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僕は友達が少な…くて悪いか? ー世界の深層への招待ー

作者: せる せろり

けっこう、硬い感じの文章が長く書かれています。内容は読んで損はないはず、と自負していますが、一番刺さる人は現実に不条理に苦しめられていて、それを受け入れられずにもがいている人だと思います。

不条理に対する解釈は、深層心理につきますが、今回はそこへの入門的な哲学になっています。深層心理はこういう論理展開ではなく、象徴としての物語的解釈になるので、実はフィクションの方が適当だったりします。

「正義は必ず勝つとは限らないし、悪は必ず裁かれるとは限らないし、努力は報われないことのほうが多いし、信頼が裏切られることはよくあるし、善意がもたらす悲劇は世の中に溢れている」

 -『僕は友達が少ない』平坂読著(MF文庫)9巻p.141より


 『僕は友達が少ない』というのはライトノベルの古典的名作だと言われる。ライトノベルというよりアニメが有名らしいが、私はあまりアニメは見ないので何とも言えない。ちなみに私がライトノベルを通常の文学より愛好するのは、現代の若い世代の等身大を研究しているからであるが、実像とずれていることくらいは知っているので安心して欲しい。え? 誰も心配してない? まあ、そうか。


 古典文学よりも現代の心情を研究する方が、新しい愛の表現もわかるし、私は現代社会に欠けているのは愛だと思っているから、そのさまざまな表現形態や内容について考える材料になるので、単純に読んでいて面白いというのもあるが、ライトノベルは好きだ。本当はマンガも範疇に入れたいが、紙数的なコスパの問題と出版されている量の問題、あとは絵やイラストは即物的だと思ってしまうのと、自分のストライクゾーンが狭いというのもある。ほぼほぼストーリーが目当てなので、ライトノベルの方が期待できる。マンガも評判なのを読みたいと思うことはある。


 マンガだと『政宗くんのリベンジ』は好きだった。純粋にストーリーとマッチした絵が好きなんだろうな。あれは何というか罪もないし、実にかわいい。あ、個人的な趣味です。


 好きなライトノベルとか一度、披露してもいいが、今回のお話の主題ではない。そう、今回の主題は冒頭の文章だ。もう一度引用しよう。「正義は必ず勝つとは限らないし、悪は必ず裁かれるとは限らないし、努力は報われないことのほうが多いし、信頼が裏切られることはよくあるし、善意がもたらす悲劇は世の中に溢れている」。


 これは人間界の事実だと思う。この認識があるから今の人間界の歴史にはドラマが生じている。言ってみれば、この認識に関連して、信じる道や理想を掲げて現実に抗う人々と、現実の悲劇を助長する勢力、さらには諦観する者たちのドラマが地上で展開されている。諦観しつつもなんとか人生を充実させるために抗うのが、現実の面白さなのかなと思うし、この引用元のライトノベルも9巻以降の展開はその救済について語られる気がする。それはそれで実に人間らしくて面白い。


 だが、フィクションやドラマ、あるいは完全に他人事では、不運は面白いというか、不条理の味付けはおいしいというか、そういうのは認識したうえでも、さて自分がその犠牲となるときに救済される道や理解する道を示すべきではないかと考えるのは、宗教や哲学に親和性のある人間の仕事だろう。


 このテーゼに関して私の結論を言ってしまおう。「正義は必ず勝つとは限らないし、悪は必ず裁かれるとは限らないし、努力は報われないことのほうが多いし、信頼が裏切られることはよくあるし、善意がもたらす悲劇は世の中に溢れている」と言った時の、正義、悪、努力、信頼、善意を誰がいつどこでどう解釈しているかが問題である。


 もっと端的に言おう。正義なら負けない、悪なら裁かれる、努力なら報われる、信頼なら裏切られない、善意なら悲劇にならない。つまり、負けるなら正義ではないし、裁かれないなら悪ではない。報われないなら努力ではないし、裏切られるのなら信頼ではない。悲劇を招くなら善意ではない。


 これはかなり異常な考え方ではある。でも、世界から不条理を実質的に排除する道はおそらくこれが唯一だろう。受け入れがたいと思うので、一つ一つ見ていこう。細かく説明してしまったので、長い文章が苦手な人は短く言い切った標語も付けたので、そこから感じることをくみ取って欲しい。



