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ジルコニア・カナリーの生い立ち

寒い冬を耐えれば必ず暖かい春が来ます。

洪水を凌いだ次の年には肥沃な土が豊穣を生みます。

辛いでしょう。悲しいでしょう。

ですが、耐えましょう。頑張りましょう。

神は乗り越えられない試練を与えません。

人の世の試練に寄り添うために、聖職者がいるのです。

神の愛は、あなたがた貧しい者を見捨てません。

諦めず生を全うしましょう。それが神の子たる我らの使命なのです。


───炊き出しの場でそんな説教をしていた聖職者は、間もなく人身売買と幼児買春で流刑になった。

ああやっぱりな、としか思わなかった。

子供の演劇の方がましなぐらいわざとらしいポーズと言葉遣い。

説教し終わるまで安い粥すら食べさせない上下関係の刷り込み方。

何より、初めて私を見た時のぎょっとした不愉快そうな顔。

明らかに不快感を噛み殺した真剣な顔で「苦労されたのですね」と言われて、誰がこんな物体を善人だと思うのか。


この世に愛などない。

「いいえそんなことはありません、可哀想な貴女には見えないだけです」

そんな綺麗事を口にする人間が、私の過去を聞いて同じことを言えた試しはない。




私、ジルコニア・カナリーは、カナリー男爵家の長女に生まれた。

地元の貴族の困窮に目をつけた商家が、若き当主の妻にと妾腹の末娘を送り込んだのが、両親の馴れ初め。

どちらにとっても望まない縁談だったのだろう、結婚直後から夫婦仲は目に見えて冷えていたと聞く。

それでも義務として子供を作り、結婚して一年と少しで私と双子の兄が生まれた。

跡継ぎである兄の誕生はそれなりに喜ばれたが、私は最初からただの付属品扱いだった。

付けられた名前でわかる。模造ダイヤモンド(ジルコニア)。私には誕生の時にすら愛も祝福もなかった。


それでも名前を呼ばれるならまだ幸せだ。

家族はそれすら億劫がって、私に用がある時は「おい」と呼びつけ、話題にする必要がある時は「あれ」と呼んだ。

あまりに本名を呼ばれないものだから、6歳まで自分の名前がジルコニアだという自覚がなかった。

そして図鑑でジルコニアという宝石を調べて、私の心は死んだ。

私の生は、私の存在は、誰にも望まれていなかったと知った。

母は、双子を出産したことで一時危篤状態になり、その恨みを晴らすかのように私を虐げた。

叩かれて泣けば泣きやめとまた叩かれ、泣くのをこらえれば可愛げがないとまた叩かれる。

父は嘲笑を浮かべながらそれを眺めるだけ。兄に至っては母に責められる私を横から蹴り倒し、ちゃんと立って叱責を受けろと楽しそうに怒鳴った。

文字と言葉を教わった以外、あの家族から何かをしてもらった記憶は何ひとつない。



8歳の時、地元の寺院に新任の聖職者が派遣されてきた。

母に殴られて青くなっていた私の頬に目を留め、何があったのかと熱心に聞いてきた。

聞かれるまま、家族からされていることを詳らかに話した。

彼は目に涙をためて「おつらかったでしょう」と抱きしめてくれた。初めて触れた人の優しさに私は泣いた。

その夜、私は母に殺されかけた。聖職者は両親に私を虐げるのをやめるよう説教し、母は私が密告したと知って逆上したのだ。

腹を蹴られ続け血混じりの吐瀉物を幾度も吐いた。革のベルトで数えきれないほど背中を打たれ涙も声も涸れた。

冷水を張った浴槽に頭から何度も沈められその度に謝罪を強要された後、朝まで浴室に閉じ込められ、高熱を出して四日間動けなくなった。

四日の間、罰として食事は最低限しか与えられなかった。

五日経ってようやく熱が少し引いて外に出され、道端で聖職者と会った。

彼は私の顔を見ながら「御両親は私の言葉をわかってくださいました、あなたも神の愛に感謝を」と満足げな顔で宣った。

生き返った私の心は再び死んだ。



10歳の冬の夜、屋敷が全焼した。

兄が父の煙草を持ち出して自室で吸い、その不始末によって全てが炭と化したのだ。

父は真っ先に逃げて無事だった。

母と兄は逃げ遅れて亡くなった。

私は一命こそ取り留めたが、焼け落ちた木材に顔をえぐられ、左目を失い、顔の左半分に大きな傷痕が残った。

頬やこめかみは木片で切り裂かれた上で焼かれ、喩えようもなく醜くなった。

