646 JOKER 【女媧】
飛び散るヘルスライムの粘液。
その向こう側に立っているのは黄金のドレスを身にまとったミナミ。
水面に立つミナミは怪しく不敵な笑みを見せていた。
「ミナミ……」
半身を起こした姿勢のまま、レッキスはミナミを呆然と見ていた。
「覚醒したのだ。アカメが言っていた、姫神の覚醒。ミナミはこれでシオリに追いついたのかもしれん」
ウィペットの声も震えていた。
今までのミナミとは比べるべくもないほどの神気に圧されていた。
「女媧、と言ったな。〈旧きモノ〉女媧」
「女媧ってのはなんなんだ? 自分で創世の女神とか言ったが」
クルペオとシャマンの会話を聞きとがめたミナミの顔が険しくなる。
「なんと! わらわのことを知らぬとぬかすか? たかが一万数千年の時を隔てた程度で伝承が途絶えておろうとは。人類も退化しているのではなかろうな」
ミナミの口から流れ出てくる言葉に辛辣な意味が含まれているんだなと、シャマンはそれだけは理解できた。
ウィペットも唸る。
「どうやらかなり古い神の類のようだ。我が正義の鉄槌神ムーダンや、慈愛の女神サキュラよりもはるかに」
「ムーダン? サキュラ? なんじゃそれらは? 神を名乗る新興の不届きものかえ」
あざ笑うようなミナミの声にシャマンたちはうすら寒さを覚えた。
「おい、あれは本当にミナミなのか? シオリは覚醒してもシオリのままだったと言ってなかったか」
「確かに。もしやミナミの精神は女媧と言う神に乗っ取られているのではないか?」
「もしくは強い影響を受けているかじゃ」
声を潜めたシャマンたちはミナミの様子をつぶさに観察した。
黄金のドレス姿のミナミは地下空洞に生えた巨大なサエーワの大樹を見上げていた。
「ん? そういえば、さっきから、なんか響いていないか?」
シャマンは今になって大樹から鳴動する波動のようなものを感じ取っていた。
ミナミもそれは感じたらしく、大樹の幹へ、ゆっくりと身体を浮遊させると高い位置まで飛んでいった。
そして手を伸ばし幹に触れる。
「ほう。これはなかなかに芳醇なマナを蓄えておる」
ミナミは満足そうに舌なめずりをする。
そのミナミの足の下から不穏な気配が漂い始めた。
「お、おい。ありゃあ、なんだ?」
周囲に弾き飛ばされていた女たちを救出し、介抱を始めていたクルペオやウィペットが、シャマンのただならぬ声の雰囲気に大樹の方を見た。
さきほど覚醒したミナミの魔力により、四散したはずのヘルスライムが再生を始めていた。
寄り集まった粘液の飛沫が再び巨大なスライムとなり、空中に浮遊するミナミの足先へと身体を伸ばしつつ近寄っていた。
「ヘルスライムが再生していますよ! やはり弾け飛んだ程度じゃ滅びません」
事態を悟ったラゴが叫ぶ。
「炎で燃やすべきですッ」
一同の慌てる声を聞き届けたミナミが足下のスライムに気が付いた。
「なんじゃ? まだやるつもりか」
ヘルスライムの先端が突然いきおいよく飛び掛かった。
まるで触手の様にミナミの足に絡みつくと思い切り振り回す。
振り回されたミナミの身体がサエーワの枝葉をビシビシとへし折っていく。
「この立派な大樹を傷つけとうはない。止めよ」
ミナミが手にした大剣で足を掴むスライムを殴打する。
それだけで激しい衝撃が巻き起こり、木の葉は舞い、水面は波打ち、スライムはまたしても弾け飛んだ。
しかし先ほどと同様、四散したはずのヘルスライムは三度寄り集まり、元の形へと再生する。
「ふむ。しぶとい」
感心したようにミナミはただ一言そう言った。
ヘルスライムはまた大樹の幹にとりつき始める。
それと同時にさっきシャマンが感じた地響きのような鳴動が再び大きく鳴り始めた。
「おい、あきらかに揺れてねえか?」
「たしかに。これは地震ではないだろうな?」
「こんな地下で地震なんて勘弁してくれにゃ」
「とにかくオナゴどもを起こすんじゃ! 逃げようにもこの人数を担いでいくことはできんぞ」
クルペオの焦る声に全員が女たちを起こし始めた。
「ミナミ! ここはヤバイんよ!」
レッキスの叫び声を聞いたはずのミナミはしかし、足の下で震えるヘルスライムに見入っていた。
スライムはいつの間にか大人しくなっていた。
しかし体色が赤く光り出していた。
「マナを吸ってチカラを得たか? 正体を見せい」
ミナミのその言葉が合図となったのか。
突然ヘルスライムの身体が大きく膨らんだ。
そして風船のように破裂したかと思うとその身体が巨大な人型に変身する。
『…………小賢しい女狐め。我を何と心得る……』
それはまさしく悪魔であった。
上位魔神。
「そうか! この地下の大樹に引き寄せられて来たんですよ! どうやらこの木は神聖な物らしい。魔神であるヘルスライムが、異界にいるときの本来の姿を取り戻せるぐらいに」
ラゴが叫んだ仮説を聞いている余裕はシャマンたちにはなかった。
地下空洞の天井から崩落が始まったのだ。
ヘルスライム・デーモンの魔力がほとばしり、地面の岩盤を引き裂き始めていた。
それだけではない。
さっきから始まっている鳴動はどうやら大きな地響きであるらしい。
轟音と共に地面がせりあがった。
「大樹の根だッ」
またしても驚きの光景が浮かび上がった。
輝くサエーワの大樹の根が、泉の下から伸びて出現したのだ。
さらに大樹自体が振動を始めると地面が大きくせりあがる。
天井の崩落は止まず、光が差し込んできたかと思うと同時に大量の水が雨の様に流れ落ちてきた。
「おやおや。天に穴が開き、洪水を起こすとは。わらわが天に柱を立てた時と似ておるな。創世の頃のようじゃ」
なにやら感慨にふけるミナミにヘルスライム・デーモンが襲い掛かった。
その身体はミナミの十倍はあろうかという、身体は粘液質のまま、赤黒く光る悪魔のような巨人であった。
天井から流れ落ちる滝のような水を浴びると巨人の身体から蒸気が吹きあがった。
周囲に熱を発しているようだった。
「久方振りの現世じゃ。少し運動相手になっていただくか」
そう言って大剣を構えたミナミの背後で、サエーワの大樹が身震いするように、山のようなその大きな幹を天へと伸ばし始めていた。




