入学二日目
私が住むことになった学院の女子寮は、学院から徒歩15分の立地にある。
ルームメイトの同級生は、事情通という地方の子爵家の次女だった。
何のことはない。ただゴシップ好きでおしゃべりなだけのどうしようもない女が、事情通を自称してるだけ。
元々の性格がそうである上に、帝都住まいでのぼせ上がって、情報とすら呼べないただの悪口を嬉々として垂れ流して続けていた。
「ここの生徒会長はロメイン侯爵家の令嬢だけど、そのバックで操ってるのはアイヴィ侯爵家ですって。
ほら、アイヴィの次期当主の奥様がロメインの、ね?まったく意地汚い」
「三年にいるスウィード伯爵の長男、クラスメイトの平民の女子とかなり仲が良いみたいね。
将来まで考えてるのかしら。身分違いのロマンスなんて、ねえ?」
「サンフィニアには近づいちゃ駄目よ。あんな見た目だけで中身のない女。
いくら実家が宝石商だからって、アクセサリの話ばかりで能がないったら」
机で予習に没頭している私に向かって、馬鹿はベッドに寝転んだままペラペラ口だけを動かし続けている。
馬鹿としか呼びようがない。
真偽不明の人の悪口というだけで無意味で不愉快だが、そもそも私は入学初日、入寮から数えてもまだ三日目だ。
寮内の人間関係すら把握しきってない人間にそんなことを延々聞かせ続けて、一体何をどうしようというのか。
価値のない戯言を聞き流しながら勉強するのは古本屋の書庫で馴れている。
馴れてはいるが、それでも出来れば静かな方がいい。頁をめくる音や鉛筆の音以外は率直に言って邪魔だ。
「もう学習室が使えない時間なんだ。自習させてくれ。捗らない」
一枚だけオブラートに包んで「黙れ」と伝える。私にしては気を遣った方だ。
馬鹿は言われた通りに黙った。そのまま手元の本を読み始め、やがて眠りについた。
私は馬鹿が寝た後も予習を続け、日付が変わってしばらくしてから布団にもぐりこんで、数十秒で就寝した。
寮のベッドは、今まで味わったどの寝床よりも暖かい。
13歳の冬の終わり。
貧民街の古書店が全壊し店主が死亡した事件は、どの報道機関からもニュースとして発表されなかった。
「一度汚された女なら何度でも」と被害者が再び狙われるのを防ぐため、強姦関連の事件には罰則つきの報道協定が設けられていると知ったのは、それよりずっと後のことだった。
だが、突如として貧民街に現れた有望な魔導士候補生の情報を、国は見逃さなかった。
ある日突然、魔導学院の職員が突如私の元を訪れた。
用件は、特待生としての私のスカウト。しかも現時点から卒業までの全生活も支援して、学力が足りないなら専属の家庭教師までつけてくれるという、破格の申し出。
透かしの入った職員証を見せられ、学院側から金銭を要求することは一切ないと説明されなければ、詐欺と頭から疑って話を聞かなかったに違いない。
それほど常識外れな、貧民街の娘に対して提示するには異常とすら言っていい条件だった。
現代社会において魔法はあらゆる分野に用いられ、深く根付いている。
軍事。科学。農林。漁業。建築。製造。鉄鋼。運輸。逓信。
程度の差こそあるものの、産業によってはもはや不可分といっていいほど密接な関係を持っていることもある。
そのため、魔法適性の高い専門技術者即ち魔導士の発掘と育成は、何十年も昔から慢性的な社会的急務となっている。
国立魔導学院は、その急務を担う代表機関のひとつだ。
この帝都にある12歳から18歳まで六年制の高等学校で、試験に合格さえすれば身分性別を問わず入学でき、下手な大学よりも権威と実績がある。
卒業生の大半は様々な分野で国の発展に寄与していると言われ、中には歴史に名前を刻んでいる人間も少なくない。
私は知らなかったが、一撃で家屋を破壊し尽くせるほどの魔導士は、それだけでどの分野でも将来が約束された貴重な存在だという。
その貴重な存在が、教育を一切受けず独学で魔法を覚えた13歳の少女というのだから、警察も学院も度肝を抜かれた。
