563 backbreaker 【バックブリーカー】
「聞いたか? 昨日食堂で会ったあの女、今夜試合に出るらしい」
ヤソルトが言っているあの女とは、剣の舞姫ダーナと呼ばれる女剣闘士のことだ。
もっとも、本当はダーナではなくダナナというと本人は言っていたが、すでにダーナで通ってしまっていて今さら誰も聞いてくれないらしい。
そのダーナが試合に出る。
「相手は?」
ウシツノの問いにヤソルトは肩をすくめる。
この闘技場で顔と名前が一致する人物をまだそれほど知らない。
「見に行くか?」
「袖振り合うも他生の縁、と言うしな」
ヤソルトの答えた言葉の意味がウシツノにはわからなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
会場は超満員だった。
座席数を大きく上回る観客が押し寄せている。
隙間という隙間に立ち見客が沸いて出ていた。
「人気ナンバーワンてのは噓ではなさそうだ」
試合が始まる前から会場のボルテージは上がっている。
正直言って皆の目的はダーナの出るメインイベントに集中しており、それまでの試合は前座扱いであった。
「相手はラクレスという名の大男でパンクラチオンらしい」
「パンクラチオン?」
ウシツノは知らなかった。
「古代の総合武術だ。打撃、投げ、関節技とあらゆる技法を使うらしい」
「武器もか?」
「知らぬ。そら、出てきたぞ」
会場から歓声が沸き立った。
闘技場内の扉が開き、皮の腰巻に編み上げのサンダル姿の大男が登場したのだ。
身長は二メートル近い。
体格も当然のごとく山のような筋肉に覆われている。
見たところ武器の類は持っていない。
「うおおおおおおおおおッッッッッ!」
ラクレスが雄叫びを上げると会場の壁が振動したように揺れた。
さらに大きな歓声が上がる。
反対側の扉が開きダーナが姿を現したのだ。
彼女は昨日のような簡素な服装ではなく、白い薄衣をまとい肩、腕、脚を惜しげもなく披露している。
首や腕、腿や脚首には金の輪を装着し、長い黒髪は後頭部でひとつに束ねて背中に流している。
手には二本の小刀を持ち、二本とも柄頭から翡翠の勾玉が十センチ程度の長さの紐で括りつけられていた。
なるほど剣の舞姫と呼ばれるだけに、踊り子を彷彿とさせる出で立ちである。
「オッズは四対六で彼女がやや有利だそうだ」
「接戦と言えるようだがあの大男も強そうだぞ」
ウシツノとヤソルトの見つめるなかで試合が開始された。
二人はともに接近するといきなり激しい攻防を繰り広げた。
羽衣のような衣装を着たダーナは、たなびく白い裾をひるがえしながら跳びはねて連続蹴りや回し蹴りを入れる。
ラクレスはガードした筋肉でダーナの派手な攻撃を防ぐとこちらも意外に早い殴打を繰り出しダーナを下がらせる。
それを追う形で大きな手で掴みにかかるがダーナも身をひるがえしてそれを躱す。
ひらひらと舞うような、という表現が似合う動きだ。
ダーナは手にした小刀も振るっているが、それは必殺の一撃というよりかは牽制に終始していた。
振ったり突いたりする小刀は、しかし余裕をもって大男に躱されている。
いや、仮に当たったとしてもあれでは致命傷にはならない。
ウシツノはダーナの振るう小刀が相手の急所をまるで狙わないことに違和感を覚えた。
「おっ」
しかし状況が一変した。
業を煮やしたラクレスが一旦距離を取るとダーナに向かい猛突進したのだ。
上体を低くしての体当たり。
圧倒的な重量とパワーでダーナを押し倒しもみ合いながら羽交い絞めにしたのだ。
「勝負あったか」
ヤソルトの声は冷静だった。
ラクレスはダーナの身体を抱え上げると喉と太股を抑え、両肩の上で背をのけ反らせるように絞り上げた。
「バックブリーカーだ。ギブアップしないと背骨をへし折られるぞ」
ヤソルトの冷静な解説はウシツノの耳には入ってこなかった。
会場中が大歓声を上げていて、隣の話し声すらかき消されていたからだ。
だが不思議なことにウシツノにはダーナの上げる苦悶の声だけはしっかりと耳に届いていた。
2025年6月9日 挿絵を挿入しました。




