Lesson 81 記憶喪失...?
「じゃあお前があのアドリアナなのか?」
アンバーの琥珀色の瞳がアドリアナを食い入るように見つめるとビクッと肩を震わせたアドリアナはすぐさまルークの背後に隠れた。
未だ凛と交替する様子は無く転移の事を知っているアンバーに事情を話す為、ルークはアドリアナを連れてアルバアラス寮のアンバーの部屋を訪れていた。
「あの...そうです」
「魔法も使えなくなったって?本当に?」
「はい」
「うっそだろ〜!!またまたそんな弱そうなフリして!!」
アンバーが豪快に笑っているかと思うと一瞬でアドリアナの目の前まで間合いをとる。気づいた時には目の前にアンバーの顔と振り下ろそうとしている手刀が見えてアドリアナはぎゅっと目を閉じた。
「...っ!!」
〈あ、あれっ?痛く...ない?〉
アンバーの手刀が振り下ろされたはずなのに身体の何処にも当たっていない事に不思議に思ったアドリアナがそっと目を開けるとアンバーの腕を掴んで宙で静止しているルークの腕が目の前にあった。
「言っただろ?今のマレ令嬢は転移する前の11歳だ...幼い令嬢を怖がらせるなら僕が相手になるけど?」
ジャスパーは部屋にいないしとりあえずアンバーだけでも事情を話しておこうと思ったんだがこいつは頭を使う前に手が出る奴だったな...
「フォルティス公子...ありがとう...ございます」
アドリアナの蜂蜜色の瞳が薄ら涙で滲んでいる。
「は...嘘だろ...ホントに!?ホントにアドリアナか!!」
いつものアドリアナなら素早く反応して俺の攻撃くらい難なくかわすはずだ。アドリアナがルークの服の袖を掴むとか、ルークに素直にありがとうとか...絶対言う訳ない!
ルークに掴まれた手首が痛むのかアンバーは左手で右の手首を摩っている。
「だからさっきからそう説明してるだろ...はあ」
*
「〝記憶喪失〟っ!?」
「シッ、声抑えて」
アンカーズ帝国学院の夏季休暇が終わり授業が始まった今日、僕は放課後、学院の図書室にパラス令嬢とフォンス令嬢を呼び出した。今朝まで待ってみたもののマレ令嬢と凛が交替する事はなく、マレ令嬢によれば凛に話しかけても返答が無いとの事だった。
今のマレ令嬢の状況では授業もまともに受ける事ができない上、周囲の友人達とも会話が出来ない...
今日の授業はとりあえずマレ令嬢を休ませた僕は、アルバアラス寮でマレ令嬢と同室のフォンス令嬢とパラス令嬢が今のマレ令嬢が別人だと気づかれるより先に彼女達を納得させる必要があった。
アンバーとジャスパーはマレ令嬢の中に凛が転移している事を知っているがこの2人には言ってないようだしマレ令嬢の承諾なしに僕が勝手に言う事は許されない。本当の事は言えないが、彼女は11歳から最近まで眠っていて数年間の記憶はないのだから記憶喪失というのは全くの嘘ではないしこの2人には記憶喪失と説明した方が都合が良いだろう。
「〝記憶喪失〟というのは...私達の事は何も覚えていないと言う事ですか?」
「ああ、ちょうどアンカーズ帝国学院に入った後から今までの間の記憶が抜けてる」
「そんな...!!」
悲しげにアドリアナを見つめるリリアーナはティナの腕をギュッと掴んだ。
「ちょっとフォルティス公子...またアドリアナになんかしたでしょっ?」
「え...」
ドキッ
〝なんか〟と言われて心当たりが無いわけでもないルークの視線が一瞬斜め下方向へ泳いだのをティナは見逃さなかった。
「アドリアナが記憶喪失になるとかよっぽど凄いショックを受けたとしか思えない...何したのっ!?」
...当たっているだけに言い返せない。
「記憶喪失を治すには記憶喪失になった時と同じ衝撃を与えると記憶が戻る...と本で読んだ事がありますわ。フォルティス公子、試してみてはいかがでしょう?」
「試す...って...」
いや、アレを今この2人の前でやれる訳無いだろ。
思い出して困惑しているルークをティナとリリアーナは不思議そうに見る。
「試さないの?」
「試してみませんの?」
似ていないようで似た者同士の2人が同時にルークに詰め寄るように言った。
「いや...さすがに」
2人が少しずつ距離を詰めるようににじり寄って来たため、思わず『此処ではできない』と言おうとしたルークだったが今まで黙って成り行きを見守っていたアドリアナが静止するように腕を広げて2人の前に立ち塞がった。
「え...」
「あら〜?」
いつもならルークを庇う事など絶対しないはずのアドリアナが2人の前に立ち緊張から震えている様子を見てティナとリリアーナはにじり寄るのをやめて今度は興味深々といった様子で瞳をキラキラさせている。
「ふ...2人ともっ、フォルティス公子を困らせないで下さい!私が記憶を失った原因は...原因は...」
なんだか可愛いですわ...幼い頃のアドリアナのようです。
リリアーナは必至にルークを庇いながら記憶喪失の原因を言おうとするアドリアナの姿を微笑ましく見守っていた。
「原因は?」
「私の苦手なスパイス入りの激辛スープを間違って飲んだせいですから!!」
「え...スープ?」
予想外のアドリアナの言葉にティナはきょとんとしたがリリアーナに『どうなの?』と目配せする。
「...そういえば甘いデザートばかり食べていたから気づきませんでしたけれど、アドリアナがカリーを食べた所を見た事がありませんわね」
カリーは数種類のスパイスと豆や肉で煮込んだ料理で辛さは普通から激辛まで色々だが、そういえば此処で凛がカリーを食べているのは僕も見た事がないな...確かに日本にいた時凛はカレーは甘口しか食べなかった。さっきは僕を助けるために苦し紛れに絞り出していたようだけど...この娘も辛い料理は苦手だったのか?
