620 mistress 【女主人】
神殿からの道のりを歩ききったハナイは、宮殿の正面口で出迎えた大勢の臣下と他国からの来賓に向けて笑顔で応えていた。
常に微笑みを絶やさないハナイではあるが、さすがに今日は疲れが見て取れる。
十四日間に及ぶ修業堂での祈祷を経ての大路歩きである。
肉体的にもそうだが、精神的にも心労がたたって当然であろう。
それでも笑顔で応対している様を見るに、すでに法王としての準備は万端整ったと見てよさそうである。
「そうですか。結果、大事に至らなくてよかったです」
人々の集いから少し離れて立つアカメはひとり小声でなにやら呟いている。
彼の存在に気付いた者は特別何かが引っ掛かると言うほどのことではないが、不思議な顔をしてもすぐにハナイに注意が向かっていた。
「ですが結局暗殺者を倒した者の正体は掴めませんでした」
アカメの耳にだけ声が聞こえているのだ。
アカメはその声の主に向かい返答していた。
「死体は無くなっていたと言いましたね?」
「はい。ひとつだけですが、数人で場を洗浄しているところを確認できました。ですが手際よく済ませると人混みに紛れ追跡は断念せざるをえず……」
耳元で聞こえる声はハクニーの時と同じ少年の声だ。
「何者だと思いますか? ウェイフェオン」
「わかりません。ですがアーカムの者ではないでしょう。土地勘もあるようでしたし、動きを見るにニンゲンのようでもありました」
「騎士団絡みでもないとすれば、この国に他にも何がしかの組織が潜伏しているという事でしょうか」
「……ご命令とあらば」
ウェイフェオンは情報収集に長けたシーカーだ。
命じれば答えを探り当ててくれるだろう。
「いえ、あなたも疲れたでしょう。今日の所は撤収してください」
「いえ、僕はまだ……」
「妖精女王も探りを入れてると思います。密偵同士が鉢合わせても面白くはありません。撤収なさい」
「了解しました」
それで通信は切れた。
アカメは一息つくと見るとはなしに視界の片隅で妖精女王の姿を認めた。
女王は笑顔でハナイ新法王の面前に立ち、なにやら他愛のない話題に花を咲かせているところだった。
「いけしゃあしゃあと」
アカメは今回のハナイ暗殺計画を裏で企図したのはアーカムの妖精女王ティターニアだと踏んでいる。
廃棄番号とはいえ戦闘怪人が動いていたのだ。
女王が把握していないはずがない。
知っていて泳がせたか、そう動くように仕向けたか。
「どちらでも大差ない」
今朝女王がアカメに言い放った言葉のひとつだ。
妙にこのフレーズが頭から離れなかったのだ。
掴みどころのない不気味な女王ではあるが、結果に執念するタイプというよりかは、結果に応じて楽しむタイプのようだ。
「そういうタイプは一番やりづらい。手段が目的になっているのですから予測も立てづらい」
だがとりあえずはアカメのハイランドと女王のアーカムは直接的なやり取りはない。
ハイランドにとってその間にエスメラルダという緩衝地帯がある限りは。
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屋敷の裏手に目立たぬよう、黒塗りの小さな馬車が一台すべるように入ってきた。
御者台に座る犬狼族の老執事が馬車を止めると扉が開き、車内からひとり降り立った。
ぼろぼろのマントと鎧を着込み、左腕のあるべき場所はより厳重にマントを巻き付けて隠そうとしている。
フードを目深にかぶっているが長い白髪が見え隠れしている。
それは明らかに先ほどまでハクニーが追いかけ続けた謎の男であった。
男は老執事に導かれるようにして屋敷の内部へと入っていった。
その始終を上の階の窓辺で見ていたのが、この屋敷の女主人である。
じきに彼はこの部屋に来るだろう。
女主人は窓辺を離れ、扉の正面にあるデスクに腰掛け待ち構えた。
やがて扉の向こう側に気配が生じ、コンコン、とノック。
「ヒガ様、ただいま戻りました。お連れの方も一緒でございます」
「入りなさい、ブリアード。お連れの方も」
屋敷の女主人、ヒガ・エンジの前で扉が開き、老執事とぼろをまとった男が入ってきた。