名目上こそスカウトだが、実態は緊急保護。
一般的な貴族や平民なら多少はアプローチが遅れても比較的とはいえ問題はないが、生活が逼迫している貧民だと裏社会や他国が一気に釣り上げて囲い込んでしまう危険性が高い。
何を差し置いても手元に確保し教育しなければ、最悪の場合亡国の危機となる。そんな切迫した事情が彼らにはあった。
私としては、衣食住が保証されてまともな教育が受けられ、何より新しい人生を歩めるなら、何であれ拒む理由はどこにもなかった。
話はその場で決まり、私は父に「家を出る」と簡単な書置きだけ残して、日が暮れるより早く貧民街を後にした。
もう二度と戻るつもりはなかった。
翌日から、当てがわれた住居や魔導学院で様々なテストを受け、現在の私の状態が知れた。
学力は、外国語がかなり弱く、総じて見ても同年代の平均より相当遅れている。ただ、11歳からの完全な独学でこの水準はむしろ驚異的だと言われた。
体力は、トレーニングの成果か同年代の平均を上回る運動能力を誇り、頑張れば体育学科にも入れるかもしれない言われた。
そして肝心の魔力は、たった一言こう言われた。
「桁外れ」
風魔法を重点的に鍛えていたせいで技術等に偏りがあると自分では思っていたが、彼らに言わせると「四大魔法全てのレベルが高く特に風魔法が飛び抜けている」「隻眼の影響か精度が多少粗い以外に欠点は何もない」らしい。
魔力測定用の水晶を一瞬で白く濁らせ、突風で飛ばした石礫で的を貫通させた時の試験官の引きつった顔を見て、自分の魔法の才能に疑いの余地はないと初めて実感できて嬉しかった。
そうして、数日間にわたって行われたテストを分析した結果。
今の状態で魔導学院に入学させても、魔力と体力はともかく学力面でついていけない可能性が高い、との結論が導きだされる。
しかし意欲と学習能力は高い。なのでまずは家庭教師をつけて学力を向上させ、15歳での第四学年への編入を目指すことになった。
そこからの生活については、あまり語ることはない。
およそ一年、働かずに勉強と運動と魔法の鍛錬を繰り返していた。それだけ。
栄養状態が改善されてよく眠れるようになったおかげか、自分でもわかるぐらい生気あふれる大人びた顔つきになり、髪には生まれて初めて艶が出た。
背も伸びて腰つきは更に女らしくなった。胸は全く大きくならなかったが、そういうこともある。
事件と呼べるものはない。
数学担当の家庭教師が下心丸出しで接するようになって、犬みたいに後ろから押し倒そうとしてきたのを、落ちるまで水魔法で鼻と口を塞いで気付けに顔を焼いたら、翌日から担当が変更になったぐらいのものだ。
父は貴族籍を捨てた。
詳しいことは聞かなかったが、学院側が何らかの交渉を行い、少なからぬ酒代ならびに帝都からの引越し代と引き換えに、その道を選ばせたという。
これによりカナリーの籍にいる者は私ひとりだけになり、男爵位は成人を待って私が継ぐことになった。
領地も恩給もない名ばかりの、階級として最低に近い爵位だが、あって困るものじゃない。どうしてもいらなくなったら売ればいいだけだ。
また父が籍を捨てるにあたって、私にも新しい籍を用意してくれるという申し出があった。
将来何らかの分野で成功したとして、親類や友人を名乗る者が、明け透けな言い方をすればたかりに来るかもしれない。
場合によっては、学院に在籍しているうちから唾をつけておこうと寄ってくる可能性も否定できない。
であるから、望むなら私も平民の孤児や誰かの養子になって、過去を全て捨てて生まれ変わっていい。
そこまでしたくないなら今の籍のまま偽名や通名を使っても構わない。いずれにしても来歴を探られないよう国の責任で配慮する、と言われた。
非常にありがたい話だったが、全部断った。
顔の傷が消せない以上、書類の上で過去を消しても意味がない。知っている人間が見れば必ず気が付く。
その時に過去を隠していると、馬鹿はそれを掘り返して必ず調子に乗る。ならば最初から隠さずにいた方が対処が楽だ。
