569 line of sight 【視線】
呆然と試合を見ていたウシツノの前に、勝利したアナトリアが歩いてきた。
静かなまなざしで小さなカエル族を見下ろしている。
「な、……」
何か用か?
ウシツノはその一言がなかなか口をついて出てこない。
ヤソルトは決して弱くはない。
だがこの豹頭族の戦士に全くと言っていいほどに歯が立たなかった。
知らず、ウシツノは汗をかいていた。
しかし、スッ、とアナトリアはウシツノを避け、控室へと下がっていってしまった。
「なんだ? あいつ」
ウシツノはようやくそれだけを言えた。
「お友達、大変でしたね」
「え?」
声を掛けてきたのはよく知った人物だった。
「ダーナ」
「ダナナ、です」
少しふくれっ面をして誰も呼ばない本名で訂正を入れる。
「まあ、もういいですけど。それより……」
ドン! と壁を殴りつけるような音がした。
「あ」
そこにヤソルトが立っていた。
長剣を引きずり、疲れた顔で立っている。
壁を殴ったのは怒りによるものか。
「大丈夫か?」
「どけ」
「きゃっ」
ウシツノの掛けた声を無視し、ダーナを軽く突き飛ばして、ヤソルトはふらつく足取りで自室へと帰っていった。
「あまりダメージはないと思いますけど。どちらかと言うと、精神的ショックの方が大きいのではないでしょうか」
ダーナの見立てはウシツノも同意見だった。
そしてその時にアナトリアの控室から小鬼族の支配人ピースウイングが出てきた。
愉快そうに笑っている。
こちらに一瞥をくれるとそれだけで何も言わずに去っていった。
「あいつ、何してたんだ?」
「おそらくチャンピオンと約束事でも交わしていたのでしょう」
「約束事?」
ウシツノの問いにダーナはコクンと頷く。
「たぶん、あなたのお友達は最初から殺されない予定だったんだと思います。それが上手くいって喜んでいたのでしょう」
「ど、どういうことだ?」
「ピースウイングのやり方です。こうやって剣闘士同士で因縁を創出するんです。人気のある者、極端に嫌われている者などは一度の試合で使いつぶすのはもったいないと考えている。たぶん今後の演出もまた練ってくるのでしょう」
「てことは、ヤソルトは本気を出してもいない相手に負けたのか?」
口に出しては答えなかったダーナだが、その眼はウシツノの疑問に対し肯定の意思をたたえていた。
おそらくヤソルトはそれに気付いたのだろう。
だがそれでも負けてしまった屈辱が、彼の心に怒りの火をつけた。
それも自ら降参してしまうほどに完敗だったのだ。
彼を嫌う観客たちのなかで、それと気付いた者たちは留飲を下げているのだろう。
「それにしても、一体何者なんだ? あのチャンピオンは」
「わかりません。彼は孤高で、誰とも共にしているところを見たことがありません」
「うーん」
すると控室からアナトリアが出てきた。
どうやら自前の部屋へと戻るらしいが、遠くから見ていたウシツノとダーナの方へチラリと視線を投げてよこした。
少しの間だが、こちらを見ていたかと思うと、背を向けて歩き去っていった。
「こちらを見ていたようでしたが」
「いや……」
ウシツノの声が小さく否定の意思をはらんでいる。
「オレのことを見ていた。なんでかは知らんが……」