【正義】

標語1:「正しいことはいずれ正しくなるから正しいのです」


 正しいことを捻じ曲げてまで間違いを押し通せば、直後ならば身近な環境は従ってくれるかもしれませんが、十分な時間がたてばもっと大きな環境が牙をむくことになります。つまり見える範囲を不正で支配しても、見えなかった範囲から正しさはやがて不正を犯した者にも見える範囲まで迫ってくるのです。正しいことは正しいからこそ、絶対にそれは正しく実現するのです。


 正義が負けたように見えるのは、正義を信じる心を折られてしまって、その時点で正義ではなくなるからなのです。本当に正しいことは信じ続ける限り正しいことは正しくあり続けます。そして、正しいことは間違っていることも含めて理解できる正しさを得たときに、初めて正しくなるのです。正しいは見えるものも見えないものもすべて含めて、いまだ正しくないことも含めていずれ正しくなるから正しいのです。


 これが理解できないのは、一つには人生を見える世界の現実と重ねて、その意味の解釈を諦めるからです。もう一つは嘘や虚偽(つまりは正しくないこと)は自分を正義だと思い込む信念の中にも容易に忍び込むからです。一つ目の帰結、正義は正義の心を放棄した者には絶対に微笑みません。二つ目の帰結、いかにして正しくあり続けることができるかという真摯な追究の心なくして、正義など保てません。正義を語るのであれば、正義の内容は常に更新されなくてはいけないし、真摯な姿勢で誤謬や嘘も包括して正義の探求を続けるという、基本的な正義に対する信念を守り通して生きなければならないのです。それができた時に初めて、正義を信念として持ち続けるという偉業が達成できます。


 なお、正しいことなどない、という信念(現代の主流のポストトゥルース)は、いずれは正しさの前に降伏し取り込まれます。なぜなら、正しさはその信念をも正しさの中に取り込んだうえで、さらに正しいから正しいのです。そもそも正しさがなくて、なぜ正しいという意味が理解できるのでしょうか。実際に意味が理解できてしまうという紛れもない現実が正しいことがあることを示唆します。そう、これは物理的現実の話ではありません。完全に概念の話です。しかしながら、世界とは見える範囲の物理ではなく、見えない範囲も含めた全体である概念の方が本物なのです。これはほんの少し、自分の認識能力の限界を疑ってみると、本来はあっさり理解できることです。


 もしそれでも理解できない、そんなはずはないと思うのであれば、きっとその時点で正義を追究するだけの信念は放棄していることを自覚できるはずです。物理的な(感覚できる)現実が全てだ、という確信の先に、概念の世界はあるので、その確信の地点で探求をやめた者には理解できないのが概念の世界です。物理を信仰する者は概念世界を理解できませんが、概念世界からは物理的価値観は自分たちの理解している概念世界の一形態として理解できます。理解できないと言って概念世界を信仰と呼ぶのは、物理世界を信仰しているから可能なのです。概念世界は信仰ではなく、物理世界も足掛かりにしたうえで、より深い根拠を持って思考されるものです。


 知らないことを知っていること(無知の知)をわかっているからこそ、知識も理解も更新されていきます。知識と理解こそが正しさとなり得るものですが、完全な正しさはいずれ正しくなることによってしか正しいとはわかりません。正しさは現在ではなく、未来に確定するのです。この認識なくしては、科学の歴史すらあり得ませんし、今後の科学の存在意義もありません。そして、その未来に確定する正しさは、時空(物理の世界)を超えた概念(意味の世界)の中で理解できるのです。



【悪】

標語2:「裁かれないのであればそれは悪ではないのです」

標語3:「世界のどこを探したって、悪意を持とうと願う人はいないのです」


 一つには悪を為しながらも、裁かれているのに気がつかずに過ごすことはあります。悪、つまり不正に慣れて心が歪めば、敵を作らない振舞いは難しくなり、今後必要となる復讐への対抗策、防衛策はうなぎのぼりになりますし、そもそも計算ができない要素に対処しつくすことはできません。つまり対抗策や防衛策を用意しないなんてあり得ませんし、また、それを周到に用意できたとしても、いつまで裁かれないままいられるかという不安を感じる限り、悪であり続けることは、その不安が完全にない時よりは居心地の悪いものとなるでしょう。それは幸福を開放的に味わうことを根源的に妨害します。また悪は後に説明する信頼という無償の関係を築きにくいです。いつか崩壊することを約束されているようなものです。