私はジルコニア・カナリー。それでいい。
入学二日目の朝。
規則通りに寝具を整えて、食堂で朝食を食べて学校に入り。
教室での点呼が終わった後、編入生クラスは全員、射撃訓練場に集められた。
敷地の隅にある、体育館に併設された堅牢な石造りの平屋建て。その中に射撃レーンが五つ。魔法を射つ訓練に用いられている施設だ。
一年前に連れてこられた時と比べてレーンがひとつ増設されていたが、一番奥の新レーンは外から見えないよう隔離された造りになっており、
無許可立入りを禁ずと書かれ厳重に封鎖されていた。特別な用途に用いられるものなのだろうか。
そんなことを考えていたら、担任がレーンのひとつに立って説明を始めた。
「これから編入生諸君の出力を測定する。
魔力は入学前の検査で既に測定されているが、今回見るのは、それをどこまで魔法として放出できるかだ。
レーンに注目。天井に7歩間隔で12本鐘が掛かっていて、そこから吊り下がったロープが一直線に並んでいるだろう。
その一直線の縄に向かって真っ直ぐ風を放ち、出来る限り遠くの鐘まで鳴らせ」
そう言って掌をかざし、軽く風魔法を発動して手本を見せた。
手前の二本が大きく揺れて勢いよく鐘を鳴らし、その奥の二本は小さく揺れただけで音はせず、それより後は全く動かなかった。
「注意しておくが、ただ真っ直ぐ風を放つだけだ。風球や旋風、竜巻を作って距離や威力を稼ぐのは認めない。その場でやり直しだ」
さて、誰からやる?
担任がそう言うと同時に、私は挙手した。
昨日の中庭でのエミリア・ヴィンチたちとの諍いで、私の存在は否応なく知られてしまった。
そうでなくとも特待生入学であり、しかもこの顔の傷がある。どうやっても名前が売れてしまうことは避けられない。
ならば、先んじて思い知らせてやる。
手折られるから咲くな。打たれるから頭を出すな。そんな処世術が私を守った試しなど一度もないのだから。
全員が注目する中、私は体内で魔力を循環させながら、レーンに立った。
魔法とは、体外から取り込んだ自然の魔力を体内に巡らせて体内の魔力と混ぜ合わせ、火水風土のいずれかの形で放出する技術体系。
取り込めるマナの分量が多いほど、持ち前のオドの容量が大きいほど、マナとオドを適切に混合できるほど、魔法の威力は上がる。
臍の下から正中線を通して頭頂まで上げた魔力を、背骨に沿って骨盤の下まで下ろし、また臍の下に戻す。これが魔力循環の1サイクル。
最初に、ひと呼吸で1サイクル。それを吸って1吐いて1の2サイクルに増やし、一気に回転数を上げて、ものの数秒で音の速さまで。
掌が熱を帯びて、瞳に力が入る。頭は沸騰寸前の熱湯のように静かに澄み、視界は横にも縦にもクリアに広がった。
真っ直ぐな風をイメージする。何者にも曲げられない、何物にも遮れない、剣のように真っ直ぐな突風を。
そしてイメージと同時に、マナを解き放った。
鐘は、ひとつも鳴らなかった。
奥まで届いた風は壁で弾け、室内を吹き荒ぶ暴風となった。
空気を震わせ、内壁を擦り、備品を叩き落す轟音に何もかも掻き消され。
狂ったように揺れる鐘の音を、誰も聞くことができなかった。
風が消えた後、担任もクラスメイトも、言葉を失って物音ひとつ立てなかった。
いきなりの突風によろめかされ、備品の大半が一度に吹き飛ばされ、全員何が起こったのか理解できない顔で私に注目していた。
前髪が風でめくれて傷が露わになっていたが、私は全く気にならなかった。
心の中で呟いた。
見たか。
これが私だ。ジルコニア・カナリーだ。
見ろ。
私には怖れるものも失うものもない。
お前たちが私の敵となるなら。
くだらない悪意を向けるなら。
容赦なくこの力の標的にしてやる。
貴族や平民のお行儀のいい駆け引きなど。
物理的に死んでしまえば根本的に無意味だと思い知らせてやる。
見ろ。恐れろ。
私が、ジルコニア・カナリーだ。
授業を終え、寮で夕食を摂って机に向かっていると、ルームメイトという名のゴシップ女が戻ってきた。