これに加えて眼球まで瞼ごと焼かれてちぎられ、傷口から灰や炭が入ったのか光を失った目は灰色に濁ってしまった。

よほど見るに堪えないのか、顔を隠すのは失礼だろうと私を叱る人間は、素顔を見せると必ず顔色を変えて後ずさる。

度し難い。



父は全てを失った。

息子の起こした火事で屋敷と財産が残らず焼けたのみならず、妻子を見殺しにして自分ひとりだけ逃げる醜態まで晒したのだ。

名誉を重んじる貴族社会にもはや居場所はなく、私を連れて逃げるように故郷を去り、帝都の貧民街に移り住んだ。

あれだけ疎んじていた、しかも原形をとどめない醜い顔になった私を、どうして帝都まで連れて行ったのか。

簡単だ。労働力がほしかったからだ。

私は朝から晩まで働かされ、その収入は全て父の酒代に消えた。

左半分が焼けただれたこの顔では接客などできない。ぼさぼさの髪で顔を隠しながら、古本屋の書庫番として雇ってもらうのがやっとだった。

父は全く働こうとせず、もはや何の役にも立たない爵位にしがみついて「どうして俺がこんな目に」と、家や酒場や路地裏で毎夜境遇を呪った。

父の渾名は「男爵」になり、私は皮肉と悪意をこめて「姫君」と呼ばれた。


「姫君も没落貴族の娘なら、娼館に入ればいっぱい客とれるだろうにな」

「見世物小屋の間違いだろ?」


貧民街で流行ったくだらないジョーク。お前は女としての存在価値すらないのだと嗤われることは、体が育ちつつあった私の心を更に打ちのめした。

娼婦にすらなれない出来損ないを養ってやってるだけ有り難く思えと、泥酔した父は恩にならない恩を毎日のように着せた。



11歳の冬。

炊き出しをしていた地元の聖職者が流刑になった。

愛を説く者への嫌悪と不信感は決定的になった。

身に沁みて悟った。

この世に愛などない。悪意か自己満足が愛の皮を着ているだけだ。

逃げ場もない。何処へ行っても付きまとうのは侮蔑と嘲笑。黙って大人しくしていたら必ず踏みにじられ笑い者にされる。

敵だ。何もかも全て敵だ。遠巻きに侮辱してくるか、間近で食い物にしようとしてくるか、世界にいるのはその二通りの敵だけだ。

食われてたまるか。

死んでたまるか。

殺されてたまるか。


毛布のないベッドで震える私の胸に、声が聞こえた。


強くなれ。

力をつけろ。知恵をつけろ。

男も女もない。大人も子供もない。

自分を守るものは自分しかいない。

自分を成長させるものは自分しかいない。

強くなれ。

この左目と傷痕を嗤う全てのものを打ち倒せ。

愛を説いて足を引っ張る全てのものを蹴り剥がせ。

姫君、偽の宝石、そう言って見下す全てのものを叩きつぶせ。

お前は独りだジルコニア・カナリー。

生まれて独りでなかった時など一度たりともない。

だから独りで強くなれ。独りだけで強くなれ。

これからお前が震えるのは寒い冬だけだ。

それ以外で震えるのは時間と体力の無駄だ。

強くなれ。

ただ強くなれ。

それが、それだけがお前の生きる道だ。ジルコニア・カナリー。


それが私の心の声だったのか、それとも啓示だったのかはわからない。

でもその声を聴いて震えは止まり、私の中には真っ黒な火が灯った。

後に「覚醒」という言葉を知った。この時の私の心境はその一言で全て言い表せる。



翌日から私は、最優先で魔法の勉強を始めた。

女である私にはまず、不測の事態にも対処できる暴力としての魔法が必要だった。

働いている古本屋の在庫に魔導学院の古い教科書があって、書いてある通りに魔力向上の訓練を行って、一週間でごく簡単な魔法を使えるようになった。

全ての基本となる火水風土の四大魔法。私はその内の風魔法を主に鍛えることにした。

風の力があれば不埒者や飛び道具を吹き飛ばして近づけずに済み、無駄に傷つけることがないから護身術として最適。素人なりにそう考えてのことだった。


魔法と並行して、義務教育の子供向けの教科書も勉強した。

暇さえあれば読み漁って書き写して、それを家に持って帰ってひたすらに復習した。

まともな教育を受けてこなかった私に教科書は全く知らないことだらけで、字も書き馴れてなかったため幼児のような雑な文字しか書けず、名前すらまともに書けない自分があまりに情けなくて何度も泣きそうになった。必死に噛み続けた唇の裏には消えない痕が残った。

