息なのかもしれない。
――それならば、なお。
自分のそばから一歩踏み出せば、彼女の世界が広がり、拓けていくのではないか? そんなふうにも思う。
もしかすると既に、シルファは立派に独りでやれるのかもしれない。それならばタシュア自身が、彼女の回復を邪魔していることになる。
(どれが事実なのでしょうかね)
もっとも、分かれば苦労はしない。そもそも人の心というのは、そんな単純なものではない。