654 cherry blossoms 【桜】
その日、エスメラルダの王都エンシェントリーフにいた人々は、例外なく眠らずに一夜を過ごした。
日が沈むころになって最近話題の公衆浴場〈バブリーミューズ〉で客十数人が行方不明となる事件が起きた。
翡翠の星騎士団が調査に赴き、数時間後、突如として街全体を長い地響きが襲った。
多くの者が建物の外に出てみると、なんと法王のおわす宮殿の背後から貯水池のオアシスを割って巨大な山がせり上がった。
それは山ではなかった。
宮殿よりも大きな、山のように大きな釣り鐘型をした樹だった。
やがて地響きが止み、その大樹のせり上がりも止まったころ、街中、いや、国中から歓声が上がった。
大樹の枝に薄桃色の花が一斉に開花したのだ。
砂漠の真ん中に現れた、巨大な桜。
誰もがその桜を見上げた。
盗賊ギルドの長であるボンドァンもそのひとりだった。
「これが、あの薬師の女がエスメラルダを贔屓にすることの正体か」
シャマンたちに便宜を図ってやったものの、どうやら彼らには今夜の内にはもう会えそうもない。
そう考えに至り、ボンドァンは踵を返した。
ナナに先導され、シャマンたちは大樹の根元から宮殿裏に這い出た。
騎士団が招集され、被害者の客たちを保護し、周辺の警戒、監視に出発し、シャマンたちは重要参考人として連れていかれた。
もちろん犯人扱いされたわけではない。
運が良いというべきか、事件に巻き込まれた客の中にいたサキュラ正教の女神官がシャマンたちに助けられた事実を証言してくれた。
そのため翌日には無罪放免となった。
「盗賊ギルドに行って来るにゃ」
メインクーンは自由の身となると早速ギルドへ向かった。
しかしボンドァンには会えず、受付の女盗賊から「よくやった」という簡素な伝言を受け取っただけだった。
「オレも依頼主に会いに行ってくら」
シャマンもひとりで冒険者ギルドで請け負った、〈バブリーミューズ〉を調査する仕事の依頼主へ会いに行った。
広い邸宅の涼しげな中庭で、シャマンは三人の依頼主にこう報告した。
「あの店はオレたちが調査をする前に、地下から湧いて出た魔神の被害に遭って廃業することが決まっちまった」
事実は〈バブリーミューズ〉側が美容に効くと客に内緒でヘルススライムを浴槽に入れたつもりでいたが、実はよく似た魔神ヘルスライムであった、という完全なる過失によるものだった。
しかしシャマンのこの報告では魔神の出現は偶発的なもので、〈バブリーミューズ〉は運悪く被害を被ったという事に聞こえる。
シャマンの報告を三人の依頼主は疑いもせずに聞き入れた。
結果的には新興の商売敵は廃業に追い込まれ、頼んだ依頼は着手前に遂行不可能となり、無駄に報酬を払う必要もなくなったのだ。
彼女らとしては文句のつけようがない。
用の無くなったシャマンは急き立てられるようにしてこの邸宅を後にした。
「ま、ムカつかねえと言えば噓になるが」
そうつぶやいて、シャマンは遠くに見晴るかす宮殿と、その背後にそびえる巨大な大樹を見つめた。
「もっと大事なモンが今のオレ達には見えてるからな」
シャマンはくしゃくしゃに折りたたまれた今回の依頼書を破り捨て、仲間の元へと帰った。