私が勉強していると知った古本屋の主は、姫君が学者さまになったぞと皮肉を言いながら鼻で笑い、方々に噂を流した。

その噂を聞きつけた街のチンピラは、お前のような奴が勉強したって無駄だと、諦めない私に飽きるまで何度もノートを奪って嘲笑った。

別のチンピラは、プレゼントだと言って割れた眼鏡を私に押し付けた。レンズ両方揃ってるけどごめんなーとニヤニヤ笑いながら。

覚えた魔法で何もかも吹き飛ばしてやりたかった。その度に、そんなことを考える余裕があるなら鉛筆をとれと、心を殺して涙を堪えた。


体も鍛え始めた。昔の軍の初年兵の指導要綱に載っていたトレーニング法。腕立て伏せ。腹筋。スクワット。

最初は1回がやっとだった。毎日繰り返すうちに10回できるようになり、20回できるようになり。

食事も重要だと気付き、給金が減らされたと言い訳して父の酒代を減らし、食費に充てた。コストパフォーマンスを上げるため料理も覚えた。

古本屋の主に賄いの量を少し増やしてほしいと頼んだら、そのかわりに虫や煙草の灰が入るようになった。

その度にいちいち除けて食べる。主はニヤニヤ笑ってその様子を眺めるだけで何も言わない。馬鹿がと思った。



12歳の夏。初潮が来た。

家庭向けの医学書を読んで知識はあったから、ひとりで冷静に対処できた。

周りにそれを教えてくれる大人はいなかった。月経やナプキンという言葉すら自分で調べるまで知らなかった。

何も知らずに初潮を迎え、突然の出血に取り乱して周りに相談しおぞましい視線に晒されていたかと考えるとぞっとする。

私より少し年上の男の子は麻薬に溺れていた。

恐喝や窃盗強盗で得た金を全て薬につぎこんでいた。

なぜそんなことをするのかと聞かれた彼は「薬を吸うと空腹がまぎれるから」と答えた。


改めて思い知った。知識は剣であり盾だ。なければ死ぬ。殺される。

この世はどこまで行ってもゴミ溜めだ。傷と汚物にまみれてゴミ溜めを這い回るのはもう御免だ。

ゴミ溜めが綺麗にならなくても、自分の周りを住みよくすることだけはできる。

学べ。鍛えろ。強くなれ。

努力を怠るな。お前の存在を嗤うゴミクズに耳を貸すな。愛を説き足を引っ張る偽善者に流されるな。

私の中の黒い火は音もなく燃え盛り、炎となった。

固く握った拳につむじ風が巻いた。



13歳の冬。

古本屋の主が死んだ。

私が殺した。


食事とトレーニングの甲斐あって、私の体は女らしく成長していた。

胸は思うように膨らまなかったが、腰にはくびれができ、尻も穿くパンツに困るぐらい大きくなっていた。

私を嗤う貧民街の噂は「あれで顔さえまともならな」「頭に袋かぶせろよ」となっていた。

その日、いつものように書庫に入ると、主が内から鍵をかけた。手には空の麻袋が握られていて、股間はおぞましく隆起していた。

突然の出来事に私はひっと息を呑んだ。それが合図になったかのように主は私に襲い掛かった。

しかし部屋の隅に押し倒され頭に袋をかぶせられた瞬間、混乱していた私の頭は一気に冷静になり、肩の力が抜けた。

それを諦めたと誤解した主は私の服をはだけさせ、乱暴に体をまさぐり始めた。

私はなされるがまま、油断を誘うため時々わざと嫌がってみせた。

そして私の下半身が裸にされ、主がズボンを脱いだ瞬間。


全力で、風魔法を発動させた。


魔力を鍛えた結果、満杯の酒樽を持ち上げて吹き飛ばす程度の風魔法は使えるようになっていた。