「え〜!?そんな事で記憶失くすってアドリアナどんだけ辛いの苦手なのよ〜っ!?」
いやカリーのせいで記憶喪失になった訳ではないのだが、とりあえずマレ令嬢が言っている事を信じてくれたみたいだからこれはこれでいいか?
ケラケラと楽しそうに笑うティナとリリアーナを見てルークはホッと胸を撫で下ろした。
「では記憶が無いなら魔法も使えないのでは?授業はどうしますの?」
「その事なんだが...」
**
アルバアラス寮ーーー
「なあ?今日俺アドリアナにまだ会ってないんだけどさ〜寮に帰って来てんの?」
「そういえば俺も見てないな...リリアーナ、アドリアナは?」
「え...あの...」
リアムとライリーが今日の夕食を乗せたトレイをテーブルに置いてティナとリリアーナの隣の席に座る。先に夕食を食べていた2人は目を合わせリリアーナは何と言っていいか分からずに黙り込んでしまった。そこでティナが機転を利かせていつも通りの元気いっぱいの声で隣に座ったリアムに少し顔を寄せて告げた。
「アドリアナは〜巫女の修業でしばらくキルケ王国に行くって!」
「ええ!?アイツ...やっと進級出来たとこなのにまた休んで大丈夫なのか!?」
「大丈夫よ〜リアムと違ってアドリアナは優秀なんだからっ!」
「ム...なんかその言い方腹立つな?」
「確かにアドリアナなら大丈夫か」
ライリーは静かにうなづきつつスープを飲んでいる。
「でもさあ、最終学年で休むとか...卒業出来るのかよ!?いくらアドリアナが巫女見習いで優遇してもらってもさー卒業試験は休めないだろ?」
最終学年には卒業式の2月前に大事なテストがある。この卒業試験でアンカーズ帝国学院の生徒は全科目合格の判定を取らなければ卒業できないのだ。
「あの...その卒業試験は学院じゃなくても受ける事ができるそうですわ」
「はあ?なんで!?」
記憶喪失が治るまでフォルティス公子がつきっきりでアドリアナに魔法と座学を教えると聞いた時は私も驚きましたけど...フォルティス公子はアドリアナの事、皇太子殿下の命で仕方なく婚約した訳ではやっぱりないのだと今回の事で確信しましたわ。
「ふふっ...」
放課後図書室で聞いたルークの話を思い出して微笑っているリリアーナの代わりにちょうど食事が終わったティナが教えてくれた。
「ルークがアドリアナの巫女修業に同行するからよ」
ーーリアムや私達4年生の誰一人として知らなかった事だけど、実はルークは3年生の時点で既に卒業試験を満点に近い成績でクリアしていて卒業資格を取り終えていた。それと同時に修士を取得して今ではアンカーズ帝国学院の非常勤講師という肩書きを持っている。
ダビデがまだ捕まっていない事もあって、ルークが卒業に必要な勉強を教えるという条件付きでアドリアナは巫女見習いの修業を許されたらしいんだよねーーー
ティナがルークから聞いた事をざっくり説明するとリアムとライリーは『ゔぞっ!?』と今までに聞いた事がない声をあげた。
「えっえっ?何?アイツ頭が良いどころかナニ先に卒業して仕事始めちゃってんの!?」
「まあルークはとっくに働いてたけどね、皇太子殿下の下で」
「でもさあ?ライリー酷くね?ホントアイツって秘密主義だよな?アドリアナと婚約した事も事後報告だしさ?そんな事一言も言ってなかったよな!?」
そりゃリアムはお喋りだから...と3人は思ったが黙って聞いていた。
「アドリアナも俺達に挨拶もなしで修業に行くとか冷たいじゃん」
アドリアナから何も知らされなかったのが余程ショックだったのか〝友達だと思ったのにさあ〟とリアムはまだブツブツと言っている。
それは記憶喪失になった事を知られたくないから...とリリアーナとティナは思ったがにっこり微笑んだリリアーナがリアムのやる気を引き出す的確な一言を放った。
「では私達も早く卒業試験を受けてアドリアナを追いかけましょう?」
〜3週間後のアンカーズ帝国立図書館〜
「あの一角...異様な雰囲気だな?試験期間でもないのにアイツら勉強熱心だよなあ」
「あれ?アンバー知らないの?皆卒業試験を繰り上げて受けるつもりらしいよ?」
「はあ?何で?」
「うーん、早く卒業したいとか?...アドリアナがキルケに行った事と関係してるのかなあ?」
「...お前が今勉強してるのって皇宮の書記官になる為の試験勉強だよな?」
「それもあるけど...」
ジャスパーの手元には学院の座学のテキストが開かれている...




