687 ジャック・ザ・スレイヤー
鉱山都市コランダムへの途上、立ち寄った漁村はアマンにとって至極退屈な村だった。
ピエトローシュの女領主エリスとの戦いで、オーヤとシオリの目的地であった冥界への穴が塞がれてしまった。
その戦いではエリス側は地獄より大悪魔アスモデウスを召喚。
対してオーヤは残り少ないマナで最も近場にいた力ある者を召喚した。
それがアマンだった。
アマンとアスモデウスの戦いは苛烈を極め、周囲の地形をことごとく変えてしまうほどだった。
結果として冥界の穴はふさがり、エリスはお付きのメイドと共に逃走。
シオリとオーヤは仕方なく、別の冥界の穴がある場所、すなわちコランダムへと目的地を変更した。
そしてアマンは、未だオーヤに召喚された身であることから自由に制限を掛けられたままで、ここまでこうして旅についてこざるを得なかったのだ。
「挙句こんな寂れた漁村でもう三日も足止めだもんなぁ」
台風が近付いているからと、村の漁師は家に引っ込み、海岸には誰の気配もない。
並は素人目に見ても荒れていて、空は厚い雲が西から東へとものすごい速さで流れていく。
湿った空気は生ぬるく、夏を間近に控えて噴き出す汗が不快でならない。
「雨に濡れるのも御免だし、オレも戻るとするかな」
アマンが振り向いた先にはここ数日、寝泊まりに使っている空き家が見えた。
少し前までその家で暮らしていた漁師がいたそうだが、ここ、アーカムを統べる妖精女王ティターニアの呼びかけに応え、傭兵志願者として出て行ったそうだ。
そのような行動を起こした者は他にもいた。
それはこの村だけではない。
周辺にいくつか点在する漁村では、この数年、満足いく漁獲量とは言えないそうだ。
そんな折に妖精女王がアーカムの誇る戦闘怪人ケンプファーへの志願者を募った。
ある者は富と名声を求め、ある者は貧しい暮らしを憂い、養うべき家族のためにと村を出た者が多かった。
だが帰ってきた者はいない。
そして村の働き手を減らした今、窮状はさらに深刻なものへとなっていた。
いや、ひとりだけ帰った者がいる。
そのネルスという名の青年は、数日前に村へと戻ってきた。
ひどく傷ついており、村へと辿り着いた途端に意識を失った。
それ以来目を覚ますことはなく、幼馴染だというアーシと言う娘が付きっきりで看病していたが、誰もが回復は見込めないと思っていた。
そんなところへ、アマンとオーヤとそして、シオリの三人が訪れたのだ。
「おいッ」
シオリたちの居る小屋へと歩きだしたアマンに向かい、突然背中から声を掛ける者がいた。
少ない村人たちの特徴はすでに大体把握している。
その中で今の声、態度、なによりアマンに気配すら悟らせず背後へ忍び寄るなんて、該当する者が思いつかなかった。
油断なく振り向いたアマンだが、奇妙なことに荒れた海が見える以外、この砂浜に誰もいなかった。
岩陰にも、朽ちた小舟の残骸にも、他に隠れられるような場所にもどこにもいなかった。
「こっちだ」
再び背後から声がして、振り向くとそこに一匹の猫がいた。
濃い目のグレーの体毛はスッキリとしてスマートな体躯。
特徴的なのは黄色に光る大きな目だ。
ただの猫。
ただし言葉をしゃべる。
「よお。オレはジャック。オレのことは知ってるか?」
猫は自らをジャックと名乗ったが、アマンは彼を知らなかった。
「チッ。そうかい。だがオレはお前のことを知ってるぜ。オンラクからも聞いてるしな」
「オンラク! てことは、お前も怪猫族か」
オンラクとは黒猫のバステトで、マグ王の城でレイともども、アマンも厄介になっている人物だ。
「チッチッ! オレは確かにバステトだが、ただのバステトじゃあない。人はオレのことをこう呼ぶんだ。ジャック・ザ・スレイヤーとな」
「殺し?」
「ああそうだ。殺しだ。ヴァンパイア専門のな」




