559 Dracrocotta 【リュークロコッタ】
勝利したウシツノが開いた扉をくぐり抜けると、入れ替わりにヤソルトが闘技場へと姿を現した。
すれ違いざまに見たヤソルトの顔からは、心中を察する表情は読み取れなかった。
「恐れてはいないようだな」
戦士としての佇まいに変化はなく、ウシツノはひとまず安心した。
拡声器を持ち上げた小鬼族のピースウイングが嫌な笑顔で声を張り上げた。
「さあ今宵二番手となる新人戦士のデビュー戦でございまァすッ! この戦士、もしかしたら会場の皆様には見覚えがあるかもしれません」
観客たちの中にあきらかにざわつきだす者がいた。
「この戦士こそ何を隠そう、我らが妖精女王に最後まで歯向かい、愚かしくも多くの無辜なる民に死と絶望の哀しみを振りまいた暗愚の王、ヤソルト・クシャトリヤだァァァッ」
会場中がどよめきに包まれた。
「ヤソルトだとッ」
「伝統あるマハラディア王国を滅ぼした奴だ!」
次第に怒号が沸き始めた。
ヤソルトに対する憎悪、侮蔑、怒りの声が耳をつんざく。
「まだ生きてやがったのかッッ」
「殺せ! 敵討ちだ」
怒号は収拾がつかないほどに膨れ上がり、だがヤソルトは闘技場の中央で静かに対戦相手の登場を待っていた。
「なんでアイツはこんなに嫌われているんだ? マハラディアという国が滅んだのは裏切った奴がいたからだろう?」
「フヒヒ。世間ではあやつが国を捨て、民を売ったと知れているからな。マハラディアに縁故のある者や誇りを大切にする者からは嫌われているのさ」
「なんだと? それじゃあ……」
ウシツノの困惑を面白そうに笑いながらピースウイングが対戦相手の登場を宣言した。
ヤソルトと反対側の扉が開く。
「ひぃーっひっひっひっぃ」
薄気味悪い、女の嘆きのような声が聞こえた。
開いた扉の奥、暗がりから音を立てずにゆらゆらと一匹の獣が姿を現す。
大きさはロバぐらいか。
ライオンのような首と尾、シカの蹄、そして頭部はアナグマだ。
恐ろしいことに先ほどから鳴き声が人間のように聞こえる。
ニタリと笑った表情さえ見せるその耳まで裂けた口の中には一本につながった刃のような歯がギラリと光っている。
「対戦相手は腐肉喰らいの魔獣リュークロコッタのマリリンちゃんだァ」
観客が踏み鳴らす足音に会場が揺れる。
その揺れに合わせるように魔獣の身体も上下に揺れる。
ヤソルトは長剣メルパッターベモーを突きの姿勢で構えた。
獣らしく汚いよだれをいっぱいに垂らしながら魔獣が近付いてくる。
今日はまだエサを与えられていない。
目の前のヤソルトを獲物と認識したようだ。
突然に左に素早く跳んだ。
と思えば今度は右。
静かに音を立てず、右から左、左から右へと攪乱するように周囲を跳びはねる。
突きに特化した長剣メルパッターベモーは直線の突進者に対して真価を発揮する。
しかもヤソルトの右足には先のウシツノと同様に重い鉄球の付いた足枷が嵌められたままだ。
ドシンッ!
背後に回られたヤソルトの背中に魔獣が体当たりする。
普通の家畜であるロバでも体重は二百キロを超える。
当然この魔獣は大きさも重さもそれを上回る。
しかも野生のシカのように素早く跳ね回るのだ。
ヤソルトの身体が衝撃で倒れ込みそうになる。
しかしここでも足の鉄球が重しとなって彼が吹き飛ばされるのを止めた。
それが幸運とは言えないだろう。
上下に光る鉈のような歯を剝き出しにして噛みついてきたのだ。
急いで剣の柄頭で魔獣の下から顎を突き上げる。
ガキンッ、と歯を噛み鳴らして魔獣の口を閉ざさせるが突進の勢いは消せない。
もんどりうって地面に倒れたところを魔獣に馬乗りにされた。
会場が沸いた。
いかに手練れの戦士でも、二百キロ以上の魔獣に覆いかぶされ無事では済むまい。
こうなると得物は長剣よりもむしろ短剣の方が欲しくなる。
しかし与えられたのは愛用の長剣だけだ。
「ッッッ!」
魔獣の牙がヤソルトの右肩に食い込んだ。
痛みで目を見開くが声を上げたりはしない。
だがヤソルトを憎む観客たちのボルテージは上がりまくった。
握っていた長剣の柄からも手が離れる。
「いかんッ」
駆けだそうとしたウシツノを二匹のオーガーが押さえつけた。
「だめだゾ、剣聖。闘技中の邪魔はァ」
オーガーの拳がウシツノの後頭部を殴りつけ膝をつかせる。
「そこで大人しく見ているんダ。もう終わるんだから」
会場に悲鳴が響き渡った。
視線が闘技場の中央に注がれる。
全員が思わず疑念を持った。
魔獣リュークロコッタが前のめりに倒れ、その身体を押し退けるようにヤソルトがゆっくりと立ち上がったところだった。
悲鳴は魔獣のものだった。
目を凝らすと魔獣の左前足首があり得ない方向にねじ曲がっている。
骨が砕けているのだ。
そうなると巨体を支えることができず、地面に突っ伏してしまった。
ヤソルトは長剣を拾い上げるとよどみなく、刃を魔獣の首筋にあてて静かに切り裂いてしまった。