 見える範囲だけで思考する限り、悪の勝ち逃げは可能かもしれませんが、悪が不正に属するのであれば、正しいことはいずれ正しくなります。つまり、一時期、見える範囲でうまく支配できても、見えない範囲から正しさは襲ってくるのです。それが物理的現実を見る限りはいつになるかというのが確定しないだけです。そして概念世界では悪や不正は否定、死、無と同じ系列に属します。さらに正しいことは正しいから正しいので、不正の存在は本来は幻想(無)なので構造(悪を為すものの生命など)を保ち続けることはできません。


 そもそも存在してはいけないような悪ならば、なぜ存在しえたのでしょう。また、純粋な悪というのがあるのであれば、なぜ誰かがそれを支持し、用いるのでしょう。悪とは解釈です。ある立場から見たときの不都合を悪と呼ぶだけでしょう。傷つける、もっと言えば殺すという自明に見える悪すら、現実を生きるにあたって、これを厳密に犯さない存在などあるのでしょうか。程度問題というのであれば、どこに境界を設けるのでしょうか。


 悪についても、正義と同様です。裁かれないのであれば悪ではないのです。それはいずれ未来に確定するのです。現在に悪を見つけるのは不毛だと言えましょう。そういう意味であれば、悪を糾弾する行為そのものも悪になり得るのです。むしろ解釈や立場によっては完全な悪だとも言えます。



【努力】

標語4:「正しく努力して報われないのであれば、それは正しくなかったのです」


 何事も結果を得るのには、完璧に道筋が計算され、完璧にそれが遂行され、降りかかる障害が完全に排除されてもなお、不確定要素が排除できない限り、100%になり得るかどうか自明ではありません。努力はこの現実を認識するところからスタートすべきです。つまり報われる努力を考えた場合に、結果を指標とするのはほぼあり得ないということです。


 では何に向かって努力するのか。努力することそのものが価値があると考えるべきでしょう。つまり努力をする時点で既に価値がある場合においてのみ、正しくその努力は報われるのです。現在進行形で報われているのです。ですから、望んだ結果が出ない場合にも報われるのが努力です。望んだ結果が出なかった場合にも報われたと感じることができるなら、その努力は正しかったと判断すべきでしょう。


 なお、結果が本来の目的のための足掛かりである、つまり過程であると設定されているならば、どんな結果を経由しても目的を見失いません。結果が過程である限り、本当の目的のためには望んだ結果そのものであることに拘泥せずに済みます。また、結果を得た瞬間に努力が止まるのであれば、人生が守りに入ります。この場合の守るとはあきらめと同系列の概念です。あきらめれば試合(意味のある人生)終了です。


 その意味でも努力は報われなくても価値があると思う方法を選ぶべきです。目指すのは結果ではあり得ません。結果というのであれば、結果のさらに先にある目的こそ意識すべきなのです。正しい努力は報われます。報われないのであれば正しくなかったのです。逆にこれを指標とすることによって、自分が人生で何を為すために生まれてきたのかを知ることもできるでしょう。努力が正しく報われた感じる結果が、自然と出てしまうようなことをすることこそが、人生の目的だったのだと言ってもいいでしょう。


 また、主体的に人生の目的を定めた場合は、正しい努力がわかりますし、努力はそれだけで価値があるのを見出すでしょう。どんな結果が出ても報われたと感じますし、そういう努力こそが正しい努力なのです。人生の目的も、努力の目標も、柔軟かつ広範囲に、強く保ち続けることができること、という条件を意識するなら、きっと人生のすばらしさにも触れることができるでしょう。そして、人生の本当の目的が、このすばらしさを味わうことだったのだと実感できることすらあるでしょう。



【信頼】

標語5:「信じるとは裏切られても信じ続けるから信じるなのです」

標語6:「無償の信頼こそが人生の感動の源なのです」


 そもそも信頼するというのは実に重い作業です。まず自分が他人を信頼するかどうかの基準を策定すべきです。そしてその基準に則って信頼するかどうかを決定したならば、信じて裏切られるとしても、それは信じた自分の責任です。裏切りは相手の行動に帰せられません。裏切りだと感じることがあるのであれば、基準の方が甘かったのです。