私と違って寮生活四年目で緊張感が薄いのはわかるが、それでも進級早々に門限近くまで遊び歩くのはどうなんだと思った。
「あなた、酷い噂が流れてるわ。大丈夫?」
ゴシップは帰室の挨拶すらなく、鞄を床に投げ出してベッドに腰掛けると、いきなりそう切り出した。
曰く。
ジルコニアなんて宝石もどきの名前、よっぽど育ちが悪いに違いない。
カナリーなんて男爵家聞いたこともない。どこの成金が爵位を買ったのか。
あんな醜い傷をこれみよがしに見せつけて、同情を買いたいのが見え見えだ。
どこの娼婦かと見間違えるほど、男を誘うようなだらしない腰つき。
髪も目も真っ黒で本当に気持ち悪い。
ヴィンチ伯爵家の令嬢と揉めるなんて世間知らずもいいところ。
仮にも貴族を名乗っているのに見境なく人に噛みついてみっともない。
人より魔法を使えるのを鼻にかける嫌な奴。だから友達がいないんだ。
ひとつ話題を挙げる度にゴシップは「いくら噂好きの貴族だからって、こんな悪口を言うなんてみんなあんまりよ」と、尖り曲がった唇でわざとらしく嘆いて見せた。
───ああ。
こんな女、貧民街で腐るほど見た。
誰かがこう言っている、私は義憤からそれを教えてあげてるだけというポーズをとって、面と向かって人を罵倒する人間の屑。
人の悪口を言い募ることで味方面をして、誰にでもいい顔をして取り入ろうとする女の腐ったような女。
そんな心根を見抜かれて誰ともまともに付き合ってもらえないのに全く気づかず、自分では広い交友関係を上手く立ち回ってるつもりの筋金入りの馬鹿。
油虫と同じだ。汚くてちっぽけでカサカサやかましい、ただ不快なだけの存在。
「五月蠅い」
「えっ?」
「私が何をしているのか見えないのか。君が遊びとお喋りに熱中するのは勝手だが私の邪魔をするな。
くだらない噂話なら布団に頭を突っ込んで窒息するまでやっていろ」
叩きつけるように机に辞書を置く。
「不愉快だ」
背中越しにゴシップの顔が固まるのが分かった。
この手の馬鹿は決まって気が小さい。少し凄んだだけですぐ怖がって動かなくなる。
いや、すぐ動けなくなる気の小さい馬鹿だからこそ、噂を集めることに心を腐らせるしかできないんだろう。
救い難い。
だがこのお貴族様は、中途半端に頭が良いせいか、ここで黙っていられるほど物分りが良くなかった。
「なによ!親切で教えてあげてるのに!知らないからね!貴族の怖い人たちにいじめられても!」
悪意のこもった捨て台詞。その声色には屈辱のニュアンスが入っていた。
子爵令嬢で事情通の私が心配してやったのに。貴族かどうかも疑わしいお前ごときが生意気な。身をもって己の浅はかさを知れ。
そう思っているのがありありと窺えた。
滑稽極まりない。
この女の思いつく恐るべき苦境は、たかが「貴族にいじめられる」程度なのか。
人を殺せる魔力を持つ私に。貴族社会にいたこともない私に。生まれた時から地獄しか知らない私に。
たかがその程度のことが耐え難いダメージになると、本気で思っているわけか。
徒党を組んでも囀るしか能のない、殴りにも犯しにも来れない御嬢様方の、いったい何が怖いというのか。
私は立ち上がり、ゴシップの投げ捨てた鞄を手に取って、膝の上に置いてやった。
戸惑いを浮かべて見上げる顔に、ゴミを見る目で言い放つ。
「学習室でもお友達の部屋でも何処でもいい。出て行け。消灯まで帰ってくるな」
明確にぶつけられた敵意に、馬鹿は今度こそ完全に固まった。
息を詰め顎を引いて俯く。出来の悪い子供がよくやる、思考力を落とし嵐が過ぎるまで全てを聞き流す態勢。
貧民街でよく見た。死んだ兄も街で大人に叱られる度にやっていた。
私は再び机について鉛筆を取った。
黙ったのならそれで十分だ。馬鹿が何処へ行こうと行くまいと、私はここで静かに独習さえできればいい。
ゴシップはこの後、言われた通りに鞄を持って部屋から出ていった。
消灯時間を過ぎて私が布団に入ってからこっそり戻ってきたが、どうでもよかった。