532 zmeu 【ズメウ】
何ひとつ音のない暗闇の世界。
視界に入るのは空中より舞い落ちる氷の結晶ばかり。
足元は水気を多く含んだ雪が重たく降り積もり、行軍する一行の足を縫い留めようとするほど。
縦一列に並んで歩くその者たちはみな無言である。
余計な体力を使わないためか、それとも無駄話をする気質に無いだけかもしれない。
その足を一歩踏み締めるごとにシュウシュウという空気の漏れ出す呼吸音だけが聞こえていた。
先頭を歩く者だけが、闇夜をわずかに照らす角橙を捧げ持っていた。
その明かりが一行を照らし、かすかにその姿を浮かび上がらせる。
十人ほどのその隊列は、全員が大柄であった。
だがそれ以外何もわからない。
みなそろいのフードとマントで頭から足先まですっぽりと覆われているからだ。
朱に染められた厚手のマントは金糸で縁取られ細かな刺繍が施されている。
肩から背中にかけて重たい雪が乗っかっていて、どのような絵が編み込まれているかは判然としない。
彼らはそれからも小一時間ほど、雪の中を行軍した。
暗闇がなお一層濃くなっていくのは森の木々が周囲を覆い隠しているためだろう。
時折枝に積もった雪が重みに耐えかねて、どさりと落ちる音がする。
雪はなお一層強さを増し、一行に容赦なく吹雪の洗礼を浴びせていた。
それはこれから向かう場所が彼らを拒絶したいがための表れかと思わせた。
その場所は吹雪の中に静かにたたずんでいた。
巨大な台形をした石造りの聖堂であった。
入り口に向かう正面は十メートル以上の高さが伸びる大階段だ。
左右には鳥人の像が立ち、彼らと同じように肩や頭に雪をかぶっていた。
門番の類は見当たらない。
入り口に設置されたかがり火も消えていた。
時刻はとうに真夜中を過ぎている。
訪れる者もいないであろう。
それがどんなに悪しき出来心を抱えた盗賊であろうとも、この雪だ。
ましてここは人里離れた山深い森の中。
さらに中には一騎当千の兵どもが潜むのだから。
先頭の者が躊躇せずに入り口を潜った。
彼もまた恐れを知らぬようだ。
ここが世界の均衡を保つ、クァックジャード騎士団の大聖堂であることを知りながら。
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マスター・ハヤブサは閉じていた眼をゆっくりと開いた。
鳥人族の棟梁にしてクァックジャード騎士団を束ねる男だ。
その身体は大きく、筋骨隆々として威厳と自信がみなぎっている。
さりとてそこに凶暴さはなく、嵐というより波ひとつ立たない大海を思わせた。
彼は静謐が形作ったとしか思えないこの聖堂に来訪者が現れたことをいち早く察した。
人気のない堂内はハヤブサの両脇に焚かれたかがり火だけがパチパチと火の粉の爆ぜる音を響かせる。
上座に胡坐の姿勢で座していたハヤブサの前に、ほどなくして十人程度の足音が辿り着いた。
そろいのマントで身を隠した大柄の殉教者たちだ。
「久しいな、マスター・ハヤブサ」
ひとりがそう声を掛ける。
ハヤブサは片眉を吊り上げて相手を見つめるだけだ。
「この私が誰かわからぬわけではあるまい」
「クルムア。……竜人族の祭司クルムア」
「そうだ」
クルムアと呼ばれた者がフードを外すとそこにはドラゴンの顔が現れた。
他の者も追随する。
全員がドラゴンの頭部をした人型の亜人、ズメウという竜人族であった。
マントの下から窮屈そうにたたんでいた羽を広げる者がいる。
裾から鱗の生えた太い尻尾を伸ばし床石を叩く者もいる。
威嚇ではない。
彼らは単に身体を伸ばしているにすぎない。
だが尻尾を打ち付けた床にはヒビが走っていた。
「すまないな、マスター・ハヤブサ。我らに敵意はない。ただ生まれ持った剛力が時折抑えがたいだけなのだ」
「用向きは?」
ハヤブサは静かに問うた。
ただ問うただけだったが、クルムアの背後に控える竜人たちに緊張感が戻った。
目の前に座す鳥人族もまた剛の者である。
「竜人族が俗世に係わりを持とうとするなど珍しきこと。うぬらはたとえ世界が滅びようとも北の霊峰を下りることはないと思っておった」
「我らの教義は存じているはずだ」
「古代竜の崇拝」
ハヤブサの言にクルムアが喉の奥で祝詞をひとつ呟いた。
「古代竜、エンシェントドラゴンこそがこの世界を支配するにふさわしい。この亜人世界に最初に降り立った神人なのだから」
「伝説だ。確証のない」
「議論をする気はない。下界の亜人に我らの世界を理解できようもないからな」
「我らはうぬらが卑下するその下界を護るのが務めだ」
「調停者クァックジャード。では我らが下界に赴いた理由もわかろう。……ここに居たのだな?」
ハヤブサの目がすぼまった。
目線は氷の冷たさを漂わせ、一切の感情を見えなくする。
「隠しても無駄だ。火竜を宿した姫神が降臨したのであろう。よりにもよって、この、調停者の聖堂に」
「……」
「我らはその竜の娘御をお迎えに上がる。竜人族が古代竜を迎えし時こそ、この世界が真の創造を得るのだ」
「あの娘は古代竜ではない」
「今はまだ、な」
クルムアがフードをかぶると全員がそれに倣い聖堂を後にした。
「あの方らを立て挨拶に立ち寄ったまで。最期に会えてよかったと思おう」
場に静謐が戻ると、ハヤブサは背後に控えているはずの者に声を掛けた。
「コクマルを呼べ。急ぎタイランの元へ向かわせるのだ」
気配が離れるのを感じた。
この瞬間、マスター・ハヤブサの中に緊張が生まれた。
この場にただひとりであった。
しかし抑えがたい戦気をほとばしらせて近付いてくる気配が生じていた。
立ち並ぶ円柱の陰。
そのひとつからひとりの偉丈夫が姿を現した。
「〈力のズァ〉……」
かすかにハヤブサの声はうわずった。
「クァックジャードが欲をかいたか」
「……そうではない」
「お前たちには役目を与えた。相応の特権と共に」
「変革の時が来たのではあるまいか」
「それを判断するのは冥界の使者でも、調停者でもないのだ」
ズァはハヤブサの前に立ち、得物を振り下ろした。