 基準の策定にあたっては、次のように考えてみることもできるでしょう。


 そもそも生身の人間というのは「都合」に支配されます。信頼関係とはこの「都合」と無縁ではありません。信頼関係において重要なのは、自己中心的な個体の「都合」より他者との良好な関係を保つ「都合」を優先できるかという見方も出来ます。信頼とは良好さを保とうとする範囲において有効となる自己中心的な「都合」に関する概念であるとも言えます。


 関係の良好さを保とうと思わない人には信頼はまず持つことはできないでしょう。そして信頼とは永続的なものです。信頼をなくすのには、理解できる範囲を超える自己中心的な「都合」を一度でも優先したという事実で十分です。信頼が永続性にこそ価値があると見なすなら、一時の利己性の優先は非常にコストパフォーマンスの悪い一撃になります。瞬間で全てなかったことになるのです。一番、裏切りとなる「都合」は約束を守らないこと、そして嘘でしょう。


 友情も愛情も社会的な関係もほとんどが「相手を可能な限り尊重する」という暗黙の了解があって成立するのに、それを簡単に破る振舞い(約束を守らないこと)や嘘はそれを完全に覆すからです。「可能な限り」という部分はそれぞれの価値観や度量、理解力などに支配されますが、約束の一方的破棄や利己的な嘘や隠し事はこの概念を超えていくことが多いのです。もちろん、それも「可能な限り」の範囲に入れる人もいるかもしれませんが、むしろそこまで寛容になれること自体に、第三者からは信頼を得られなくなるケースもあると思います。


 なお、嘘や隠し事を間に挟んで束の間の信頼を保とうとする人もいますが、その意図は永続することはありませんし、その事実がわかった時の信頼失墜は他の要因よりも一段激しいものとなります。


 これを踏まえて、信頼の在り方については自分のことも反省すべきでしょうし、他者を見る目も養うべきでしょう。誰でも彼でも信頼するというのは逆に自分で責任をとる気がない態度です。裏切られたときには糾弾して相手をなじる気満々なのです。それでも成立するのは、もはや信頼関係なのではなく互恵関係に過ぎないのです。信頼関係とは、表層的な互恵関係以上の深層の互恵関係だと言えるでしょう。


 自己中心的な「都合」に流されず、誠実さを掲げて真剣に生きていれば、信頼関係ゆえに得をすることも実際にありますし、そんな期待をも覆した地点にある、互恵関係にとどまらない信頼関係こそが、生きている実感である感動の源なのです。


 見返りを求めない、つまり「無償」とは表層的な意味でそう言うだけであって、深層まで理解するならばしっかりと自己の「都合」へと遡れるものなのです。ですから、信頼を大事にするべきだというのは、単純に道徳的な押し付けではありません。むしろ一般的に、ただ根拠なく示された感覚的な道徳は疑うべき対象です。この信頼の概念の下に、正しさや責任を考えることもできるでしょう。



【善意】

標語7:「善意は持ち続けるだけでこそ価値があるのです」

標語8:「すべての悲劇の真因は善意が無造作に表現されることにあるのです」


 善意は誰にとっても素晴らしいからこそ善意です。そして善とは正しさと無関係ではなく、正しさは追究し続けるものです。また、正しさも善も時空間の一点(歴史のある時点や地域)で絶対的に決定することはありません。ですから、善意は具体的に表現されたときには悪と解釈される可能性を常に有するのです。


 そういう意味において、善意とは表現しないところまでを厳密には言います。善意を表現したとたんに、それは善と悪に分離する必然なのです。概念には絶対的な善が存在しますが、物理的現実には善は悪と同居することしかできないのです。悪を太極として含む場合のみ、善は成立するのです。


 「やらぬ善より、やる偽善」という言葉がありますが、やる偽善は誰かにとって悪だから偽善と呼ばれます。善意というのは概念なので純粋であり得ますが、善と思って為したことは自分の意志が関わることがなくなった時点で、いつでも悪に転換するのです。善を為すというのであれば、すべて偽善となりうることを理解すべきでしょう。その認識がない場合は、元をたどって善意が善であるかどうかすら危うくなるのです。


 ですから、現実を生きる次善策としては、善意に達するために正しさを追究すべきなのです。正しさの追究の過程で為すことであれば、それが善と解釈されようが、悪と解釈されようが、自分の中では完全に善意となります。ですから須らく行為は善意から発するのではなく、善意を持つために行為するべきなのです。それだけが本当の善に達する道なので、偽善というのは本人が善だと認識しているからこそ醜悪でもあります。


