707 尾行
それなりの収穫を胸にブックメーカーを出たメインクーンは、あまり周囲を見渡さずに歩き出した。
時刻は夕方。
もうしばらくすれば陽は完全に沈むだろうが、すでに路地裏は暗いことだろう。
「そうしたら出てくるか、にゃ」
なるべく緊張感を出さないようにしながら表通りから裏路地へと足を踏み入れる。
まだ道幅は広い方だ。
立ち並ぶ店の裏口や住居の勝手口にゴミ箱や空の木箱、甕などが並んでいる。
それに何人か座り込んでいる浮浪者の姿もあった。
メインクーンはそれらを気にしない素振りで奥へと進む。
この先にもう少し狭い路地と人が近寄らない下水道の入り口があったはずだ。
街のマップはこの数日で頭に叩き込んであった。
木箱の上に座り込んでいる浮浪者の前を通り過ぎてから少しして、ふいにささやき声が聞こえた。
「尾けられているぞ」
振り向いたメインクーンだったが誰もいなかった。
直前にいた木箱の上の浮浪者の姿もない。
ぼろい外套を頭からすっぽりとかぶっていたので外見はまるでわからない。
ただ低い男の声だった。
気を取り直してメインクーンは歩き始めた。
さらに奥の細い路地に入ると案の定、明かりはほとんどなく薄暗かった。
好都合だった。
メインクーンはすぐ後に路地裏に入ってきた者の足を引っかけると、体勢を崩したそいつの首根っこを掴んで壁に押し付けた。
暗がりで身を潜ませたので尾行者がメインクーンを一瞬見失ったのだ。
逆にメインクーンは相手をよく観察できた。
思ったよりも小柄であったため、自分でも押さえられると思いそのような行動に出たのだ。
「私を尾けている奴がいたのは気付いていたにゃ。目的は何にゃ」
最前の忠告は大きなお世話。
言われるまでもなくメインクーンはこの者の存在を気付いていた。
酒場で四人の若者と話し込んでいた頃から目線を感じていたのだが、彼らを巻き込まないためと、人出の多いところで目立つ行動を避けたわけだが。
しかし、押さえ付けた手の下でもがいているのは、なんともみょうちくりんな奴だった。
「お前、何者にゃ?」
じたばたしている手足はメインクーンよりも小さく細い。
焦っているのはまるわかりで、必死に声を上げないようにしているが、漏れ出る喘ぎはまだ幼さを感じる。
おそらく十代前半ぐらいの娘だろう。
種族はニンゲンだと思われる。
薄汚れた顔にこれまた汚れたベストとショートパンツ、ショートブーツの出で立ちだ。
「は、はな……はなして」
「大声を出したり、逃げようとしたりしないにゃ?」
コク、コク、と首を振って了解の合図をする。
メインクーンはそいつを解放してやった。
地面に立つとそいつは脱兎のごとく駆けだした。
「へへっ、バーッカ」
捨て台詞を吐いて逃げ出したので仕方なくメインクーンは仕込んでおいた糸を操作した。
「ヒギッ」
突然身体が縛られたように動けなくなって娘は倒れ込んだ。
メインクーンの操る不可視の糸が全身を縛めていることに本人は気付いてもいないだろう。
「言うことを聞かないから。お前誰にゃ?」
「言う訳ないだろう」
「じゃあ仕方ないからここに放置して帰るにゃ」
「ちょ、ちょ、ちょっと! こんな臭い所に置いてかないでッ」
必死に呼び止める娘に立ち去りかけたメインクーンは再度質問した。
「あ、あんたを見張ってたんだよ」
「どうしてにゃ」
「盗賊だろ? いつあいつらからスリ取るのかと思ってさ。へへへ」
「はあ」
あいつらとはあの四人のことだろう。
ちなみにメインクーンは何も盗ってはいない。
市井の人の生活を脅かすのは良しとしない性格なのだ。
悪人ならば容赦もしないが。
見たところこの娘は盗賊稼業を始めてまだ間もない未熟者のようだ。
どういう経緯でこの世界に足を踏み入れたのかは知らないが、この程度では早晩痛い目を見ることになるだろう。
と言っても辞めさせる権利も義務も持ち合わせてはいない。
この未熟者の今後に責任を負うのも御免だった。
「さてどうしたものかにゃ」
「ど、どうするって? 謝るから無かったことにしてくれないの?」
「そんな甘え……」
たしなめようとしていたところで近付く気配に気が付いた。
いや、気が付くのが遅かった。
いくつだろうか。
周囲を何人かに囲まれていた。
暗い路地ではあるが表通りに出るには来た道を戻るしかない。
「こいつらもお前の仲間かにゃ」
「は? あたいはいつだって独りだよッ」
「それは悪かったにゃ」
となるとこの未熟者を人質にしても意味はない。
置いていって酷い目に遭ったとしたら目覚めも悪い。
「仕方ない」
「う、わっと」
未熟者を抱え上げるとメインクーンは路地の奥へと走り出した。
「そっちは下水道の入り口しかないよッ」
「逃げ道もこっちしかないにゃ」
少なくとも正体がわからない以上、直接お目にかかる前に逃げれる可能性に賭ける。
この街は鉱山をくりぬいた後に住居が追加されていった半地下都市だ。
そのためトンネルが街中至る所に繋がっている。
別の出口を目指して走る以外に今はなかった。
残念なことに不穏な気配は包囲を狭めてきていた。
どうやら人違いではないらしい。
メインクーンか、この未熟者か、用があるのはどちらなのか。
「尾けられているぞ」
忠告してきた謎の浮浪者の言葉が思い出される。
「ちっ」
奴の言っていたのはメインクーンも気付いていたこの未熟者のことではなく、今追ってくる奴らのことだったのだ。
この未熟者がメインクーンを尾行していることを利用して、こいつらはこの未熟者を追跡したわけだ。
それならば私の警戒はこの未熟者に向いてしまう。
「シャマンやクルペオには言えないミスだよ。とほほ」
小娘を抱えたメインクーンは下水道へと繋がるトンネルへと踏み込んだ。
ほとんど酒に手をつけなくて良かったと思いながら。