ただ、全力で発動させたことはそれまで一度もなかった。

いい機会だから試しに全力を出した。

殺すつもりはなかった。でも、死んでも別に構わないと思った。


内側から吹き飛び、瓦礫が周囲の建物に刺さるほど全壊した書庫。

頭に袋をかぶせられて怯える半裸の書庫番の私。

天井ごと空に飛ばされ床に叩きつけられて息絶えた店主は、ズボンも下着も下ろしている。


「純潔を散らされそうになり錯乱した少女が、緊急避難として風魔法を加減せず放ち、結果として死に至らしめた正当防衛事件」


警察は即座にそう判断し、私は一度取調べを受けただけで無罪放免となった。




貧民街の人間は私を嗤わなくなった。

頭蓋骨が凹んで首があらぬ方向に曲がり、鼻や耳から夥しい血を流した店主の死体は、少なからぬ住民の目に触れた。

頭が悪い人間ほど、物理的な暴力の怖ろしさを即座に理解する。

ジルコニア・カナリーを嗤えば、醜い姫君と呼んで馬鹿にすれば、体だけなら価値があると手を出せば、次にああなるのは自分だ。

子供も老人も娼婦もゴロツキもそれを悟り、誰もが私の顔を見ると愛想笑いを浮かべて接するようになった。

生まれて初めて、誰からも馬鹿にされない虐げられない生活を手に入れた。

酒臭い口で嫌味と罵倒しか発さなかった父が、何も言わず目も合わせずそのまま寝床に入った時、私は生まれてきてよかったと心から思った。


そして、絶望した。


誰にも頼らず、自分ひとりで力と知識を手に入れた。

窮地を切り抜けた魔法も、窮地で冷静に働いた判断力も、全て誰にも教えられず自分だけの努力で身に着けた。

その結果、世界は簡単に引っ繰り返った。()()()()()()()()()()()

私をずっと絶望させ続けたこの世界は、独学で習得したたった一発の魔法ですぐに引っ繰り返る、その程度のものでしかなかったのだ。

そんな取るに足らないくだらないものに誇りも尊厳も何もかも奪われ、永遠にも思える長い時間地べたを這わされ続けていたのだ。


悔しい。

聖職者が妄言を吐いた時にこの知恵があれば。

母が私を殴っていた時にこの魔力があれば。

せめて家族なら呪われた名でも娘の名を呼べと抵抗できる意志さえあれば。

私はもっと早く救われていたはず。

悔しい。

私は歯を食いしばって泣いた。

こんなことで生の実感を覚えてしまった自分が悔しかった。

奪われることに馴れすぎて、当たり前に取り返しただけで天にも昇る心地になった自分が許せなかった。




私の13年には地獄しかない。

得たものは少なからずある。それは今でも私の中に確かに宿っている。

それでも、それを上回る後悔が全てを塗り潰している。

私の右目に見えるものは何もかもが灰色だ。

もう思い出したくない。関わるものに近付くことすらしたくない。


この街を出よう。

帰る場所はなくても行く場所は作れる。

父が黙った今ならお金を貯められる。

適当な働き口を見つけて、何ヶ月か頑張って、ひとりで何処か遠い街へ行こう。魔法があればどうとでも生きていける。

新しい人生を、掴もう。



───魔導学院の職員を名乗る二人組が書類を手に来訪したのは、そう決意して新しい仕事を探そうとした矢先のことだった。

13歳の冬の終わりだった。

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