 誰もが非難する悪を為すことよりも、善を確信して行為することの方が実質的な罪は大きいのです。この認識がないと社会はどんどん固定化された道徳が信仰されるようになり、その道徳は絶対的な正しさはないのでそれを嘲笑う存在が台頭することで、正しさの作用により反省を促されるようになります。ある社会や個人において道徳的な悪が出現するのであれば、そこで善とされる行為にこそ(その道徳の存在こそ)、悲劇を生んでいる真の原因ではないかと疑うべきです。善意は善としては表現されません。表現されたときには善と悪に必ず分離するのです。


 善は正しさに通じる概念です。正しいことは常に追究の対象ですし、善意とはその追究する意志にこそふさわしい名前です。そして正しいことは正しくなってみないと正しいとわからないのです。ですから、正しいのではないだろうか、と行為してみるしかありません。行為の結果が責任とれるようであれば、正しいの範疇だと考えていいでしょう。


 ですから最初から善であろうというのは無理です。行為してみた結果を受け取り、それを考えることで正しさを磨いていく。これが善意です。現実的に表現されたら、絶対にどんな行為も善と悪になるのです。その時代の多数者が善と決めることが、正しいわけではないですし、知識や理解が足りない状態で自明だと信仰する善が正しいわけでもないのです。


 決められた善を表現することよりも、正しさを追究する善意を内面に宿す方が価値があります。その善意だけは誰が何と言おうと、正しいという意味で善でしかありえません。この善だけは時空を超えて成立します。いえ、これももちろん疑うべきことですから、自分の経験の中で確認していくべきでしょう。こういうことを意識するのが習慣になれば、それだけで人生は圧倒的に充実すると思います。この充実を人生の素晴らしさと感じることもあるでしょう。



 さて、説明は以上である。ほとんど理解できなかった人が大半で、理解できたとしても受け入れられない人も多いだろう。また、なんとなく言ってることはわかるけど、そういう考え方もあるのね、と流し読みしてしまう人も少なくないはずだ。たぶん、この文章を理解できるとしたら、世界を諦めないで追究している人でしかありえない。そして、追究している人はここに書いてあることを足掛かりにして、さらに正しさの探求に進めると思う。


 概念世界の正しさである形而上学に到達したなら、冒頭の現実的世界観は概念による理解の光により、単なる現実に過ぎないことがわかる。そのとき、正義も悪も努力も信頼も善意も、そうであって欲しいと望むとおりにあり続けることが実感できるだろう。世界は決して不条理なのではない。単に世界の深層を理解していないからそこに必然が見いだせないだけなのである。


「世界は完全に秩序の下に存在している」


 それがわかったとき、そしてその知恵を用いて現実に対処するとき、人生の素晴らしさを体験する。まさに素晴らしいという体験である。こういう哲学の探求の道以外にこの素晴らしさに到達できるのは、現実では深くて永続的な相思相愛だろうと思う。この関連などについてはまたいずれ。



<まとめ>

 1:「正しいことはいずれ正しくなるから正しいのです」

 2:「裁かれないのであればそれは悪ではないのです」

 3:「世界のどこを探したって、悪意を持とうと願う人はいないのです」

 4:「正しく努力して報われないのであれば、それは正しくなかったのです」

 5:「信じるとは裏切られても信じ続けるから信じるなのです」

 6:「無償の信頼こそが人生の感動の源なのです」

 7:「善意は持ち続けるだけでこそ価値があるのです」

 8:「すべての悲劇の真因は善意が無造作に表現されることにあるのです」

フィクションよりエッセイの方がやっぱり楽に書けます。そもそも私には虚構を構築する才能がないのかなと思います。連載小説、止まっています。最初に決めていた方向性が、迷走し始めたのです。生徒会なら、政治的なことをしてみてもいいのではないかと、魔が差したのがまずかったです。


タイムリープや予言に関して、系統的な考察でもしようかなと思うのですが、それってタイムトラベル系のSFに対する、メタな視点からのネタバレになるレベルにしないと成立しない話かなとも思うので、気が引けたりもしています。


連載小説、なんとか書いていこうとは思っているのです。しょせんは習作ですけどね。絶望的に拙いってことくらいわかっちゃってるのですよ。

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